黒子 | ナノ

梅雨前線が日本に下りてきた頃、帝光中学校は土と一緒に湿った全国の学生たちの憂鬱を跳ね除けるほどの活気を見せていた。
創立記念日と学園祭をかねたその日は、中間テストを開けた帝光中の生徒にとっては一年にして最大と言えるイベントの一つだ。
また帝光中の敷地面積はかなり広いことから、当日は朝から多くの来客が押しかけてくる。
テレビも回るので、学校側としてもこのイベントで来年の受験者数が決まると言ってもよいほどの重大行事だ。

いよいよ当日までの日が浅くなってきたところで、遊戯研部長の蘇芳美琴は、先程の一件思い出して一人溜息を吐く。



――遊戯研、正式名称は総合遊戯研究部。
昨年度の生徒会選挙で当選した現生徒会長は、今まで帝光中にあった様々な部や同好会の予算の改正や廃部整理という少数で活動している部活動に死刑宣告を言い渡した。
特に実績を残さずとも部費を貰えていた少人数部活動に不満を持った大人数部活動の生徒たちを味方につけて当選した生徒会長は、宣言どおり今年度からその改正を実行した。
また、削った部費を別のところに当てられるという利点からして教師たちの反応がよかったのも勝因のひとつだったのだろう。

存亡の危機を迎えた少人数の部は多数存在し、しかもそのほとんどが文化部。
5人以上の入部があり、かつ活動実績がある事を規定としたその案件は、数にしておよそ100人弱の生徒の部活動という青春の場を追いやられる結果となった。
来年には廃部しなければならない、という危機を救ったのは他でもなく上記の【遊戯研】。

囲碁部、将棋部、かるた部、花札部、オセロ部、チェス部・・・その部活を「科」として統合して【総合遊戯研究部】を設立させた蘇芳美琴もまた、チェス部の一員だった。
部にして20部、約70人という人数を吸収した【遊戯部】は、4ヶ月のうちに所属する全科に実績を作らせてバスケ部に次ぐ異例の人数の部を作り上げた。
それを矛に生徒会本部に部室棟の確保を承認させ、1,2階の部屋を全て【遊戯研】所有の者にすることを実現させた。
結果として【遊戯研】名義で多額の部費が手に入り、規定条件をクリアしている文化部でさえも傘下に入ろうとして結果的に部員数は90にも及んだ。
第三部室棟の3分の2を占拠した遊戯研の勢力を危惧して反発する部も少なくはなかったが、それ相応の対処を施した遊戯研の勢力に圧倒され、とうとう口を出す者はいなくなった。
また、その中には【遊戯】という言葉に当てはまらないがために廃部した部の反感も少なからず存在した。パソ研や琴部がそれに入る。

遊戯研のチェス科に籍を置く部長であり設立者の美琴も、元はといえば改正案の犠牲者の一人だった。
当時中二だった美琴のいたチェス部は、中三の部長と副部長、それに自分という3人だけの弱小部だった。別段、チェスに偏って思い入れが強いわけではない。
もともと遊戯において神童と謳われた美琴は、小学生の時に帝光中の学園祭に行った際に出くわした一人の少年の手がかりを見つけるために入学した。
ボードゲーム系の大会は必ず甲子園に名を連ねるほどレベルの高いと話題が上がっていた帝光中に道場破りして行った美琴が唯一負けた相手でもあり、尊敬の対象だった。

入学し、その人物との再開は案外早く叶った。
一年にして既に注目を浴びていたバスケ部のルーキー5人。
そのうちの一人という肩書きだけで、既に誰もが知っているほど名が知れた人であった。
名前は赤司征十郎。後に【キセキの世代】と呼ばれた10年に一人の天才と謳われる5人のうちの一人である。



話を冒頭に戻す。
私、蘇芳美琴は雫が無数に叩く窓の外を一瞥して、また溜息を吐き出した。
原因は明白。話題に上がった赤司征十郎がわざわざ第三部室棟まで足を運び、私の元へ来て言放った提案が問題なのである。




