贈り物 | ナノ
  キリ番お礼【紫音様】
【ケープジャスミンの愛言葉】



陽炎に揺れるアスファルトの整った道を、もう随分と慣れた足取りで人波に身を委ねる。じわりと刺す様な日差しに今年も夏の到来を感じ、ふと遊歩道の中央で足を止めた。前を良く見ていなかった若者に背中を押されてしまい、互いに淡白に頭だけを下げてやり過ごす。
上を見上げれば、何処までも青々と染め上がった空の下、高層ビルの隙間から見えた立派に育った入道雲が、鮮やかすぎる青に劣らぬ程白く存在を主張していた。なるほど、それは暑い訳だ。
入道雲の奥から顔を出した飛行機雲を、少しの間目で追っていた。空になじむように青にとけ込んだ細い線は、やがて風に乗って砂の城のように見る影もなくなってしまうだろう。

そんな夏の匂いを感じて、私は再び足を動かしながら回想に浸っていた。










私が彼女と出会ったのは、まだ梅雨も開けきらぬ文月の半ばだった。











「おとなり、良いですか?」

土砂降り続きの日本列島の休日が、その日だけは褒美だと言わんばかりの夏日となった。
今日のように私用で大阪に出向く用があった私は、暑苦しいスーツを身に纏い、多く水を含んだ線路を眺めながら東京駅のホームで新幹線を待っていた。
辺りに自分以外の人気はなく、かけられた声にやんわりと笑んでどうぞと促す。軽く礼を言って、その女性は一つ席を空けて隣に腰を下ろした。次の新幹線まで裕に30分はあろう時間帯に、物珍しくも私と同じようにホームのベンチで待つその女性に少しだけ興味が向いて、不自然のないよう横目でちらりと確認する。
一番始めに受けた印象は、儚さだったと思う。少し不健康にも思える白く細い手足は丁寧に折り曲げられ、今時珍しく無くなったにせよ、余りにも釣り合いの取れた日傘を近くに立てかける。今日が初夏だと言う事もあり白く清楚なワンピースに上着を羽織ったその女性は、一人旅にしては小振りすぎるバックの中から文庫本を取り出した。読書に耽る姿は、派手な見た目な訳ではないと言うのに美しい印象を受ける。姿勢が良いのだ。下を向く事で右耳にかかる髪を後ろにかきあげる、ほんの少しの所作だけでも育ちが伺える程品行方正な方だ。

あまりじろじろ見るのも不躾だろうと、私が前を向いた時であった。線路内に人が立ち入ったためダイヤが乱れると言う旨を伝えたアナウンスが舞い込んだ。その大体の理由は人身事故……自殺未遂。都内ではよくある放送である。それを聞いた隣の女性も、文庫本から視線を上げて、繰り返される構内放送に耳を傾ける。するとふと目が合って、彼女は困ったような、悲しさが入り交じった様な顔で笑った。

「待ち時間……伸びてしまいましたね。」

「ええ。
……どちらまで、行かれるのですか?」

話しかけた時点で文庫本を仕舞う仕草があった彼女に合わせ、話を振る。品の良い物腰のまま、新大阪まで、と答えた。そこで自分の荷物が少ない事を気遣ったのか、言葉を続ける。

「知人に会いに行くんです。日帰りで。
そちらは?」

「私も新大阪まで。同僚を訪ねに。」

「お仕事ですか。」

「いえ。この格好は、一種の礼服の様なものです。」

「そうですか。良い天気だと言うのに、大変ですね。」

「いえいえ。仕事ではないですから。お気遣いありがとうございます。」

そこで一旦会話が途切れると、彼女はホームの隙間から除く晴天を見上げた。

「本当に、良い天気。」


その後彼女とは別の車両に乗り、新大阪駅でホームに降りた彼女を偶然発見して会釈だけ交わし、以後何事もなくこの話は集結する。
彼女とホームで会話した事、人身事故で列車が遅れた事をすっかりと忘れていた私が再び彼女の事を思い出すのは、丁度一年後の同じ日である。




「……あ、」

「え?――――――ああ、!」

丸一年、彼女を思い出す事もなかった私は、東京駅のホームのベンチで再び相見えたその女性が誰だか、一瞬思い出す事はできなかった。そのすぐ後に浮かんだ一年前の出来事で、私はすぐにどうぞと隣の席を促した。時刻は一年前と一致した新幹線のダイヤの、30分前。私は黒いスーツを纏い、彼女は白いワンピースを。一年前に戻った様な錯覚は、気の滅入っていた私の精神を一気に回復させるに十分な出来事でもあった。今年の梅雨明けは早かった事もあって快晴の今日を、私は素直に喜んだ。

「驚いた。今年もお知り合いを訪問されるのですか?」

「ええ。貴方も、同僚をお訪ねに?」

「ええ、まあ。そちらは平日なのに、余程大事な方なのでしょうね。」

「それを言うなら貴方こそ。毎年真夏にそんな格好を?」

「ふふ、確かにその通りですね。」

より詳細に言えば恩人の忌日の墓参りなのだが、そういった事情をこの清々しいまでの空の下で言うのはためらわれた。知り合いとも呼べぬ彼女に、余計な気を使わせる訳にも行かない。

「今年も良い天気になりましたね。」

「そうですね。去年と違い、少々暑すぎるのが難点ですが。」

「ふふ、全くその通りですね。
……一昨年は、どうだったっけな。」

そう呟いた彼女の横顔だけは、まだ梅雨明けを迎えていないようだった。彼女の口をついた言葉は一つ一つがしっかりとした芯を持つ。ダイレクトに響くその人の一言を、私は器に水を入れて持ち運ぶように慎重に選んで返した。その水の中に、ほんの数滴の願望も織り交ぜて。

「きっと晴れていましたよ。今日のように清々しい天気だった気がします。」




彼女との再会はその翌年も続いた。互いに同じ服を着て、東京駅のホームのベンチで出会う。待ち合わせをしているかの様な錯覚すら覚え、数十分そこでとりとめのない話をするのだ。

「こんにちは。」

「こんにちは。今年も会いましたね。」

「もしかしたら、今年も貴方がいらっしゃるかもしれないと思って。
おとなり、良いですか?」

「どうぞ。」

通年となったやり取りを、まだぎこちなさ気に繰り返す。気がついたように、控えめに私の顔を覗き込んだ彼女が口を開く。

「今日は顔色が優れないようですね。
熱中症ですか?」

「そんなところです。これでも良くなって来た方なんですが。
半年程前からこの調子で。」

「まあ!ご病気ですか?大事にしてくださいね。」

「ありがとうございます。患いものと言う訳でもないんです。持病みたいなもので。」

今年の冬に起きた震災以降、体調を崩していた。しかしこれは私自身のものではないのでぼかして口添えると、困惑した表情を見せた後、すぐに笑顔に戻る。

「大事無いのであれば、何より。
ふふ、それにしても……まるで日本そのものの様な方ですね。」

瞬間、彼女の言葉に大きく胸を打った。一瞬正体を知れたのかと推測し、そんな筈はないと上書きする。平常を繕って、冗談を言う様な調子で笑いかけた。

「成る程、面白い例えだ。
どうしてそのような事を?」

「都市伝説ですよ。一つの国にそれぞれ一人、一つの県にそれぞれ一人。日本には48人の化身の方がいらっしゃるらしいですよ。近所の子供が話して聞かせてくれて。
きっと日本を体現した様な方は、私の周りで言うと貴方の様な人だろうなと。」

その真意は掴めない。しかし彼女の雰囲気からは、ただ純朴に私をそう思っている事が読み取れた。面白い事を言う人だと、私も笑った。

「恐れ入ります。」





その翌年。いくらか荷が降りた体に、まだまだ万全とは言えないにせよ、国内情勢が回復の傾向にあると感じながらもその日を迎えた。今年は本来渡米する予定を組んでいたのだが、アメリカさんの私的事情で別の日に繰り上がった影響で今年も恩人への報告を無事済ませる事ができそうだ。それに、

「こんにちは。」

「こんにちは。今年も会えましたね。」

「そうですね。お変わりないようで。
おとなり、良いですか?」

「どうぞ。」

そういった彼女の髪は、例年よりも長く伸ばされていた。座る際にさらりと前に落ちる髪は、腰程の長さになっている。私の視線に気がついたのか、苦笑いをこぼして日傘を持たない手でその髪を梳いた。

「何時もは、この日の前日までには整えるんです。今年は仕事が押してしまって、なかなか。この日程を空けるのが精一杯で…。」

言い訳みたいになってしまいましたね、すみませんと謝る彼女の変化はもう一つあった。三年前に受けた病的までに白く細い体はいくらか健康的な肉付きが見られる。改めて思い起こしてみれば、二度目の邂逅の時点でその予兆はあったのかもしれない。私がそれに気がつく余裕がなかっただけである。

「そうですか?見苦しいとは思えませんが……。
今日が余程大事な日のようですね。そのお姿も普段なされないのですか?」

思えば、互いの内情を聞くのはこの時が初めてだったかもしれない。自然とプライベートに深入りする事はなかった彼女との一線を引いた会話を、私はこうしてふとした口をついてしまった事で歪ませてしまった。

「あ、すみません……無理に話してくださらなくとも…」

彼女は春の日差しの様な笑みを崩さぬまま、ゆっくりと首を振った。

「普段は、普通にTシャツやジーパンですよ。髪も後ろで大雑把に束ねてます。
意外でしたか?」

「え?ええ……正直。」

「貴方は?普段はどんな格好をなさっているの?」

「私は和装が主です。育ち柄、どうも洋装よりもしっくりしてしまって。」

「ふふ、思った通り!」

子供のようにはしゃぐ彼女に、一人恥ずかしい様ないたたまれない気になる。はあ、と気の抜けた返事を返すのが精一杯だった。


その後とりとめのない四方山話を繰り広げ、互いに別の車両に乗り込み、新大阪駅でタイミングが合えば会釈を返し、また来年……今年もそう思っていた。


帰りの新幹線を、私は珍しく二つ遅い列車で予約した。恩人の墓前でお会いした大阪さんと、近況報告も兼ねてお酒を交えていたからである。元々酔いの回り難い私と違い、大阪さんはすぐに酔いつぶれてしまい、酔っぱらいを引きずって彼の家まで送り届けて来たところだった。
電車を乗り継いで、新大阪のホームで、私はまたしてもベンチに座る彼女と邂逅を果たした。何かを手に、穏やかに微笑む彼女に声をかけるのを躊躇していると、彼女が構内アナウンスに顔を上げたところで視線が交わってしまった。気まずげに近寄って、こんばんはと会釈をした。

「こんばんは。
まさか帰りも会うなんて、偶然ですね。」

「ええ、本当に。
おとなり、良いですか?」

帰りは私と彼女の立場が逆になっていて、おかしくなって口元を覆う。彼女もくすくすと忍び笑いをこびしながらも、どうぞと呟いた。私は彼女との間を一席空けて腰掛けた。
そのとき微かに香ったのは、彼女が漂わせる淡い香水の香りの他に、もう一つ。おそらく私の周りのも漂っているだろう、線香の香りだった。互いにそれに気づき、私たちは暫く話もせずに正面を眺めていた。

「……お知り合い、故人の方だったんですね。
すみません、御察しできず…。」

「いえ、こちらこそ。同僚の方っておっしゃっていたので、てっきり……」

ご存命の方かと。その言葉は彼女の喉をふるわせる事はなかったが、私の心には確かに届いた。けれど私たちの間は重い雰囲気にはならなかった。互いに哀悼は済ませていたからだと思う。もしかしたら、彼女も私のように元気な姿をその知り合いに見せに行ったのかもしれない。
彼女は明るい調子で再び口を開いた。

