善逸の療養生活

「名前さんはいつから吉原に居たんですか?」

善逸の言葉に、病室に居合わせた隊士の視線が四方から突き刺さる。

「確か…善逸さんたちがいらっしゃるひと月ほど前でしょうか」

確かに彼女が遊郭で働いていたように聴こえるのは言葉の綾だが、当の本人はそれを咎めることもなく、小さく鈴を鳴らしたような声音で答えてくれる。天使のような笑顔を携えて。

「えぇ?!そんなに長く?!よくあの帯鬼に捕まらないで過ごせましたね…」
「私は店を転々としていましたし、早い段階で彼女が鬼だということに気付くことができたので、なんとか…」

なんとか、なんてそんな簡単な話ではなかったはず。武術を心得ている音柱の奥さんでさえ全員手も足も出なかったし、自分は知らぬ間に拘束されていたという。
ややもすると、伊之助が口にしていた、"名前が非常に強い"という言葉の信憑性が高まってくる。自身が眠っている間に一緒に上弦を倒したのだと言うが、こんなに美しく優しい人が鬼を倒せるなんて俄には信じ難い。

「でも、善逸さん達が来てくださったときは本当に安心しました」
「えぇっ?お、俺が来たこと知ってたの…?」
「お琴も三味線もとってもお上手でしたよ」

ほら、この朗らかな優しい音。
とても戦闘に向かうような人ではないし、できればずっと安全な場所に居てほしいと誰もが願うことだろう。この世の庇護欲というものを独り占めにするほど、彼女は多くの人間に愛されている。

茶を飲むために外された口宛の下に柔らかな表情が顔を出す。
思わず息を呑んでしまうほど綺麗なその顔が部屋の隅を寝床とする自分だけに向いていることに酷く安堵した。
他の人間が目にすればきっととんでもない騒ぎが起きる。

「でもなんで名前さんが?音柱に頼まれた訳でもなさそうだし…」

寝台の脇に備えられた机に名前が湯呑を置く。その流麗な指先と彼女の美しい顔を交互に視線で追っていると、その細い人差し指が滑らかに魅惑の唇の前に立てられる。
鼻息が荒くなるのは大変申し訳ないが、刻々頷いてその先の秘密話を待った。

「実は須磨さんに頼まれたんです」
「須磨さんって、音柱の奥さんの?」

音柱の奥さんには結局逢えず終いだった。
かなりの美人だという噂を耳にしていたがため無性に悔しさを感じていたところだったが、それはそれでまた印象が変わってくる。

「宇髄さんが遊郭に客として行くのが嫌だと、可愛い相談を受けまして」
「えええぇ?!それで名前さんが…?!」
「ふふっ、内緒ですよ?」

内緒とかちょっと響きがやらしいですね!
そんなことはさておき、あんなに恐ろしい場所に身を置いていた理由がそんな訳だというのならこの人のネジも数本外れていることになる。
いくら柱の奥さんに頼まれたからって、上弦が潜んでいるらしい街に単身で乗り込むなんて。

「元々お館さまから宇髄さんの任務に協力を、と命を受けていたんです。私は宇髄さんの奥方さまのようにうまく立ち回れませんから、遊女というわけには参りませんでしたけど…」

いや、いやいやいやいや。
貴方が吉原で遊女にでもなってみろ。間違いなく一晩で店一番の稼ぎ頭になるほどの見目麗しい容姿であるし、おまけに充分すぎるほどの教養と炭治郎に負けないくらいの思いやりを携えている。
彼女に心奪われる柱の血と涙が飛び交う地獄を見ずに済んだのは不幸中の幸いだ…。

「名前さんの打ち掛け姿を見てみたかった反面、ちょっと安心している俺です…」
「安心、ですか…?善逸さんは本当に優しいですね」

こういうことに対しては全くもってこっちの意を汲んでくれない名前だが、隠と揃いの口宛の下に浮かんでいるであろう笑顔を想像して鼻の下が伸びる。

蝶屋敷の療養生活は辛いけど、彼女に会えるならこんな日々も頑張れる。





遊郭で負った傷は順調に回復し、炭治郎が2ヶ月ぶりに目を覚ました頃には任務に復帰する運びとなった。

復帰早々、風柱率いる隊に応戦せよとの伝令を受けた時には卒倒した。会ったことはないが、嵐のような男だという噂だけは聞いている。禰󠄀豆子のことも痛めつけたらしい。

「上弦倒したからって気ィ抜くんじゃねえぞォ…」
「ひいいぃぃぃ!」

これだ。この凄み具合は恐ろしすぎる。
血走った眼にジトリと睨まれ、掴まれた首元は今にもビリビリ音を立てて糸がほつれてしまいそう。集まった5名の隊士からは、同情と恐怖の音が哀しいほど良く聴こえてきた。
もはや酸素さえ十分に取り込めなくなって死を覚悟したそのとき。

