贈り物 | ナノ
  10万打記念【きら様】
【反照に寄せて。】





篠原文乃という女性は、淡白にも、人との関わり合いをしない人間である。




これからも僕は彼女をそう認識するし、彼女もまた自身をそう評価するのだろう、と、愚直にも、その時まではそう思っていたのだ。







しんと冷え込む晩秋の早朝は、布団から起き上がった僕の裸足を直に冷やす。枕元の時計を確認すれば、今朝は執筆作業を行っていたため4時間程しか寝付けなかったにも拘らず、冷たい空気のお陰かすっきりと目覚めた。
玄関口まで降りればいつものようにフミさんの美味しい朝餉の匂いが鼻を擽り、今朝は鯖かな、と一人口角を上げる。サンルームへ入ると、今日は珍しくも先客がソファに腰掛け寝息を立てていた。常ならばドアを開ける些細な音で目が覚めてしまう程の先客は、今日ばかりはそうも行かない程夜更かしをしたらしい。名前を呼ぶも、呼応する声はない。客間の小さな机上には、厚い原稿用紙と付箋が沢山張られた辞書に、原書であろう海外文学が占領していた。

「やれやれ……仕事熱心な事に超した事はないが、医師としてはもう少し体を労ってもらいたいものだけどね。」

上着をぱさりと羽織らせると、微風が顔にかかったのか、少しばかり身じろいで、小さなその体を更に丸くするのである。僕の羽織に頭だけを残してすっぽりと埋まってしまうその姿は、リスか何かに見えてしまう。

「ふふ……こういう所が可愛いのだがなぁ…文乃は。
良く思われているのは承知だが、僕に対しても春草のように気を抜いて接して欲しいものだ。」

やれやれ、とひとりごちるが、それを返す声もなく、サンルームには秋の朗らかな太陽と、湯を張った桶によって温められた空間が広がるばかりである。このまま上に持っていこうにも、今は二階より一階の方が暖かい故、就寝したばかりの文乃に暖まっていない布団で寒い思いをさせるのも忍びない。しかし淑女が寝間着でサンルームに居続けるのもこの家の風紀的にも良くは無いだろう(まあ春草は気にしなさそうだが)
僕が行水を終わらせるまでここに居させてあげよう。その頃にも二階も暖まって来ているだろうし、春草も僕の行水が終わる頃合いを見計らって降りてくる。
そう結論付け、お勝手から運んでくる美味しい朝餉の匂いを堪能し、一日の予定を復習(さら)いながら行水を始めた。


「……りん…」

「ん?」

軍服に着替え終えようとした所で、微かに耳に届いた、静かな声に振り返る。僅かに掠れた文乃の呼び声は、半ば寝言の様な物だったらしい。サンルームに入り込む日差しを眩しがりながらも、どうにか薄く開いた彼女の瞳は、先ほどから開いたり閉じたりを繰り返す。
近寄って、文乃、と静かに声をかけると、少し間を置いて、うん、とあどけなさの残る返事が返って来た。まだ起き切らないのか、夢見心地なのか、髪の毛をゆっくりとかき分けた僕の手を、その小さな両の手で掴み、すり寄る様な仕草を見せる。
普段の彼女ならば、ああ、なんだ、と返事をして、頭に手を乗せても、無表情を貫き通す様な、素っ気ない扱いをしていただろう。実年齢より幼く見られがちだから固い口調にしているのだろうが、今の、完全に油断した様な文乃の反応に一人目を細める。

「ん……おはよう…。」

やっと頭が働いて来たのか、頭の上の僕の手をぺいと引きはがすと、頭を抱える仕草をして、僕の格好を見て、もう七時前か、と静かに呟く。うーん、やはりそっけない。


「おはよう、文乃。
昨晩は遅かった様だね?」

「小言はごめんだよ……この仕事が終わったらもう暫くは締め切りがないんだ、勘弁してくれ。」

「ほぅ……それはつまり、安定した休みが数日摂れると捉えても良いのだね?」

期待の色を乗せて発したその言葉に、文乃はしまったと言う表情で視線を合わせる。直ぐにその小さい口からため息が漏れると、いいよ、と言う返事が返ってくる。何処かへ行こうかと続けた彼女の口ぶりには諦めの色がにじみ出ており、渋々と言った様子にそれでも僕に付き合ってくれる態度が幼気(いたいけ)でいじらしい。

「ありがとう、文乃。
丁度明日は休みが取れそうだから、デートと洒落込もう。」

小さな頭撫でると、まだ眠気が抜け切らないのか、気持ちがよいのか、静かに目を閉じて返事ともつかないうめき声を発した。そして少しすると、こっくりと頭を上下しだす。余程疲れているのだろう。これ以上話しかけるのも殺生だと、彼女をゆっくりと持ち上げて二階へと運んで行った。

