Verweile doch | ナノ

Act.1 白い鴉 -15



夕飯を済ませ、食器を洗ったフミさんが自宅に帰ると、サンルームでは三人が各自自由に過ごした。
私はコーヒーを飲みながら資料に目を通す林太郎の向かいで、この時代の新聞に目を通していた。「東京日日新聞」に、「読売新聞」、総合雑誌「国民之友」、「中央公論」も出してもらい、いくつかに目を通す。
春草はその私を真剣な表情でスケッチしていた。どうやら自分が納得がいくまではその手を止める気はないようだ。

少ししてひと段落着いたのか、春草はおやすみなさいと挨拶を交わして自室に戻った。時刻が八時半を回ったところで、私はどこか違和感を覚え、その正体を知る。

「ああ、そうだ林太郎。いくつか聞き忘れていたことがあったよ。」

「なんだい?」

林太郎はコーヒーをテーブルに置くと、かちゃりと食器が鳴る。その時になって先程からかかっていた蓄音機から流れる音楽が消えていることに気づく。聞く姿勢に入っている林太郎を見かね、中央公論を新聞や雑誌の束の上に重ねた。

「本来ならばフミさんに聞いておくべきだったが、タイミングを逃してしまってな。
私はどの部屋に住めばいいかと、洗面台、風呂場の位置を知りたい。
ああ後、歯ブラシの控えがあるならもらいたいのだが…。」

その言葉に再びぱちくりと目を瞬かせる林太郎。私は何かおかしいことを発しただろうか。

「ああ、もしかすると、歯ブラシはまだ導入されていなかったのだろうか。
朝夕に一度歯を磨く習慣があって、爪楊枝の役割をするのだが…。」

「ああ、歯磨きの習慣は現代にも存在する。来客用の控えが一つあったはずなので、それを使うといいとして…文乃。
この時代、風呂は通常家内にはない。」

その言葉に、今度は私が呆気にとられた。温泉大国日本に、風呂に入らない時代があったのだろうか。

「そ…れじゃあ、あなたはどこで体を洗っている?
銭湯か?」

「一般のものは銭湯へ向かうが、僕はたらいに湯を張り行水をしている。
共同浴場はどうも衛生上良くはない。おまえも行水するといい。」

少し考えれば分かることだった。一般家庭に大量の水を日夜流せるほどの金銭的余裕があったとも思えない。ドラム缶風呂が出来たのは果たしていつの話なのだろうか。

「衛生事情に関しては理解した。

しかし桶に湯を張って行水したとして、床は洪水になってしまうのではないか?」

これは単純な興味だ。実際にそれで身体を拭いたとして、ひとたび髪を洗った瞬間床への被害は測りしれない。滴る水滴をどう処理すれば良いのだろうか。


「ふっ……。それはだな、文乃。


床に水滴をこぼさぬ様に行水すれば良いだけの話だ!」



だから、その方法を聞いているのだろうが。



結論、切実にシャワールームが欲しい。現状、西洋のようにバスタブの上にカーテンをつけて湯を張るのが一番スマートなやり方に思えた。


*


「……とまあ、こういった塩梅なのだ。
本当は家の隅々まで案内したいところだが、生憎夜も更けてしまったことだし、今日のところはこのくらいにしておこうではないか。
なにか質問はあるかい?」

林太郎に厠(かわや/トイレ)の場所や洗面台の場所、蝋燭(ろうそく)やマッチのある場所などを案内してもらったところで、明治時代の視界の悪さというものを痛感する。窓が多い理由として、電気の代わりに太陽光を入れるのも目的としていることがよく理解できた。そのぐらい夜の屋敷内は薄暗く、電気の通っていない廊下は蝋燭一本を頼りにするにはどうも心許なかった。足元をうろつく黒猫の姿は完全に闇に隠れていて、その鳴き声しか届かない。踏んでしまわないかと言う不安も生まれる。
そこまで考えたところで、サンルームに戻ってきた私は思考を目の前の林太郎に戻した。

「感謝する、林太郎。
さしあたっては見当たらなかった。部屋に案内して貰っても良いか?」

もちろん居候の身からすれば家主が玄関で寝ろといえばそうするが、見知らぬ女を空き室のベッドに寝かせるほど寛容な林太郎なら何処か部屋を用意してくれているのだろうと踏んでいる。
案の定林太郎はうむ、と一つ頷くと、付いて来たまえと再び蝋燭を片手にサンルームを出る。



「ここからは二階に上がるからね。階段は特に暗い、足元には気をつけたまえ。」

そう言って彼は空いた右手を私に差し出す。彼の左手にある蝋燭が、その顔を幻想的に照らした。

「さあ、お手をどうぞ。」

粛々と、英国紳士のように洗礼された動作で出された手。その手を取れということなのはよく理解できたが、それをそう簡単に了承できるほど私は彼を信用しているわけではなかった。いくら暗いといえども、それは大げさだとも思う。よって私は、彼にこう質問せずにはいられない。


「……林太郎。」

「うん、なんだい?文乃。」

「たかが階段を上るためだけに、手をつなぐ必要があるのか。」


すると林太郎は、その右腕を腰に持ってきて、自信満々に言い切った。

「必要は、ある!
この館は暗い。もしおまえが階段で躓いたりでもしたらどうする。
僕はこの屋敷を預かるものとして、新たな入居者の安全対策に万全を期す義務があるのだよ!」

ものは言いようとは、つまりこういう事か。彼の発言に、「私の信じていた森鴎外と違う」と言うズレと、多少の呆れを覚える。林太郎は胸の前に軽く手を添えてお辞儀をした後、再び私の前に手を差し出した。これ以上の攻防は不毛と判断し、彼の手を取った。



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めいこいも史実の森鴎外さんも、ドイツで衛生学を学んで来てというもの銭湯や生物(ナマモノ)を衛生上良くないとし、公衆浴場には行かず家で行水をします。なんと鴎外さん、行水の際に自室の床に水を全く零さずに終えてしまいます。その妙技はまるで「茶の湯」の作法のようだと、周りの人も感嘆していた程だそうです。
髪が長かったら完全に神業ですね。…あ、洒落じゃないですよ。


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