「不死川さん。後輩には優しくしましょうね」

突如背後から聴こえた鈴の音は優しい尾鰭を引く。
いつだって人を温かい気持ちにさせる、柔らかな音。

「あれ…名前さんが見える…夢かな…?なんて幸せな夢なんだ…」
「現実だァ。いつまでおかしなこと言ってやがる」

こちらを一瞥もせず、土の上に俺を転がした風柱はごく自然に名前の乱れた前髪を撫ぜた。まるでそうすることが当たり前とでも言うように、彼女も男の手を受け容れるので本気で声を荒げるところだった。
先刻まで後輩隊士を殺し掛けた手で彼女に触れるなんて、どうかしているのはあんたの方だ。

「遅れてすみません。誰かさんがなかなか私の帯同をお許しくださらなくて」
「お前が出るような幕じゃねェって言ってんだァ」

口ぶりからして、2人は随分と親しい仲らしい。名前には恐いものが存在しないのか、風柱にそんな憎まれ口を俺たちが吐いた暁には間違いなく朝日を見る前に刻まれる。

しかしこれはさすがに美女と野獣過ぎでなので、頼むから名前さんの視界を独り占めしないで頂きたい。
一応対抗心をメラメラ燃やしてはみるものの、それでも風柱はやっぱり死ぬほど怖いので子鹿のような足取りで彼女に一歩近づいた。

「で、でも、なんで名前さんが…?」
「復帰後すぐにおひとりでの任務は心細いでしょう?お館さまに掛け合って、合同の任務に就けるよう手筈を整えていただきました」

柔らかな笑顔を向けられて、そんなことを言われたら誰だって勘違いしてしまう。それにしてもこの人は全くもって無意識なので恋の奈落に突き落とされるのはこれで何度目かもわからない。

「不死川さんの背中からたくさん学びましょうね」

学ぶも何も背中には物騒な文字しか見えませんけどね。
一瞬にして鬼を倒してくれるなら有り難いことこの上ないが、風柱相手ならどう考えても被害者は鬼の方なので、名前の言葉を素直に聞き入れられないこの状況には目を瞑って頂きたい。





なるほど確かに今夜は柱が帯同するだけの任務だった。

蔓延る鬼の親玉を風柱が討伐する為の時間稼ぎ要員だったにせよ、厄介な血鬼術に何度も劣勢を強いられ、その度に名前が隊士を守るよう動いてくれた。

流麗な剣捌きに、胸が熱くなった。

「名前!」

対峙していた鬼は塵と消えて行き、その先から汗ひとつかかずにやってきた風柱は過保護という言葉では収まり切らない思いを彼女に向けている。
全身に視線を滑らせてから、そうしてほっと一息吐き出すのを俺は見た。

「怪我はァ」
「不死川さんのおかげで皆さんご無事です」

名前が陽だまりのような笑顔を浮かべるので、まだ朝日さえ昇っていないというのに全身を安心が包みこむ。それは風柱も同様らしく、彼女の笑顔を目にした途端に殺気だった音が一瞬にして優しい音に変わった。

「皆さんとっても立派でしたよ」
「どうだかなァ。結局俺が倒しただろォが」

それにしても風柱。なんだその音はこの野郎。
名前さんが大切で大切で仕方ないという音がもうすっごい。彼女に傷なんてつけようものならあのおっさんがどれだけ暴れるかは想像に容易い。初めて鬼に同情したのも束の間、この殺気を微塵も気に留めない名前が最早いちばん恐ろしい。

「だから俺は一人で行くっつったのによォ」
「強い方の実戦を目にすることは成長に繋がるんです。お館さまにもきっとそういう意図があったのでしょう」
「…フン」

粗暴で知性も理性もない風柱を手懐ける名前を前に、そこに居た全員があんぐりと口を開けていた。
少しはその優しさをこちらに分けて欲しいと思っていたそのとき。

「名前」

風柱の中ですくすく育ってきた感情がどんなものであるかを察するには容易いほど、彼は彼女の名を甘く呼ぶ。
彼女にしか向けられることのない表情は、こうして見るとそれはそれは色男で仕方がなく見えるのだから恐ろしい。

「着とけェ、今夜は冷える」

薄い肩に掛けられた羽織。
初めはきょとんと首を傾げていた名前も、大切そうに袖を口許まで持ってゆくと、頬をほんのり赤く染める。
柔らかな鈴の音がして、その様子を見ていた風柱からも同じように優しい音がした。

「…あったかい……ありがとうございます。不死川さん」

嗚呼、名前さん。それは駄目だ。

そんなに可愛い顔見せたら、確かに風柱だってイチコロだ。

「………なに見てやがる…」

こんな恋愛劇を見せつけられるくらいなら単独任務の方がよかった。どうしていつだって良い思いをするのは柱ばかりなんだ。

ああ、もう、本当に…

「柱なんて、嫌いだァアアア!」
「ぜ、ぜんいつさん、落ち着いてっ」

風柱に刻まれるまであと数秒。

2022.03.24
善逸の療養生活

BACK

×
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -