君のいない世界で、君の為に生きろと言う
「ナマエー!早くこーい!」「待ってよけーすけー!」
茹だる暑さのせいで全身から滝のように汗が流れる季節のこと。幼馴染みの少年が先を走っている。小さな少女が彼の背中を必死に追った。少年は時折振り向いて、少女がきちんと付いてきているか、遅れてはいないかと確認をしていた。
走る速度をわざと緩め、少女が追い付きやすいように気を遣う。少女は顔を真っ赤にしながら、ようやく少年に追い付いたと笑顔を咲かせた。
「早くしろよなー!もう始まっちまう!」
「だってっ、くつが……!」
「くつ、ってゆーか……ぞーりか?それ」
少年は少女の足元に視線を落とす。初めて見たその形状のものを、彼は「靴」と呼んでいいのかどうか分からず首を傾げた。
素足で履いた表面が艶めいた色のそれは、浴衣に合わせる下駄だった。
「ちがうもーん。げたって言うんですぅ」
「へぇー。歩きにくそー」
「うん。歩きにくい。だからゆっくり歩いて」
「えー……なんでそんなもん履いてきてんだよ」
少女の申告に少年は嫌な顔を浮かべながらも渋々納得をしてみせた。カラコロと少女の足が軽快な音を鳴らす。
少年の隣をゆっくり歩く少女は、とても楽しそうに笑っていた。
「てかさー、なんでそんな浴衣着てんの?」
「だってお祭りに行くんだよ?浴衣着るでしょ」
「俺はふつーのカッコでいいって言ったのによー」
「けーすけだって甚平着てるじゃん」
「母ちゃんが着ないと家から出さねぇって言うから……」
はぁとため息を吐いた少年が甚平の足辺りの布を掴んでパタパタと揺らす。肘を覆い隠すくらいの袖も肩まで捲りあげ、胸元も少し肌蹴ており、涼し気な格好となっていた。
隣を歩く少女はそんな彼の格好にため息を零し、どうせ指摘しても直さないからと何も言わなかった。
「ね。最初は何食べる?」
「はー?決まってんだろ」
「えー、たこ焼き?」
「バーカ。祭りの最初は射的だっつの」
親指と人差し指を立たせ銃のような形を作り、少女へ向けた。バンと言って腕を動かし、ニヤリと歯を見せて笑う少年に、少女はふーんと相槌を打つ。
「去年もそーいって全部外してたくせに」
「うるせー今年は全部当てるし」
「去年も言ってたそれ」
「……うるせー!」
「お小遣いそんなに多くないんだからさー、美味しいもの食べようよ」
少女は食へ、少年は娯楽へとそれぞれ興味を引かれていた。食い違う意見を言い合いながら、辿り着いたのは煌めき賑わいを見せる神社だった。
「わー!人いっぱい!」
「おっしゃ!やるぜー!」
「あっ、待ってってば!けーすけ!」
赤い鳥居も、そこに続く階段も、提灯の明かりが照らしていた。少年は少女を置いて、颯爽と階段をかけ登っていく。一歩出遅れてしまった少女は必死に少年の名前を呼ぶが、彼の背中は遠くなるばかりだった。
仕方なく、履きなれていない下駄で階段を上る。浴衣の裾も、行動の制限をかけている。下りてくる人とぶつからないように注意しながら、ようやく神社の境内へ辿り着いた。
「わぁ……!」
少女の目にはたくさんの明かりと賑わう人々の姿が映った。楽しげに行き合う人々の間を少女はゆっくりと歩いていく。
きっとどこかのお店で少年と再会できるはずだと、楽観的に考えながら少女は出店を眺めていた。空腹を誘う食べ物の香りは罪なものだった。香ばしいソースの匂い、鉄板で焼く音、袋に詰められたカラフルな綿あめ、ガリガリと氷を削り色をつけていく光景、見ているだけでお腹が空いてくる。
早く少年と合流して空腹を満たしたい。そう考えた少女は少年の名前を叫ぶ。
「けーすけー!どこー!?」
けれど祭りの喧騒に少女の声は掻き消される。何度叫んでみても、声は誰にも届かない。
少年を呼ぶ彼女の声はだんだんと小さくなっていく。誰にも見向きもされない少女が道の真ん中で蹲る。
「け、すけぇ……どこぉ……?ひっ、く……ッ、けぇすけぇ……!」
足が痛い。履き慣れていない下駄は少女の小さく柔らかな肉を剥ぐ。
喉が痛い。返ってこない声を求めて叫び続けた喉は空気に焼ける。
胸が痛い。彼が隣にいない事は少女の心を砕く。
「う、ッ、うぇ、うわぁぁん……ッ、けーすけぇ!」
幾度となく叫び続けた。
それでも少女の声に応える少年は、何処にもいなかった。
◇◇
朝起きて、家族におはようと言う。顔を洗って、歯を磨いて、着替えて、朝ごはんを食べて、学校へ行く。
友達に会って、授業を受けて、図書館に寄って本を借りて、家路に着く。
ただいまと言って、部屋着に着替えて、母の手伝いをして、宿題を済ませ、夜ご飯を食べて、お風呂に入って、歯を磨いて、借りてきた本を読んで、眠りにつく。
