そしてスペアは堂々と息をする

この決断が後に自分の首を絞める事になるという予感めいたものなど、この時は何ひとつなかった。

名前と暮らす事が決まってわずか3時間。夕日が沈む前に少年は探偵事務所へいそいそと帰っていった。彼女は自分の寝床に男が1人増えることなど大して気にしていないような様子だった。そう繕っているだけで、本当は警戒しているのかもしれないが、それを確かめるサンプルは今の時点では少なすぎる。

広いリビングには殆ど生活感がない。それはここ最近彼女がこの家に帰っていないことを物語っていた。

「ほぉ…FBIですか。映画やドラマの世界にしか存在しないと思っていました」
「日本では馴染みがないですよね」

夕飯は名前が作った。ラザニアと、それに使った余りの野菜スープ。職業柄、人が作ったものを口にすることは避けていたが同職なら安心だ。現に作る手順もしっかり見ていた。

「沖矢さんは教授を目指しているんですか?」
「ゆくゆくはそうなりたいのですが…どうもうまく行かない。隣の博士の研究を手伝わせて頂ければ、論文も認められるかと思案しているところです」

東都大学に行く機会はきっとないだろうし、阿笠博士の研究を手伝うなんて発明品の被験者になることくらいだろう。

話を聞いている間も名前は魂が宿っていないような表情で、心ここに在らずだった。いつも気丈で明るい性格のはずだし、闇を持つような性格ではない。

「明日は此方に帰られますか?もし宜しければ夕食を作ってお待ちしてます」
「沖矢さん、自炊も出来るんですか?」
「簡単な煮込み料理くらいですが…」

意外と言わんばかりに、彼女が漸く微笑みを見せた。安堵したのも束の間、明日は帰れるか分からないという返事。これ以上は踏み込めない。


いつになったらあの屈託のない子供の様な笑顔が見れるだろうか。消し去ってしまった理由が自分にあることを分かった上で、息苦しさを感じた。





* * * *







「絶対に何かあるわ。貴方、どうして許したりなんかしたのよ!」
「まあまあ哀くん…」

珍しい召集がかかったと思ったら、研究室の扉を開けた瞬間、酷い剣幕で小学生に詰められた。我がセーフハウスに身を置く男を信じられないというこの少女の気持ちは分からなくもない。ただの大学院生にしては妙なオーラを纏っているし、何より、ふとした瞬間の目つきが悪すぎる。

「哀ちゃんの言いたいこともわかるけど、あそこは私の家じゃないから…家主の決めた事には口出しできないの。それに、私も一緒に住んでるから大丈夫だよ」
「私は貴方の心配もしてるのよ!」

少年は彼を味方だからと言った。朗らかなあの雰囲気が誰かの変装だと言うのなら、腐ったリンゴかこの国を騒がす怪盗くらいしか見当もつかない。それでも少女は彼に近づくなと口を酸っぱくして咎める。今日まで会ったことはないと言っていたのに、何を知っているのか。

「何かあったら絶対守る。それに何かなんて起こさせない。あそこの留守を守るのが私の役目だから」
「貴方ねぇ…」

今朝、家を出る際にあの男は陽だまりのような優しい笑顔で私を見送ってくれた。誰かと暮らすなんて久しくて、感傷に浸ってしまったのかもしれない。それでも。


「名前さん、いってらっしゃい。夕飯は一緒に食べましょう」


少女には口が裂けても言えないが、あんなに柔らかな表情で温かい言葉を投げかけてくれる彼を、どうしても悪い人だとは思えなかった。





* * * *






「苗字名前?」

あの赤井が死んだ。そんな筈がない。
腹正しいが、あのキールに息の根を止められるような男でもないし、拘束できるのは絶対に自分以外あり得ない。

死んでも魂を売るようなことは避けたかった女に真相を明らかにする手助けをしてもらっていた。その経過報告中に出てきた、女の名前。思わずくっきり眉間に皺を寄せる。

「あの赤井秀一直属の部下で、ものすごォく優秀な捜査官らしいわよ」
「赤井が身を隠しているとすれば、彼女の協力がある可能性も捨てきれませんね…」

面白い展開になってきたじゃないか。
パズルのピースが次から次へと嵌るような感覚に痺れを覚えた。眠りながら推理をする探偵の口からもその名前を聞いたし、一人娘と交友関係があることも調査済みだった。これを使わない手は絶対にない。

「証明してみせますよ。僕が正しかったということを」

スマートフォンに指を滑らせても、懐かしいあの名前は出てこない。

2019.07.07
3.そしてスペアは堂々と息をする

BACK

×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -