Be Quiet in the mirror

あの女がアジトにやって来て暫く、ジェラートが女を気に入り始めている事が傍から見て分かった。ソルベはジェラートに付き合ってやっているだけだろうが、ジェラートは女というよりそのスタンドの方を気に入ったのではないかと俺は想像する。

「違うって。ciaoはフランクな挨拶、礼儀正しいのはbuongiornoだ」

『えっと……』

「ジゃ〜ヒカリはチャオだね〜皆にチャオチャオしよ〜」

「……厳密には、朝の挨拶がbuongiorno、昼時を過ぎたらbuonasera」

前言撤回、ジェラートもソルベも女に絆されているみたいだ。アジトのソファと机を使い、主にジェラートが女とそのスタンドにイタリア語を教えていた。感覚で物事を教えようとするジェラートに口を挟むソルベというのも珍しい光景だった。

「あ〜あと寝る前はbuonanotteかな」

『えっとボン、……ボナ、え、ん……?』

「ア、ヒカリがコンガラがっチャってる〜じぇらーとモっとゆっクリ話シテ〜」

「あぁ、悪い悪い」

時折手元にあるノートに目線を移す女だが、ジェラートがペンを取って書き、それを訂正する為にソルベがペンを取り、女にペンが返される頃には次の話題に移っていた。なんでペンが1つしかないんだ、と俺はその光景を眺めて疑問に思うが決して口に出さなかった。

「ま〜物は試しってな。チャオ、ヒカリ」

『……へ?』

何を考えたのかジェラートが不意に女の名前を呼んで片手を上げた。突然の行動に女は理解がついていかないのかペンを握ったまま間抜けた顔を見せた。ハハ、アホみてぇな顔。

「練習シよ〜ヒカリ〜チャオチャオ〜」

『え、えと……』

ギュッとペンを握りしめ、横にいるスタンドと目の前にいるジェラートの顔を見比べて、女はそれでもおどおどしていた。さっさと喋ってしまえと苛ついていた俺と違い、ジェラートは何故か笑っていた。

「ヒカリ、チャオ」

「ち、……チャオ……じぇ、ジェラー、と……?」

あれは至極簡単な挨拶だ。難しいものではない。発音が複雑な訳でもない。それなのに女は失敗を恐れるように、自分の言葉に自信が無いと表情で語る。
ウジウジされると虫唾が走る。此方の機嫌を窺われると気色が悪くなる。苦し紛れの愛想笑いが大嫌いだ。

「スゴいジゃ〜ンヒカリ〜!挨拶デキたね〜!」

『わ、うっ……』

「どーだソルベ。あの子、俺の名前呼んだぞ」

「……だから何だよ」

あんな子供でも出来るような事で褒めて、調子に乗ったらどうするんだ。スタンドに抱き着かれ、満更でもなさそうな女の表情だけがやけにくっきりと鮮明に映って、ザワザワと心臓のあたりで何かが騒ぎ立てていた。

俺は知らない。こんな感情も、女の表情が色褪せてくれない理由も、何もかも。

▲▼▲

「はァぁあッ!!?」

「うっさ」

昨夜は任務で出ていた俺に、ジェラートが声をかけてきた。ニヤニヤした表情を隠さなかった所を見ると、分かってて俺に声を掛けてきたようだった。シャワーを浴びて眠りにつこうとしたその時に、ちょっと来いと言われてしまった。
手短に済ませてくれと言えば、不敵な笑みで返されたものだから嫌な予感がしていたのだ。要件を聞く前に断れば良かったと、それをしなかった事をいつまでも後悔している。

「お前、あとでヒカリの勉強手伝ってやってくんね?」

かけられた言葉がすんなり理解できなくて暫く呆けた後絶叫してしまった。俺の大声にジェラートが顔を顰めて耳を塞いだが、お前のせいじゃねぇか。

「なっ……待て待て待て!意味が分からねぇ!なんで俺が……ッ、お前らが面倒見てただろうがよォ!?」

「俺ら今日は外に出んだ。リーダーも忙しいっていうし。暇だろお前」

「ひっ、まじゃねぇ!」

今日は仕事は無いが暇ではない。貴重な休みだ。ふらっと外に出てうまい飯でも食べようかとか、安酒を飲んで酔っ払ってやろうかとか、俺にだって予定はある。
それを、あんな身元不明の女の為に割く時間なんて、俺には無いのだ。

「いるぞぉ〜お暇カシら〜?」

「よぉ。イイってよ」

「わァホント〜!?アリがとウレし〜!」

「なッ……!?」

真っ白なスタンドがジェラートの背後から顔を出した。呆気にとられている内に承諾していないものが承諾されてしまっていた。ジェラートに抗議の声をあげようと口を開いた所で、ソルベの奴がタイミング悪くジェラートを呼びに来た。