「……ナマエさん」
いつまでも変わらない日常が続く。ありふれた毎日は、何処か色褪せて見えて楽しくなかった。
淡々と惰性で生きている気がして、いつか死にたくなりそうな予感がしている。
「ッ、ナマエさん!!」
ガッと肩を掴まれて体を少し揺さぶられた。はっと意識を取り戻してみれば、私の目の前には猫のような雰囲気の金髪の少年が立っていた。
金髪を下ろし、つり目が見開いて私を見ている。
この少年のことを、私は知っている。
「……千冬くん」
「ナマエさん……体調悪いなら言って下さい」
松野千冬くん。いつの間にか私の日常に入り込んできた少年。
苦しそうな表情で、私の前で項垂れる。肩に食い込む力が強くなる。痛い。そう言えば手を離してくれた。
「ごめん。体調、悪いのかな。もう分かんないの。ずっとこんな感じだから」
「……すんません」
「なんで千冬くんが謝るの。何もしてないでしょ」
あははと笑って茶化してみたが、千冬くんの表情は変わらなかった。ずっと眉間のしわが消えない。握りしめた拳の中には何があるのだろうか。疑問に思っても、私は口を開くことは無かった。
「……すんません」
「もういいよ。それで、用事はそれだけ?」
玄関の扉越しに会話を続ける気は無い。さっさと私は家の中に引っ込みたい。今日はなんだかとても疲れている。体が鉛のように重たい。ベッドに入っても眠れる気がしないが、それでも横になって目を閉じていたい。
「……ナマエさん、眠れてますか」
「なんで?」
「……目の下」
「…………あぁ」
家族にもどんどん顔色が悪くなることを指摘されている。傍から見てもそうなのだろう。けれど、何を言われてももう、私の夜は安らかになることは無いだろう。
「……これはもう、治らないかな」
「っ、すんません……!」
「君のせいじゃない」
「……ッ」
「君達のせいになんて、してやらない」
金髪がサラリと流れる。私に旋毛を見せる千冬くんにかけた言葉が、案外冷たい温度を纏っていた。
原因は分かっている。だからそれでいいじゃないか。私は、一生このままで構わない。
「……死んじまいますよ」
「それでもいい。むしろ死期が早まってくれた方が有り難い」
「ダメです!」
「……どうして?」
いつか死ぬなら早い方がいい。自殺する程の勇気はないから、せめて寿命が早くきてほしいと切に思う。
私の考えを真っ向から否定する千冬くんは、真っ直ぐな瞳を私に向けた。
「…………場地さんと、約束しました」
私の耳が千冬くんの言葉を拾う。彼の名前が聞こえてきた。
「ナマエさんを頼む、って、言われました」
「……め、て」
「絶対、守りますって……約束、してきました」
「……や、」
「ナマエには笑ってほしい……それが、場地さんの思いです」
「やめてッ!!」
悲鳴にも近い声が出た。千冬くんの声を聞きたくなかった。勝手に涙が溢れてくる。脳裏には、大好きな幼馴染みの笑顔が浮かぶ。
「……やめてよ、もう……わたしは……」
「すみません。でも無理です。俺は、……尊敬する場地さんに頼まれたんです」
「やだ……」
「ナマエさん」
夢を見るのが怖くて、朝起きるのが怖くて、一人だと実感するのが怖くて、何をするにも怖くて仕方なかった。
だってもう、この世界のどこにも、場地圭介はいないのだ。
「……やだ……もうやだよ……千冬くん……」
ポロポロと涙が落ちていく。千冬くんだって辛い筈だ。それなのに、私なんかの心配をしてくれる。それが申し訳ない。
「……ほっといて、いいよ……けーすけとの、約束なんて……いいんだよ……わたし、もう……」
「ダメです」
いつの間にか圭介の隣には千冬くんがいた。私と圭介の登下校に千冬くんも加わったのはいつからだったか。二人はチームにも所属しているから、仲良くなるのはあっという間だった。
私は圭介と居られる時間は千冬くんに比べたら少ない。それでも圭介は、私とも一緒にいてくれた。
「俺は……場地さんを、守れませんでした……俺が、近くにいたのに……っ!」
千冬くんは奥歯を噛み締めて遣る瀬無さを堪えていた。
「……だから……場地さんが守りたかったものを、俺は今度こそ守ってみせます」
「……」
「ナマエさん、笑ってください。死にたいって、思わないで……場地さんの為に、生きて下さい」
なんて、残酷なことを言うのだろう。
圭介がいない世界で生きろと言う。
たった一人、色のない世界で生きろと言う。
圭介がいない世界で、圭介の為に生きろと言う。
「……俺が、ナマエさんの隣にいます。ずっと、ナマエさんを守ります。二人で、場地さんの為に生きましょう」
君はなんて残酷なんだ。