ぐっすり眠るなんて鬼を追い求めるようになってからは無縁だったし、悪夢に襲われることなく朝を迎えた回数は片手で事足りる。
だから、小鳥の囀りで目が覚めたこともさることながら、頭がすっきりと覚醒するほどよく眠れたなんて随分と久しぶりのことだった。
左半身に感じる重みと熱、腕の中の愛しい寝顔に、昨晩の出来事が夢でなかったことを思い知る。
「名前…」
頬を撫でれば気持ち良さそうに口許が緩められ、思わず自身の表情も緩んだ。随分と暖かい夢の中に居た気がする。
全てを塗り替えるなんて歯の浮くような台詞を受け入れられ、浮き足立たない方がどうかしている。
このまま朝が来なければ良いという言葉を人生で初めて口にするほど短い夜だったし、陽が昇るまで何度も名を呼ばれ、その度に張り裂けそうなほどの愛に全身が支配された。
とても心地が良かった。
ゆったりと持ち上げられた長い睫毛。昨夜の情事が思い起こされぼうっと見惚れていれば、冬の朝日に負けないほど柔らかな笑みを見せてくれる。
「…おはようございます」
「……おう」
傷だらけの胸元に頬を擦り寄せられ、絹のように柔らかな髪に指を滑らせる。
喉の奥が痺れるほど甘い時間が、羽屋敷に流れた。
「しなずがわさんの匂い…」
「嗅ぐなァ」
すこし掠れた声が名を呼び、未だ寝起きで眠たい瞳がこちらを向いた。甘えるような仕草も相まって朝からまたとんでもない感情に襲われかけてしまう。
肌蹴た浴衣を手繰り寄せる姿も目に毒で、煩悩を掻き消す為に細い身体を強く抱き締めれば首筋に咲く真新しい花が目に入って逃げ場がない。
「よく眠れましたか?」
「誰かの寝顔見てたら気ィ抜けてぐっすりだったぜェ」
「わ、忘れてくださいそんなのっ」
恥ずかしいと両手で顔を覆ったかと思えば、頬をぷっくり膨らませる。自分にしか見せないような姿が愛らしく思わず額に口づけを落とした。
昨晩の出来事は2人の間で秘められることになるだろう。無性に切なさを感じるが、関係性に名前をつけられない現状では仕方のないこと。
きっともなしに気付かれてはいるだろうが、俺はまだ彼女にきちんと気持ちを伝えていない。
「いい天気…」
「…洗濯日和だなァ」
降り注ぐ太陽の日差しを浴びに、腕の中から名残惜しい熱が離れてゆく。
雪を反射して眩しいほどの陽光は名前の美しい顔立ちをより一層引き立てた。布団の中から惚けて見つめていれば、とたとた走って戻ってくる意中の女が顔を覗き込む。
距離の近さを意識して思わずたじろいだ。
「ご飯にしましょうか。お見舞いに上等なおはぎを戴いたんです」
凍てつくような冬の朝も、彼女と二人なら春がそこまで来ていると信じてしまうほど暖かい。
小さな両手で腕を引かれ立ち上がる。向けられた笑顔に影はもう差さなかった。
名前が割烹着を身にまとい厨に立つ姿を眺める時間が好きだ。伏せられた睫毛に、集中すると少しだけ尖る唇。いつも全てを忘れて触れたくなる。手伝うフリをしてその愛おしい横顔を眺めている時は、過去の悲惨な出来事を忘れられた。
「葉っぱは白米に混ぜましょうか。塩加減は不死川さんにお任せしたいです」
「あぁ、わかった」
こうしてたまに頼ってくれるところが堪らない。柱として距離を置かれることが多い鬼殺隊人生の中で、対等に扱ってくれるところも好きになった1つの理由。
名前の手によって手際よく切られてゆく大根がどのような姿に変わるのかは検討がついていた。二人分にしては量が多すぎる。
「きっともう時期時透さんが帰られますから、たくさん作ってあげたいんです」
その表情はまるで家族を思うような柔らかさを含んでいた。
名前はどんな時も人のためを思って生きる女だった。自分を顧みなくなるその危なさを己に重ねたことがあるほどに。
「アイツも、お前の飯食ってるときはガキっぽくて可愛げあんのになァ」
「いつだって時透さんは素直で可愛らしいですよ」
どこがだよと口を吐きそうになった言葉を既のところで飲み込む。彼女が並々ならぬ思いで霞柱を世話していたかを知っているのは、きっと自分とお館様くらいだろう。
数年前、山奥の小さな家の中、瀕死状態の時透を見つけたのも名前だった。
青々と稲が生い茂る山を揺らすのは、湿気を孕んだ生ぬるい風。
同行者は鬼殺隊の長、産屋敷耀哉の奥方であるあまねと、その子女。歩幅の小さな彼女たちを差し置いて、名前はそんな蒸した夏の山をただひたすら走り抜ける。
「お願い…間に合って……」
先刻に感じたあの気配が、あの匂いが、どうか自分の思い過ごしであることを祈ってたどり着いた小さな家の中に、二人の少年はいた。
嫌な予感に終わってほしいと願った血の海に。
1人は既に息をしていなかった。それでも隣に、確かにひとつの命が在った。
「私の声が聞こえますか」
震える声には何の返答もない。酷い状態だ、一刻の猶予もならない。
血に塗れた少年の身体を仰向けに整え、側にあった包丁を手に取る。何の躊躇いもなく腕に刃を充て、遅れて到着したあまねの声すら聞き入れずに傷をつける。この刃物で目の前の少年が鬼に応戦したかと思うと喉の奥が熱くなった。
腕を滴る鮮血を口に含み、少年の口へと移す。
どうか、どうにか、彼の小さな命の光が灯り続けますようにと祈りながら。
「大丈夫。きっと、きっと助かります」
自身に言い聞かせるよう焦燥を孕んだ声音。
名前の声に導かれるよう、少年の左の指がぴくりと反応したのを、あまねは見逃さなかった。
それから数ヶ月、名前は羽屋敷を空けた。
風柱が顔を出しに行ったその日も、その後就いた長期任務から帰還した日も。邸を訪れては人の気配すら感じられず、悶々とする自分を叱咤する。
怪我人を救うのがあいつの仕事だろうがァ。
頭では判っているのに、主人が消えた屋敷に何度も何度も脚を運んでは彼女の面影を探した。
数週間して、漸く羽屋敷に灯りが戻る。
鴉からの知らせを聞いた実弥は任務を終え、もの寂しくなった桜並木を抜けた。
「不死川さん。お久しぶりです」
「…おう」
陽だまりのように柔らかく頬を綻ばせた女が、やっと自身を出迎える。
その笑顔を一目見ただけで、この数ヶ月に溜まった疲労がすっかり消えていってしまった。彼女が側に居るだけで睡眠すら己には必要ないものだと感じるのだから恋とは恐ろしい。
「名前…?」
声を上げたのは自分ではない。視界の奥から現れたのは髪の長い子供は眠たい目を擦りながら名前の横に並ぶ。
「時透さん。お目覚めですか」
始まりの剣士の子孫とは聞いていたが、年端も行かない子供ではないか。
時透と呼ばれた少年の揺蕩う瞳はぼんやりとこちらを見上げる。
「だれ?その人」
実弥は拍子抜けした。
数ヶ月もの間、好いた女が男をつきっきりで看病していたという噂に渦巻いたどす黒い感情は杞憂だったのかと。
少年相手に嫉妬をしていた事実に罪悪感を覚えたのは一瞬のこと。
名前の返事も待たずして、彼女の着物の袖を掴んだかと思えば華奢な身体を引き寄せた。
一瞬の出来事に開いた口が塞がらない。
「名前、今日も一緒に寝れくれる?」
「と、時透さん…」
「駄目なの?今までずっと同じ布団で寝てくれたじゃない」
その挑発的な態度にふつふつと沸き上がる感情が何なのか自覚はもちろんある。
こちらを居ない者とし、触れたくてたまらなかった名前の白い肌に少年の手がいとも簡単に重なった。
頭にカッと熱が昇った。
「…邪魔したなァ、帰る」
「し、しなずがわさん、まって、」
子ども相手にどうしたというのか。自制の効かない脳に、身体に、辟易とする。
彼女の笑顔は自分だけに向けられているものだと勘違いしていたことに、このとき漸く気が付いた。
短い羽織に触れた女の指を拒絶したのはこの日が最初で最後だった。脳裏に浮かぶ名前の悲しい顔は当分身体中を蝕むことになったし、数日後、詫びの印に大量の甘味を買って彼女を訪ねたら声を上げて笑われた。
蝶屋敷の門を潜るのはいつぶりだろうか。
ここに来る道のりすら鴉に連れて来られない限り思い出せないのだから、そんなことはどうでもいい。
ただ早くあの笑顔に会いたい一心で雪道を駆け抜けた。
「名前」
最後に覇気のある顔を見たのは随分前のことで、向けられた笑顔の暖かさにホッとする。
羽屋敷で彼女を発見したときは声をかけても苦しい吐息しか返ってこなかった。
「時透さん。おかえりなさい」
その言葉をずっと聞きたかった。
誰の目も気にせず、か細い身体を腕に閉じ込めれば柔らかな花の匂いに包まれる。
「名前もおかえり」
髪を撫でてくれる優しい手つきが好きだ。悲しいわけでもないのに、涙を流したくなるほど温かい。
「はい、ただいま戻りました」
「…うん。ずっと待ってたんだよ」
保持できないはずの記憶の中で、彼女はいつも笑っていた。
これから先、その笑顔は僕がずっと守り抜く。
羽屋敷へ戻る許可が降り、渋る名前を抱えて桜並木を抜けた時には銀白の世界に彼女と僕だけが存在しているような気がして寒さなんて感じなかった。
それでもずっと心に引っ掛かっていたあの山小屋での出来事は、2人きりの邸に着いて仕舞えば口にせずにはいられない。
「不死川さんと口吸いしたって本当?」
雪の積もった羽織を攘う背に問いかけると、ゆったりまつ毛を持ち上げた名前と視線が交わる。
「宇髄さんから訊いた」
雪を撥ねる光に照らされた名前は一等美しい。その上頬を赤らめ、水分の膜を張った瞳でこちらを見上げるのだから無性に腹が立つ。
「…慰めてくださったんです。きっと」
彼は優しい人だから。
そう言ってこの世に存在するどんな花より美しく微笑むのだから、悔しさが募る。
守れなかったことも、真っ先に駆けつけられなかったことも、いつだってそれをやってのけるのが風柱だということも、全部悔しくて堪らなかった。
彼女をそんな顔にさせる存在は自分だけでいい。
「じゃあ僕がしても、名前は拒まない?」
「え?」
振り返った小さな桜色に触れたのは一瞬のこと。これが陳腐だと笑われたって構わない。
溢れ落ちそうなほど見開かれた瞳には、自身のむっとした表情が映る。
「僕は名前が好き。名前も僕を好きになってよ」
細い手首を引き、そのまま首筋に顔を埋める。柔らかな花の匂いは先刻より強く香り眩暈さえ覚えた。
耳許にあまく息を吹きかければ、名前の身体がぴくりと跳ねる。
「もちろん男として……ね?」
額を合わせると漸く視線がかち合った。羞恥心からか、その瞳には溢れそうなほどの涙が浮かんで可哀想なほど。
こくこく小さな頭で頷いた名前は逃れるように身をよじる。
「ぞ、草履を…!干してまいります…っ」
「今…?」
取ってつけたような言い訳を残し足速に廊下を駆ける名前の項が、遠目でもわかるほど真っ赤に染まっているのを目にして頬が緩んだ。
「これで少しは意識してくれるかな」
あんな顔をされたら、もっと色んなことをしたくなってしまう。
羽屋敷の広い湯船に浸りながら、名前の柔らかな唇の感触を思い出してうっかり逆上せかけた。
お陰で風柱がやってきたことには居間に辿り着くまで気が付かない。
2022.02.23
風柱の記憶と霞柱の記録
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