「それにしても、お線香に混じってお酒の匂い……呑んでいらしたんですか?」

「はは……お恥ずかしい限りです。
旧知の友人と墓前で再会したもので。つい話に花を咲かせてしまいました。」

「なるほど。……明日も平日ですし、ご無理なさらないでくださいね。」

軽い調子で掛け合いをしている間に、列車が到着した。ここで分かれると思えば、どうやら珍しく同じ車両のようで笑い合う。しかしこれが、とうとう同じ座席番号の窓側と通路側ともなれば何か偶然と片付けるのは難しい。私たちは互いの顔を見合わせ、放心状態のまま乗り込んだ。

「まさか……こんな事って、あるんですねぇ。」

「そうですね…本当に驚きました。
もしかしたら、家も近くかも知れませんよ?」

「はは、それはそれで……」

そういって談笑している間も、何処か互いの確信的なところは突かない。いつしかそれが当然のマナーのようになっていた。

「…そういえば、こんなに長い事お会いしているのにお名前を存じませんね。
差し支えなければ、伺ってもよろしいですか?」

その質問は、プライベートに口を出さないと言う暗黙の了解を切り崩すものでもあった。彼女は自ら私の部屋の扉をノックした。それを誠意で答えるのも深情だろうと、口を開いた。

「………本田、菊と申します。言われてみれば、互いに知らないというのも不思議な話でしたね。」

何処かほっとした安堵の表情を浮かべる女性の雰囲気には、言い知れぬ安泰感が漂っていた。彼女も私と同じように、互いに干渉する事を抵抗していたのかもしれない。

「私、佐藤ミキと申します。
……本田さん、これも何かの縁だと思って、私の独り言に付き合って頂けませんか?」




彼女が話した大阪行きの所以は、私の想像を遥かに凌いだものであった。

「―――大学に上がった時、難病を患いました。」

何故今日と言う日に仕事を休んでまで新幹線に乗り込むのか。人身事故の放送を悲しげに聞いていたのか。願掛けのように伸ばした髪を、今日のために整えるのか。初めて会った年よりも、健康的な体になっていたのか。誰に、線香をあげていたのか。新大阪のホームで、穏やかに笑っていたのか。

彼女の腎臓は、脳死した臓器提供者のものなのだそうだ。

今日はその方の永眠なされた日でもあり、彼女の第二の誕生日でもあった。新大阪にあるドナーの方の墓前で健康に生きている事を見せる事が、彼女なりの誠意と恩返しなのだそうだ。その後ドナーのご家族の方とも終電ギリギリの新幹線の時間まで話し込んで帰る。ホームで眺めていた紙は、提供者の奥さんとの間に出来た子供が描いてくれたものらしい。私に嬉しそうに見せた幼稚園児の純粋な絵に、私は深い感銘を受けた。
ああ、こんなにも純粋で、美しい生き方があるのか…と。

それは彼女がその小さな背中に背負って来た重みであり、歴史であり、誇りであった。
何千年と生きて来て、未だに自分と言う存在が不確かな私に対し、ほんの30も生きていない様な目の前の女性が、生について直面した結論。

そして私は、今一度その小さな背中に託された沢山の希望を噛み締める。
私がその年に聞いた彼女の独り言は、私の廃れた心情を優しく解きほぐしてくれたのだと思う。人から人へ、命のバトンを渡して行く……人と言う生き物も、まだまだ捨てたものではない。

健気にもこの世のすべてを慈しむ様な彼女の瞳に映る世界のほんの少しでも、世界中の人が可視する事が出来たのならば。

世界はもう少し、優しい形をしていたのではないだろうか。





















向けた足がたどり着いた目的地は、東京駅の15番線。指定席付近に設置された、5人掛けのベンチの、右端である。既に猛暑をふるっている今年の東京の最高気温は、大雨後の潤った土から一滴も残らず水分を蒸発させる程蒸し蒸しと体内の水分を搾り取っていた。ふと空を見上げると、先ほどの飛行機雲は見る影もなくなっていた。
少しすると、あと30分はあろうかと言うこの人気のない時間にこちらに向けって来る高いヒールの足音。私はその人物を確認すると、にこりと微笑んでこう口をついた。

「こんにちは。」

女性はベンチの真ん中まで歩いて来て、小さなバッグと日傘を両手に持って、微笑みながら会釈を返した。


「こんにちは。今年も会えましたね。」










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2014/08/03.