「ジェラート、行くぞ」

「おう。じゃイルーゾォ、よろしく〜」

「いるぞぉよロシく〜」

呑気な顔の奴は俺に手を振った。間抜け面をボコボコにしてやりたい衝動に駆られる。鏡の世界に引きずり込んでやろうかとも思ったが、得体の知れない奴を俺の世界に入れたくないという思いもあり、拳を握って歯痒い思いをするに留めた。
面倒事を俺に押し付けて二人はさっさと行ってしまうし、帰ってきたら高い酒でも奢ってもらわなければ気が済みそうになかった。

「いるぞぉ、おネムそうだカラ、あとデ起コシにきてアゲルね〜」

「は、おい……」

そう言って奴はパッと姿を消してしまった。話には聞いていたが、実際に目の前で見ると本当に驚く。さっと周りを見てみたが奴の姿は無かった。女の元へ戻ったのだろうか。

「……いやいやいや、俺には関係ないね」

何を探しているんだと自分に呆れ、自分の世界に戻った。
鏡の中は静かでいい。俺の許可無しでは誰も足を踏み入れる事すらできない。素晴らしい能力だ。

「……起こしに来るとか言ってたか……」

まぁ来たところで起きてはやらないし、奴から逃げ切ればいいだけだ。この時の俺が白い奴のことを甘く見過ぎていたと後悔するのは、それから数時間後の事だった。

「だから……あぁ〜クソッタレ!」

「やダァいるぞぉモッと笑っテ〜」

ケタケタと笑うそいつの隣で俺とスタンドに対してオロオロと戸惑う女に苛立ちしか募らない。
鏡をドンドンと拳で叩かれ、騒音に耳を塞いで耐えていたのだがあの耳障りな声で何度も何度も呼ばれては、気が狂わない方がどうかしている。目を開いて睨みつけてもスタンドの方はお構い無しに笑っていてそれがさらに血管を拡張させる。その内ブチッと切れてしまわないか心配だ。

「ヒカリずット待ってタのよ〜。いるぞぉ起きてコナいもノネ〜」

「起きる気なんかなかったからな」

何もかもがうんざりだった。鏡を挟んで会話を続けていたがあのスタンドに「いつまでそこに居るの?」と首を傾げられ、俺は逃げられない事を悟った。
いや、本気を出せば逃げられるのだ。だが、こんな奴らから「本気で」「逃げる」だなんて、俺のプライドが許さなかった。

「ハァ〜……いやだいやだ」

「わァ〜楽シくお勉強ダァ〜!」

「張り付くんじゃねぇ!」

真っ白な手と顔が鏡の表面を覆う。スタンドだから皮脂や汚れがつく訳では無いのだが、視界の暴力とはこの事だ。
女の胸元で握られたノートが、笑みを絶やさないスタンドが、俺をジワジワと追い詰めた。

「ハァ〜……」

何度目かも分からないでかいため息を吐き出した。鏡の淵に腕を乗せて頬杖をついて女をじっと見た。
スタンドには腕を引っ張られて鏡から出てこいなどと言われたが、それだけは頑として断った。

「うっせ!会話してやるだけありがたいと思え!」

「ケチんぼ〜!いるぞぉのいじワル〜!」

スタンドは渋々といった様子で女の手を引きソファに腰掛けた。戸惑う女の肩を押してソファに座らせ、頬を膨らませて俺を見るそいつに鼻を鳴らして笑ってやった。
ハッ、ざまぁねェ。

「……で、俺ァ何すんだよ」

俺の問いかけにスタンドはむくれていた面から一変して輝かしい程の笑顔を浮かべた。
一喜一憂が激し過ぎる。

「いたりあ語!教エテ!ヒカリとお喋リして〜!」

隣に座る女に抱きつき頬を寄せるそれに、眉間に寄せた皺がさらに深まった。数日前、ソルベとジェラートがチャオやらボンジョルノやら連呼していた事を思い出す。
あれを、俺もやらないといけないのか。遠い目をしてみたが現状は何も変わらない。

「……俺ァ、テキトーに喋るだけだからな」

「ヤッタ〜おシャベり〜!」

「……ッ」

鏡から二人を見下ろす俺は、深い深いため息を吐いた。女はスタンドをちらりと見て俺に無言で頭を下げた。
人に何かを教えたことなんて無い。喋らない女と果たして会話ができるのか、俺には何もわからない。

「ホらヒカリ〜おシャベり〜」

『え、あッ、でも……』

「ちゃオダよ〜チャおちゃオ〜」

スタンドは女の袖を引っ張りながら喋るように促す。俺はその光景をじっと眺める。
プロシュートが拾ってきたよく分からないもの達。リーダーはコレらが存在することを許可した。俺は未だに理解できない。

「……っ」

漸く決意をしたのか、俺を見る目に力を込めて、女が強気な顔で俺を向く。必死な表情に、俺は何となく身構えた。

「ち、……Ciao……」

たかが挨拶一つ。
ガキでもスラスラ述べるその言葉を、どのくらいの時間をかけて言葉にしているのか。
そんな、そんな。

「……力んで言う言葉じゃあねぇーんだよなァ」

スタンドは花を飛ばすように破顔し、女は一仕事やり遂げたようにハァと息を吐き出して肩を落とした。

俺の名前はまだ、紡がれない。



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