初めまして、痩せっぽち

一瞬の輝きを持って世界が停止したかのように、俺の身体はピクリとも動かなかった。俺の目の前で涙を流しながら、女は何かを喋っていた。

『あの、此処はどこですか?私、気付いたら此処に居たんですけど、何も覚えていなくて……』

「……はァ?」

思わず眉を寄せて女を睨むように見る。途端に肩を跳ね上げて怯えた表情になる女は、俺の理解できない言語で話している。ガシガシと頭を掻き、混乱する頭をどうにか押さえ付ける。

「あ〜……一度整理をしようぜ。お前は何者だ?俺の言ってることが分かるか?」

務めて冷静に、いつもよりほんのちょっぴり優しさを心掛けて女に問い掛けた。ゆっくりとイタリア語を紡ぐ口がむず痒い。まるで子供に話しかけているみたいじゃあねぇか。
それでも女は俺の言葉を理解しきれていないのか、眉を寄せて眉間にシワを作るばかりだった。無論、決壊したダムのように涙を落とし続けている。

「クソッ、お前、イタリア人じゃねーのか……?」

どうしたものか。言語で意思疎通が出来ないとは、これほどに困るものなのか。ガックリと肩を落として俺は何かいい方法が無いかと模索する。
女の容姿から察するにヨーロッパ系の顔ではない。アジア系だろうか。

『……イタリア?』

「お……?」

女の口から漸く俺の知る単語が呟かれた。発音こそ間違っていたが、この際目を瞑ってやろう。とにかく、女はイタリアを知っている。

「あぁ、そうだ。此処はイタリアだ」

観光客が迷子になったという所か。一人と言うことはあるまい。もしかしたらコイツの友達が迷子を探しているかもしれない。

「迷子か?それならこの先の道を進んだ所に観光スポットがあった筈だ。外国人は大勢いるぜ?テメェの友達もそこに行けばいるんじゃねぇか?」

俺が進んできた道とは別の道を示した。確かにその先には観光客に人気のスポットがあった筈。確証が持てないのは俺はそんなに観光地に詳しくないからだ。女は呆然としながら、鼻を啜っていた。

『……Is this Italy?』

突然聞こえてきた言葉は、一瞬女がイタリア語を理解しているのかと思ってしまう程、流暢なものだった。しかし女の言葉を噛み砕いて理解すると、それはイタリア語ではなく英語だった。さっきまでの理解不能の言語とは別に、女は母国語と英語が話せるらしい。しかし俺に英語の学は無い。

「あ〜……Si」

意味は理解できなかったが「Italy」という単語だけは辛うじて聞き取れた。つまり女は「此処はイタリアか?」と質問したのだろう。コクコクと2回ほど首を縦に振れば、途端に女は顔色を豹変させた。

『……本当、なの……冗談じゃなくて……?』

黒い瞳が絶望に染まり顔色は青くなる。観光客ではないのか。知らぬ間にこの土地に来た訳じゃああるまいし、と眉間にしわを寄せていれば女はまた涙をボロボロ落とし始めた。

『あ、……I'm Japanese and……I don't know why I am here』

「じゃぱにーず?……お前、ジャポネーゼか?」

『……じゃぽ、ねーぜ……Yes, Japan』

思わず指を向けて女に確認を取れば不安げながらも頷きを見せた。此処にきて漸く女の国籍を知ることが出来た。日本人だというのなら女の持つ美しき黒髪と黒い瞳は頷ける。けれど厄介なものに関わってしまった。

『……But, I don't have a passport……I can't go home……』

女は悲壮に充ちた表情で英語をスラスラと述べていく。俺が理解できたのは「パスポート」と「ホーム」の二つの単語だけだ。日本人は言葉を話さなくても意思疎通が出来るのだとメローネが昔言っていた気がするが、生憎と俺はイタリア人だし、言語によるコミュニケーションの方がずっと楽だ。だから女を睨むように見つめているのは、俺の努力の証である。イタリア語の分からないこのジャッポーネが何を言いたいのか、雰囲気と表情から察しなければならない。

「パスポートが無くて、帰れない……って、所かァ?」

そんな単純な事では無いのかもしれないと思うのは、パスポートを無くしたと言う割には女の表情が絶望を語っているからだ。パスポートの再発行くらい大使館に行けばどうにかしてくれる筈だろう。女は漸く落ち続ける涙を拭う素振りを見せた。出会ってから五分は経過しただろうか。このジャポネーゼはずっと泣いていた。