「Gute Nacht. Traum was Schones.」
「お休み、良い夢を。」









その日の帰りの事である。
夕日が差し込む時間帯を、俥に揺られてゆっくりと帰路についていた。いつもより少しだけ帰りが早かった為に、まだ馬車が通り砂煙の舞う大通りを嫌って小道に入り、大回りをして文乃の良く来ると言う日比谷公園にさしかかった所で、何ともなしに公園に目を向けた時。ベンチに座って読書をする彼女を見つけた。
俥夫に止めてくれと一声掛け、少しの間その姿を眺めていた。入り口からは随分と遠い位置にいた彼女であったが、どうしてかあの子の姿は気づかず目に留めてしまう。装いを変えても、遠目からでも、人が何人居ようとも彼女を見つける事が出来る自分に苦笑を吐露しながらも、それは心地よい感覚でもあった。これは、今夜も帰りが遅くなりそうだと一人笑いを噛み締めるが、それだけでは済まなかった。
読書に耽る彼女の目の前に、赤い燕尾服の紳士が近づく。彼は揃いの赤い紳士帽を被っていて、後ろ手には白い花が握られている。こちらからでは後ろ姿しか視認する事は叶わないため、どのような風貌かは分かり得ない。本から顔を上げた文乃にその花を見せると、彼女は驚きつつも、僕には見せた事もない様な笑顔でその紳士と笑い合う。紳士は文乃の左耳にその花を挿すと、彼女も左手でそれを触りながら無邪気に笑うのだ。

僕は今まで彼女は人と関わり合う事をしない人間だと認識し、彼女自身もそう認識していると信じ切っていた。
今数十メートル先で紳士と笑い合う彼女に向けて、僕は本当にそう言えるか、今一度自分に問いた。その答えは是と言える物ではなくなり、今まで無意識に思っていた「彼女の特別」が、自分と春草だと思っていた自分を恥じた。そして、無性に悲しくなったのである。そしてそれ以上の何かが有る事にも、気がついていた。



*



「ただいま帰りました。」

いつも通りの帰りだった。今日も結局遅くなってしまった事に、良く無い悪習だなと自分を責め立てるも、私の帰りの遅い事実は代わりもしない。いつものように声をかけて、靴をそろえてサンルームへと足を踏み入れる。新聞を読む春草に、視線も寄越さぬうちにお帰りと声をかけられるが、いつもは真っ先に陽気な声を返す家主からの挨拶はない。玄関に靴は有り、家に帰っている物と思っていたのだが、サンルームにその姿は無い様だ。

「鴎外さんなら、上だよ。」

「……まだ、何も言ってないが。」

「でもそう言うつもりだったんだろ?」

「……。」

最近の春草はやけに鋭い。事実なばかりに押し黙る事しかできないが、ここで何かを言い返した所で体力の無駄だと、早々に諦めてしまった。
丁度そのとき、上から一階へと降りる足音が聞こえる。春草は開いた新聞を閉じて机の上に置くと、椅子から立ち上がった。同じタイミングでサンルームのドアが開かれると、そこには案の定話題の中心人物が立っている。

「やあ、お帰り文乃。
おや、今日はいつもと雰囲気が違うね。」

そう言ってふわりと笑う林太郎は、私の左耳についた白い花を触る。自分では挿していた事すら忘れていた、チャーリーからの贈り物を触るその仕草が、妙にくすぐったくて身をよじる。しかし、よく似合っているよ、という林太郎の言葉に違和感を覚え、無意識に声をかけた。

「林太郎?」

「うん?どうかしたかい、文乃。」

そう発する彼の物腰は変わらず柔らかで、私は後ろ髪を引かれる気持ちで気のせいかとその蟠りを取っ払った。

結局、食事後もその違和感は拭いきれなかった。夕餉が終わり、さっさと風呂に入って書斎に籠ってしまった林太郎について、春草に何か事情は知らぬかと声をかけても、春草にその違和感は無かったようで一蹴される。

「そんなに気になるなら直接本人に聞けば?
俺に聞いても満足いく返事が得られるとは文乃も思ってないだろ。」

鬱陶しがられてしまったようで、それもそうかと二階へ上がる。以外にも書斎にその姿はなく、私は久しぶりに彼の寝室の扉を3回ほどノックをする。少し間を空け、開いているよと返事が返ってきた。
私の寝室と同じ様な作りのその部屋の、窓のすぐ近くに彼は座っていた。