「学園祭当日は、オレと回るだろ。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・へ?」

「二度も同じ事をいわせるのか?」

相変わらず綺麗な笑みを貼り付けた赤司君は、いつもの様に人を振り回す発言を投下してくる。
自分の顔がいい事も、それが交渉において武器になることも重々承知している赤司君は、確信犯で安心させるような言葉遣いをするので一番扱いづらい。
私は買った際に付いてきた淡い色の栞を読んでいたページに挟み込むと、机の上に乗せ、一先ずとドアの近くにあったパイプ椅子を持ち上げて赤司君の元へ運ぶ。
はい、とだけ言ってで座るようにと差し出すと、畳んであったパイプ椅子を開いて机を挟んで私の座っていた椅子の迎え側に座った。
私はいつものごとくちょっとした台所で急須で入れた緑茶を赤司君用に用意された茶飲みに入れてお盆に乗せ、赤司君の右側にそっと乗せる。
すまないといった彼はなれた動作で部室にある本格的なチェスボードと駒を持ってきて、黒と白を分けて並べていた。
結局長居する気なのね、と話すとお茶を用意してくれたからな、と返される。用意しないとしないで言いがかりをつけてくるのを私は知っている。

私も少しだけ温くなってしまったお茶を口に含むと、チェスを並べるのを赤司君に任せて雨の音を聞いていた。

「じゃぁ、やろうか。」

前回はオレだったから、今回は君が先行だ、という言葉に甘んじてナイトを右斜めに出す。
暫く無言が続いたが、3手目を打ったところで、私はとうとう口を開く。

「私、今日何故貴方が此処に来たかが分からない。」

赤司君はビショップをポーンの前まで動かす。いよいよ敵陣の王の周りを囲む駒は一つもなくなったところで、ハッキリさせておかなければならない。
勝敗が五分五分の私たちの一局は、大体毎回色々なものを懸けたり、交渉したりと賞品をつけることが恒例になっている。

「ああ、そういえば言ってなかったな。
今回の賭け品は学園祭当日の君の所有権。
どうせ当日は部の事で動き回るのだろう?」

「・・・分かっているなら、誘わないで。
私がいないと進まないものがたくさんある。
それに、貴方と学園祭を回ることによって生じる私のメリットは?」

「オレと一緒は嫌なのか?」

「・・・どうしたの?貴方にしてはえらく消極的。」

いつもなら、「オレに意見するつもりなら君でも泣かす」ぐらいの横暴は言いそうなのに。
らしくない彼の言動とは裏腹に、ボードの上では油断ならない戦いが繰り広げられていた。

「オレだってさすがに理不尽な要求を提案しない。
遊戯研は今や帝光中バスケ部に告ぐ強大な勢力だ。
もちろん君も学園祭当日は遊戯研として動き回るだろうし、部員92人を動かす大変さはオレとしても理解しているつもりだ。

それを踏まえて、【学園祭を一緒に回ろう】と言っているわけだから、それを実行するためには君だけではなくて遊戯研の部員全員の許可を得なければならない。」

そこで一拍置いた赤司君。白ルークが自陣の黒ビショップの右斜めに置かれるが、此処で獲ってしまえば後ろに下がっている白ナイトが黒ビショップを獲ってしまうので放置。
ポーンを一歩進めた。

「結論・・・つまり、今回の【懸け金(ベッド)】は【正当な理由で私が一日部を抜けられるだけの条件を立てて欲しい】ということ?」

今現在の私の立場は”学園祭の一大イベントである遊戯研の出し物”を取り締まる人物。
当日まで、遊戯研で何かを動かすには部長である私の力が必要不可欠となる。
当日、理にかなって部を抜け出すには、それ相応の”結果的に私が抜けてしまう”という新たなファクターを立ち上げなければならない。
そして『遊戯研を納得させられるだけの条件』を、私に作れということだろう。
赤司君は此処に来て白クイーンを持って、嬉しそうに笑って見せた。置いた先は、自陣の黒キングの3マス前。
キングの前にはポーンが置いてあるとはいえ、クイーンが迫るというのは誰しも緊迫してしまう戦況だ。

「話が早くて助かる。
その代わり、宣伝にバスケ部の部員を誰でも引き抜くといい。どんなに忙しい奴でも動かしてやる。」

・・・確かに、これはすごくおいしい相談に聞こえる。仮に此処で黄瀬涼太を遊戯研に引き込もうとすれば、遊戯研のイベントの参加者の層が老若男女になる、というわけだ。
しかし黄瀬涼太は人気急上昇のモデル。きっとカメラも回るだろう。それに当日クラスの方に顔を出さねばならないだろうから、導引は難しい。

「なら私が勝ったら、その日一日貴方が遊戯研の頭を張って。
それなら私も午後は自由になるから。」

「それはオレが君と回れなくなるけど・・・まあいい。勝てばいいだけのことだ。」

赤司君が何故私にこだわるのかは分からないまでも、こちらとしても負けてもプラスマイナスでローリスク、勝ったらハイリターン、やらない手はない。
黒ナイトを白クイーンの斜めに移動させる。それによって万が一黒ナイトをクイーンが取ったとして、クイーンは自陣黒ポーンに獲られる、という寸法だ。

「・・・交渉成立。
正直、私が抜けて大丈夫かどうかはさておいて、黄瀬涼太の起用はありがたい。」

「なら、素直に負けてくれないか。チェック」

白ビショップによるチェック。
王の動ける範囲は右と左だけ。左に行けば赤司君の白ナイトでチェックメイト。必然的に右に入ることになる。

「それとこれとは話しが別。」

「チェック・・・相変わらず強情だな。
だが、君のそういうところが好きだ。」



「・・・・・・・・・・・・・・・なっ!?
ななななにを、いいだすの!冗談でもそんなこと!!!」

ボードに向けていた顔を赤司君に戻す。
不意打ちだ、何を言っているんだこの人は!
自分に落ち着け、と言い聞かせ、平常心を取り戻しつつ現状を把握。
王の位置はもう右端。斜めは黒ポーンがいて、左に戻れば先程チェックされた白ルークに横移動されてチェックメイトだ。

上しか退路がないという時点で気づくべきだった。そのときの私は、冷静さに欠けていた。
何も考えず、白キングを、上に押し上げる。
次の瞬間、冷静さを失っていた頭が冷え、自分の敗北を確信した。

「はい、チェック。」

「〜〜〜!!!」

上に言ったら、白の陣から動かずにいたもう一つの白ルークが、自陣の黒ポーン、即ち、黒キングの眼の前まで縦移動してきたのだ。
ここで後ろに下がってしまえば白ルークの横移動でチェックメイト、上に行ってもう一つの白ルークを取ってしまえば、白ナイトでチェックメイトだ。
横に道はない。上か下かだ。

「ぅぅぅう・・・・・・!!」

「ほら、どうした。動かさないと獲るぞ?」

眼の前で涼しい顔で微笑む赤司君を思わず睨むが、当然のごとくまったく効果がない。
全国の赤司君ファンが即答しそうな微笑みは、今の私には悪魔の誘いにしか見えない。
私は観念してキングを前に進め、白ルークを獲る。

「・・・・・・卑怯者。」

「心理戦で相手を揺さぶるのは列記とした戦法だろう?
それに結果が全てだ。勝てばすべてが正当化させる。」

「やっぱり卑怯。
もう貴方とはやらない!」

「そんなことはさせない。


君は、オレが始めて負けた相手なんだから。」


こうして、私と赤司君の勝負はお互いに35勝35敗、3引き分けとなった。