「あー、擦るな。ほら、貸してやる」

女はシャツの袖で目元を擦っていた。長袖のシャツを着ているが、季節外れにも程がある。イタリアの夏は暑いというのに。ポケットから取り出したハンカチをそっと女に差し出したが、女は袖口で涙を拭い続ける。受け取られないハンカチが、俺の掌で酷く滑稽に写った。

「無視してんじゃあねぇぞ、ジャポネーゼが」

『え、うわぁちょっと……!』

「ホレ、使え」

カチンときた俺は女の目にハンカチを無理やり当てて押しつけた。突然目の前が真っ暗になった女は、目元に押さえ付けられたハンカチを取ろうと手を伸ばしてきた。その時、ちょこんと女の指が俺の手の甲に触れた。

「……ッ!?」

『うわ……!』

バチンッとまるで静電気でも走ったかのような、けれど痛みの無い衝撃を受けた。パサリと地面にハンカチが落ちたが、それどころでは無い。思わずその場から飛び退いて傍らにスタンドを出現させる。呆然と自分の掌を見つめる女を睨み付けようとしたその時だった。

「やァやァやァ!コノ世界では初メマシテ!」

それは突如目の前に現れて、恭しく執事の真似事のように不格好に腰を折った。

「……なッ……!」

『ッ、?』

信じられないものを目にした。確かに今現在、この場所には、俺と女の二人しか存在していなかった。左右を向日葵に囲まれてはいたが、それでも真っ直ぐ伸びる道の先には影さえ無かった筈だ。それなのに、今、女の隣には、全身真っ白な痩せ細った身体を持った奴が佇んでいた。

「てめぇッ……どっから湧いて出やがった!?」

「やァやァ!マズは落チ着イテ!」

俺に向かって開かれた奴の両手を見て、思わずビタリと身体の動きを止めてしまった。人ではない何かだとは薄々感じていたが、確信に変わったのは、それを見てからだ。俺のスタンド『偉大なる死ザ・グレイトフル・デッド』の手に少し似ていた。

「……そいつのスタンドか」

「シィ!」

白い奴は顔の近くに両手を持っていき、握ったり閉じたりを繰り返して笑っている。五本の指ではなく、三本しかない指を動かしている。未だに呆然としている女は白い奴を見ていた。つまりスタンド使い。殺られる前に殺らなければ。

「ザ・グレイト……」

「ワー!待ッテ待ッテ!」

まるで人間みたいな動きをするそのスタンドは、今から俺が取る行動を分かっているかのように静止を促した。眉を顰めて警戒を解くことなくスタンドを見つめていれば、女を腕で抱き締め庇いながら早口に言葉を捲し立て始めた。

「スグに殺ソウとスル!良クナイ!のんのん!ヒカリ何もシテナイ!短気良クナイ!モット考エテ!話聞イテよ!全ク!君はイツモ話聞カナイ!のんのん!ダイタイねェ〜……」

「ッ、は、おい……ちょっと待て……!」

冷や汗が知らずの内に背中を伝っていた。このスタンドは確かに「君はいつも話を聞かない」と、そう言った。俺は今初めてこの女に出会った。加えて、このスタンドも初めて目にした。つまり俺とこのスタンドは、言うなれば初対面である。それなのにこのスタンドはまるで俺の事を知っているかのような口ぶりでは無かったか。

「ねェ〜ヒカリ。怖カッタよねェ〜?怖イね〜コノ男はね〜イツモだよ〜イツモ君のコト殺ソウとスルよ〜必死に止メルワタシを褒メテくれ〜」

「な、んなんだ、てめぇは……なんで、俺の事を知ったふうに……!」

「褒メテ〜」

「聞けッ!!」

スタンドの腕の中で女は理解が追い付いていなかった。抱き締められてただ困惑の表情を浮かべるばかりで、一言も発さない。俺の話を聞こうともしていないスタンドに苛立ちグレイトフル・デッドで直に触ってやろうと腕を伸ばそうとした。

「ザ・グレイトフル……!」

「ダカラ止メテってバ〜!ぷろしゅーと!」

「ーーッ!!?」

「のんのん!」

目を見開いてスタンドを凝視した。今、こいつは確実に俺の名前を呼んだ。俺は一切知らないのに、スタンドは俺の事を知っている。どういう事だ。混乱が混乱を招いてギシリと奥歯が軋んだ。

「知ッテルよ。君のコトなら知ッテル。君の仲間のコトも、全部、知ッテルよ」

本当に、厄介なものに関わってしまった。

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