贈り物 | ナノ
   10万打記念【沙夜様】

Secret love.

赤く染まる夕焼け空を尻目に、人のいなくなった校舎を一人、歩いていた。ぎしりと僅かに軋む木の声に耳を傾けながら、斜陽の入り込む廊下を眺める。

美校の二階、普通科の教室の、最深部まで足を踏み込むと、そこには僅かな人の気配と、開いた窓からすり抜ける、初夏の夜の穏やかな風があった。音を立てないようにひとつの教室へ入り込むと、案の定、探し人を発見する。
その人は壁に背を預け、大仕事を終えた後のような満足感の中で眠りについている。穏やかな寝息は安定をもたらし、その綺麗な翡翠の瞳は目蓋の裏に閉ざされ、一向に開く気配を見せない。僅かに開いた口から漏れる吐息に鼓動を早めながらも、落胆と同時に安堵する心情が露見した。
薄く息を吐き出し、彼の右手に握られた筆をゆっくりと回収し、近くに散らばった美術道具も一ヶ所に集める。


今、私の目の前には、後ろで深い眠りについた男の、一世にして一代の大作が広がっていた。

「…っ、」



――呑まれそうな画だと思った。


その画に心をえぐられ、またどうしようもなくかき立てられる。
春草の画の中には、枠に収まり切らぬ無限の広がりと、そして音が溢れていた。風の音。赤子の夜泣き声。母のすすり泣く声。その画だけでは集結しない何かが、額の中には収容されていた。

ああ、この人は、どこまでも。

一切の妥協を許さず。
明確な意味を持ち。
静かなその双眸で見つめてくる。

春草の画は、どこまでも春草にそっくりだ。

私を引きつけて、止まない。


「――好きよ、春草。」

吐き出したその音は、陽の暮れかかる鬱蒼とした教室に、重く響いて消えた。
本人には届かないその言葉を、写し身である作品に吐き出す事に何の意味があろうか。

絞り出された私の声は、彼の描いた画の母親のように、涙に濡れて掠れていた。

「ねえ、春草……。」

未だ目を覚ます気配のないその男にゆっくりと近寄って、そっと頬に触れた。緩慢な動きをして、触れた右手は、彼の目の下に出来た隈をなぞる。
何日寝ていなかったのか。ぴくりとも動かない目蓋に唇を落とす。惜しいな。最後に彼の瞳を見たかったのだけれど。

翡翠を閉じ込めたような瞳に、曲がらぬ信念を宿したその双眸で、見初められたかった。
求めていたけど、叶わなかった。

「――卑しい女の末路ね。」

魂すらも宿す事の出来るその右手を握る。彼の手は、創造する、美しい手だ。私のような道端に咲いた徒花に、彼の目を止めさせるわけにはいかない。そう考えれば考える程、春草への想いは募って行く。

「…――なまえ、」

僅かに掠れた、春草の低い声が紡ぐ私の名に、息が詰まった。夢の中だとしても、春草が私のことを思ってくれている。たったそれだけの事実に。偶然でも、昇天する程嬉しかった。
零れ出した涙を止める方法も知らなくて、ただ、伝えられなかった好きばかりが溢れる。

「…っきよ、しゅん、そ…っ!」

彼が起きないようにと祈りながらも、最後に名前を呼んで欲しいと願ったこの強欲な私に、あなたは気がつきもしないのでしょうね。
右も左も分からず、孤立し一人途方に暮れた私に手を差し伸べたあなたに、どれほど救われたか。あなたはこの先も一生、知る事はないのでしょう。

それで良い。あなたにとって気の置けない友人になれた事が、私の誉れよ。

「ありがとう、春草。」

私に溺れる程の恋を教えてくれて。
私を光の中へと手を引いてくれて。
私へ微笑みかけてくれて。

「私たち、これからもずっと、友達よね。」

――でも、今だけ。今だけで良いの。

「もう少しだけ、あなたを想うことを、赦して。」




未来を見据えるその目蓋に、静かに唇を落とした。









Secret love.










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