世界は艷めく蜂蜜色
「……は?」
私の口から漏れた第一声は、間抜けたそれだった。実際に声が出たのかは定かでは無い。ただ空気が漏れ出た音かもしれない。それでも私は確かに今この瞬間、呼吸をしていたという証明になり、それは私が現在を生きている証拠に繋がる。
「……どこ、ここ……」
呆然と辺りを見回す。ゆっくりと右に首を回し、また左に回す。視界には風景が移り行くのに、私の意識はしっかりとその風景を捉えようとしていない。映像が流れゆくままの私の視界は、意識は、経験に基づいて知っている物を捕まえようと必死になっている。つまり、私の周りに私の知っている物は何一つとして存在していない。
「うそ……だって……こんな所……」
私は地面に座り込んでいる。目を覚ました時は地面に頬を付けて眠っていたようで、砂の跡がくっきりと頬に残っている感触があった。起き抜けに見た風景は、まるで絵画の一部であるかのように美しくけれど確かに目の前にある。
私は、日本で生まれて日本で育ってきた筈だ。外国に旅行なんてしたことは無いし、もっと言うなら地元から離れた事さえ無い。願望を抱いたことは幾度かあった。テレビのコマーシャルや雑誌記事で謳われるツアーや旅行の欄を見かける度に嘆息を漏らす事があるにはあった。けれど実際に行動に移したことは無い。
「は、……」
だから私は、西洋絵画に紛れてしまったような錯覚に陥るこの場所を、地元では知らないのだ。私が知らないだけでこういう場所が新しく出来たというのなら、ここまで混乱することは無い。あぁ、そうか。そうかもしれない。私が知らないだけで、ここは日本であるのかもしれない。
「……そう、かもしれない……」
私は自分に暗示を掛けていた。正気を保つ為に。笑う膝を叱咤して脚に力を込めて立ち上がる。ふと目に入れた自分の左手首に紫色に鬱血した痕を発見した。何かに掴まれたようなそれに私はほんの少し恐怖を抱いた。
「……さん、本……」
人であるならば、五本指の痕がつく筈だ。けれど私の左手首に付いていた痕は、三本だった。鬱血する程の力で握られるならば、人間の指は三本では役不足の筈だ。意図して三本で掴む人間なぞいるはずも無い。とどのつまり、私の左手首を掴んだ存在は、そもそもが三本しか指が無いという事だ。
「ッ……!」
背筋に悪寒が走って私は自分の身を抱く。恐怖、畏怖、絶望。どの感情が私に当て嵌るに相応しいのだろう。言い知れぬ恐怖が忍び寄る音はきっと私には聞こえもしない。感じることさえ出来ないだろう。嗚呼、こんなにも恐怖を抱いたことは無い。私は死ぬのだろうか。こんな見知らぬ土地にこの身を腐らせ、養分と成り果ててしまうのか。
「……ッ!」
嫌だ。私の知らない土地で、知らない場所で死ぬのだけは耐えられない。私は脚に力を込めて立ち上がり、走った。
周りは変わり映えしない風景が続く。これが映画のワンシーンやコマーシャルであったなら私はきっとあぁ美しい風景だなどと思ったかもしれない。けれど現実は違う。地面を蹴り上げる音だけが辺りに響き、人間は誰一人として現れない。生き物さえ、ここにはいない。
「はァ、は、ッ、は、……ッ!」
浮かび上がる涙が瞳を濡らす。瞬きをする度に雫がこぼれて流れていく。息を切らして走る私は、どうしたらいいのだろう。
誰にも届かない声は、私の心で散るように消えていった。
▲▼▲
この地に足を付けたのは何時ぶりか、なんて昔に思いを馳せてみても浮かび上がるものは何も無い。ただ一つを胸の奥底にしまいこんで幾重にも鍵を掛けているのだから。
「……」
ザリ、ザリ、と自分の革靴の底が道と擦れる音がする。心地いいとまでは思わないが、なんだか懐かしさを感じてしまう。今日は任務を終えてきた。たまたま近くに来たから、偶然この辺りの記憶を思い出したから、女に会う時の話のネタにでもなると思ったから、積み上がる言い訳は誰に伝える訳でもない。
女々しくなる自分に嫌気がさして、思わず小さく舌打ちが零れた。弟分にはマンモーニだなんだと言う割に自分もまだまだ甘い部分が残っている。立ち止まり深く深く息を吐いた。
「やっぱり来るんじゃあなかったぜ……」
感傷に浸りたくなるとでも言うのか、この俺が。この世界に足を踏み入れた時点で覚悟は決まっているし、出来ている。今更何を思えばいいんだ。自分に呆れた俺は此処にはもう来ないだろうと何となく感じていた。勘だが、しかし可能性は高い。だから最後にこの風景を目に焼き付けようと視線を上げた。
「……ん?」
美しい向日葵が辺り一面に咲き誇る。陽の光を浴びて、太陽に向かって顔を向けるその花は、俺とは正反対の生き方をしている。向日葵はまるで太陽の化身だ。太陽が輝けば輝く程にその花弁は光に染まる。俺の背丈よりも上にあるその花を見つめていた時だった。
道の先にポツンと一つ、黒い影を見つけた。
「……新手か?」
俺に視認出来るという事は、向こうも俺を視認出来るということ。黄色の世界に異質が飛び込んできた。俺はその場で立ち止まり目を凝らす。殺された仲間の敵討ちにでも来たというのか。いや、そんな筈は無い。あの組織なら壊滅させた。報告に無かっただけで残党がいたのか。まさか。正解は出ないまま、俺は足音を立てないようにそっとその影に近づいていく。
遠距離にいる内にスタンドで攻撃しようとも思ったが、俺の『偉大なる死』では此処ら一帯の向日葵全てを駄目にしてしまう。任務においては一切の躊躇など無いくせに感傷に浸った途端にこれとは、俺も弱くなった。
「……」
だがまぁ敵だった場合、相手に気付かれる前に殺してしまえばいい話だ。ゆっくりと、息を潜めながら近づいていく。影の正体が見える位置まで来た時には、俺は段々と眉を顰めていた。予想の斜め上を行くとはこういう事だ。蹲るそれは、小さな影だった。
「……」
どうやら追っ手では無いらしい。けれど油断は出来ない。注意深く周囲を観察してみるが、この影の他に仲間はいないようだ。つまりは、一般人で部外者か。
「あ〜……ッたくよォ……」
緊張の糸が切れた。頭をガシガシと掻いて道の真ん中で蹲る影にそっと歩み寄る。赤の他人だ。放っておけばいいと思うのに、身体は正反対の行動を取る。自分の性格を少し顧みなければと思い直す。
「おい、てめぇ。大丈夫か?」
ため息を吐いた後、俺はしゃがみこんで声をかけた。ぐすり。鼻を啜る音が聴こえた。目の前の人間からだ。泣いているのだろうか。面倒な事にならないでくれと願うばかりだ。
返答はなく、もう一度声をかけようとした時だった。俺達の間を駆け抜けるように強い風が吹き上げたのだ。思わず腕で顔を覆った俺は、徐に腕を下ろした。
「……え?」
ポツリと漏れた声は鈴の音のようなそれで、今この瞬間に俺と目の前の人間しか存在していなくて、という事はこの声の正体は、と目前を見つめたまま俺は目を見開いた。
「な……お、んな?」
ポロポロと止めどなく大粒の涙を零している目の前の人間は女だった。大して彫りの深くない顔、妙に幼さの残る表情、そして何より目を見張ったのは女の髪と瞳の黒だった。地べたに座り込んで未だ涙を流しながら俺を見つめるその双眸は、何処か見覚えがあるような気がして、心の奥底に鍵を掛けてしまい込んだものが暴れ出すような気がした。
陽の光を浴びて輝く向日葵とはまた違った輝きを放つ女の髪は、まるでカラスの濡れた羽根のような艶やかさを持っていた。
「……」
思わず言葉を無くした。女が大層な美女であった訳でない。魅惑的な身体付きをしていた訳でも無い。それでも何故か俺は女を見つめたまま惚けてしまった。今なら銃弾一発で即死だ。
「ッ、……ッ!」
「な……ッ」
惚けていた俺の目の前で、女は更に涙を落とし続けた。声さえあげずに涙だけを落とす女はただじっと俺を見つめていた。何なんだこの女は。
「お、いおいおい……大丈夫かって聞いてんだろ〜が」
たかが泣いている女にペースを崩されるとは癪だ。この辺に住んでいる女なのかどうか知る由もないが、目の前で泣く女を放置するなんて男じゃあねぇと様々な考えが交錯していく。
「なぁ、おい。立てるか?いつまでも泣いてんじゃねぇよ」
顔を顰めて女を見た。女は零れる涙に興味が無いのか拭おうともせずにただ俺を見ている。そろそろ気味が悪くなってきた。さっさと泣き止ませて女の家の近くまで送ってやっておさらばしたい。そう思っていた時、漸く女の口が開くのが見えた。大丈夫だと言え。すぐ泣き止むと。気にしないでと言われようものなら即刻立ち去るつもりだと言うのに、この女は俺には理解できない言葉を吐き出した。
『……あの、なんて言っているのか分からないんですけど……』
女の口から出てきた言葉は、俺とは違う言語だった。