「林太郎?」

「ああ。
今日はやけにそそっかしいね。何かあったかい?」

電気も付けず、窓を開けて月見でもしているのか、ふわりと舞うカーテンも、風に攫われて散らばる書類も気にする様子の無い林太郎に、違和感が確信に変わる。

「それは貴方だ。林太郎。どうしたのか、私には教えられないか?」

可能な限り優しく、真綿に触れるようにそっと呟いた。林太郎は私と暫く視線を交わして、それからふっと苦笑をこぼす。どこかあきらめているようにも、悲しそうにも映る。
椅子から立ち上がり寝台に腰を下ろした林太郎は、ドア越しに控えていた私をおいでと招く。大人しく同様にベッドに腰掛けると、求めるように強く、恐れるようにゆっくりと、彼は私の体を抱きすくめた。
冗談でする抱擁とはまるで違うそれを、戸惑いながらも手を回して受け止めると、その力は強くなる。

「……文乃。
文乃、………文乃。」

「…私はここだよ。」

存在を確かめる様なその台詞に、いよいよ彼が何を考えているのかが分からなくなる。どうした?と問いかけても押し黙る一方で、平生の気高いその人の空気は、明け放たれた窓の外へと、風が攫ってしまったのではないだろうか。
どこか甘えたように私を閉じ込めるその仕草は、何方(どちら)かと言えば、母親を弟妹に取られた少年のようにも見えて少し可笑しくなる。

「……っふふ、本当にどうしたんだ、鴎外先生?
今日は珍しく甘えたい日なのか?」

そんな挑発にも似た台詞、いつもであれば口が達者なこの人に返り討ちに遭うだけだ。しかし今夜に限っては図星を射たようだ。反論の代わりに、短い唸り声が帰ってくる。

「……僕はね、文乃。今日は朝から良い気分で家を出て、良い気分で帰路に着いた。しかし今はどうだ。心に余裕が無い。
おまえの姿を見た瞬間にも、自分の腕の中に閉じ込めて誰の目のも触れさせないように封をしたいぐらいだった。」

「…どうやら、本当に余裕が無い様だね。話のつじつまが合っていないよ。」

「……ああ、どうやらそのようだね。
つまるところ、僕は……、」

「うん、林太郎は?」

「………。……おまえが他の人間と一緒に心安くしている所を見て、妬いたというわけだ。」



――――――…



「……ふっ、っはは!はははっ…!」

「………人が真剣に打ち明けている内容を笑うなんて、おまえは非道い人間だね。」

居心地の悪そうに眉を寄せる林太郎の整った顔を見て、更に腹がよじれる。酷く真剣に悩んでいると思えば、何だそんなことかと。そして同時に、可愛気のあるその独占欲に、支配されても良い気もした。

「ごめんなさい……ふふ、…っ!……ふぅ。
でもな、林太郎。」

「私は恐らく、これからも少しずつ、貴方や春草、フミさん以外の外の人にも歩み寄る機会が増えるだろう。
けれど、人と関わる事の大切さを教えてくれたのは、紛れもなく林太郎、貴方だ。」

彼の両頬に手を当てて、ふと夕方の事を思い出す。彼がチャーリーから貰った花を触った所以は、その現場を目にしていたからではないかと予想がつく。チャーリーは厳密には「人間」ではないわけで、だからこそ特別親しく接している面もあった。宵が近づいたあの時間帯に、林太郎がチャーリーの姿を視認出来たのは不思議ではなかろう。
林太郎は、悔しそうな顔を崩さぬまま、いつものように私の髪を優しく撫でる。

「こんなことになるなら、外になんて出さなければ良かったね。
僕はおまえが一生この館で過ごしても一向にかまわないし、むしろ願っても無いことだ。」

「よしてくれ。私から翻訳業を取ってしまったら、それは服を着た豚だ。いや、むしろ家畜以下だな。生活費を貪るだけなんて、自害した方がマシだ。」

「そんな事は僕がさせない。だが……お前は、家に閉じこもっている程度で終わる様な女性ではないからね。」

名残惜しそうにも、あきらめるよと呟くその顔はやはりすねた少年のようで、愛しくなる。私はこの人に対して、とっくに情が移ってしまったのだ。そんな自分に苦笑いをこぼすも、それは詮無いことだな。

「……明日は、出かけずにずっと家にいようか。」

「…え……、」

「ん?私を閉じ込めたいんじゃないのか?」

「…………はぁ〜……。
意地が悪いね、お前は。」

そう言って林太郎は私達の体をベットに倒すと、甘えるように頭をすり寄せる。彼のクセのある髪が妙にくすぐったく、笑いながら身をよじった。やるならとことんまで、と言う性格の林太郎の事だ。翌日、私の挑発は二倍になって帰って来てしまった。

















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反照(はんしょう)……光が照り返すこと。夕映え。
2014.09.29
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