柔らかな風に舞う

件の男に襲われたあの日から名前は1週間眠り続けた。
確かに打撲や捻挫が目立ったが1週間も目を覚さないような怪我ではない。この屋敷の主人は精神的なものだろうと判断した。自分も同意見だった。

「みんなが待っている」

部屋に溢れる花や菓子折りをみれば、彼女の無事を願う人々の思いは一目瞭然だった。

綺麗な寝顔を見つめ、時間だけが無情に過ぎてゆく。白い首筋に浮き上がる痣だけがどう考えても彼女に不釣り合いで握りしめた拳に力が篭る。

ーー早くあの優しい笑顔を目にしたい。



それから蝶屋敷を訪れることができたのは2日後のこと。
一目散に向かった名前の部屋に人の気配はない。

何故か焦燥に駆られ屋敷中を探し回る。
庭へ続く廊下に差し掛かったところで、少女たちの賑やかな声は意中の女の名を呼んだ気がした。

「名前さん、わたしも!」
「次はわたしも!やってやって!」
「はいはい。順番ね?」

鈴が鳴るような柔らかい声音を耳にしたときには身体が勝手に動いていた。
縁側で少女たちに囲まれているのは紛れもなく、この1週間会いたいと願い続けた名前の姿。陽の光を浴びて、天使のように浮き上がる彼女の表情は想像していたよりもずっと柔らかい。

「昨日の夜に目が覚めたんですよ」

音もなく忍び寄ってきた蟲柱の笑顔には安堵が浮かぶ。それを目にしてようやく肩の力が抜けたが、脚は縫い付けられたようにそこから動かない。

「…怖いんですか?彼女に触れるのが」

見かねた女の発言に言葉が出なかったのは図星だったからではない。その時初めて、名前と接することに恐れを感じていると自覚した。
あの日、あの時、もっと早く異変に気がつくことができていれば。何度もそんな経験をしてきたが故に、後悔が胸を苛む。
彼女の過去を目の当たりにして、何もできない自分の非力さに打ちひしがれた。

「拒まれるのが怖いんだ」

思いの外弱々しく揺れた空気に胡蝶しのぶも目を見張る。冨岡さんも人間だったんですねと心外過ぎる言葉が飛んできたが、自身の杞憂はその後の蟲柱の一言で綺麗さっぱり消えてしまった。こう言うところで同僚は大切にしなくてはならないと改心する。

「あなたが知っている名前さんを信じてあげてください。私たちにできることはそれだけです」

ひとつ、ゆっくりと息を吐き出してから足を踏み出す。
薄い肩にそっと手を置けば、澄み切った大きな瞳と視線がかち合った。

「名前。おかえり」

向けられた柔らかな太陽のような笑顔を、俺はもう絶対に失くさない。




△ ▽ △ ▽





桜並木が伸びる先に羽屋敷は存在した。

邸の周りは、春に淡い花を纏い、夏は蒼々とした葉が生い茂る。そうして秋にはすっかり裸になってしまった木々も、今ではすっかり雪化粧を施して辺りを純白に染めている。

「……名前…?」

並木道には小さな足跡が続く。まだ雪に埋もれていないそれは先に存在する一つの屋敷へ向かっていた。
無意識に足取りが早くなる。

蝶屋敷へは足を運べなかった。毎晩任務があったし、何より会うのが怖かった。
それでも本当は、毎日夢現に呼んでしまうほど彼女に会いたかった。

「名前」

勢いよく開け放った玄関口で、濃紺の着物が揺れる。
顔を上げた女の霜焼けた赤い手から雪でずぶずぶに濡れた草履がぼとりと音を立てて落ちた。

「しなずがわ、さん、」

こぼれんばかりに開かれた瞳に水分が孕まれる前に、気づけば氷よりも冷たい手を引いていた。
沓脱石の上から舞うように飛び込んできた身体と肩口に掛かる吐息は、生きていると感じるには十分過ぎるほど温かい。

「おかえり、名前」

久しぶりにこんな言葉を使ったから声が震えて情けないし、きっと見るに堪えない顔をしている。
おずおずと背に伸びた手がもどかしくて腕の力を緩めれば、ずっと、ずっと、逢いたくて堪らなかった女の困ったような表情がこちらを伺っている。

「ただいま戻りました。不死川さん」

どこかで小さく鈴が鳴る。
柔らかな陽だまりを連れてくる笑顔を、俺はもう絶対に失くさない。





「体はもう大丈夫なのかァ?」

炬燵の中で悴んだ手を温める名前に茶を運べば申し訳なさそうに眉を下げられる。
妙ににぎこちない雰囲気の中ではあったが、目の前に腰を下ろして自分もようやく肩の力が抜けた。

「1週間も眠っていたので力は有り余ってます」
「にしても体力落ちてんだろォ。よくこんな雪道歩いてこれたな」

確かに元気そうだがやはり一回りほど痩せた。元々線が細いし風邪もひきやすかったはず。
外では深々と雪が降り続いている。

「僕が連れて帰ってきたんだよ」

気配を消していたとでも言うのならやはりこの少年は選ばれた人間だ。同職という立場においても思わず舌を巻く。
足音も立てずに名前の隣に腰を下ろした少年は甘えるように彼女に頬を擦り寄せた。

「…お前もいたのかよ」
「名前。膝枕」
「おい、無視すんじゃねェ時透ォ!」

いつものようにこちらを居ないものとして扱う可愛げの欠片もない後輩は怒鳴り声すら聞こえないと言うように名前の膝に頭を転がす。
当の彼女はくすりと頬を綻ばせて目を細めた。その小さな桜色の唇が霞柱の名を紡ぐことにさえ嫉妬を憶える。

「前にもありましたね、こんなこと」

時透の長い髪を行き来する指先に見惚れてしまっていたが、その後の話は容易に想像できて、目の前の茶を態とらしく音を立てて啜る。

「あの日は不死川さんが怒って帰ってしまって」
「名前…余計なこと言うんじゃねェ……」

時透無一郎が瀕死の状態で見つかってから名前は暫く此処には帰ってこなかった。
あの頃の自分は彼女に逢えないストレスで荒れ狂っていた自覚があるので、できればこのまま思い出したくはない。

「今日はお二人ともゆっくりして行ってくださいね。蝶屋敷は賑やかだったから少し寂しくて」

伏せ目がちにそんなことを言われて首を縦に振らない者がいるのであれば名乗り出ていただきたい。
食い気味に返事をしようとしたが、無機質な少年の声にそれを阻まれこめかみに青筋が浮かぶ音がした。

「じゃあ僕が一緒に寝てあげる」
「駄目だ」
「なんで不死川さんが決めるの」
「うるせぇ。ガキが色気付いてんじゃねェ」

小さな身体にひっつく霞柱に嫉妬を覚えるなんて、できれば今日が最後であってほしい。
それでも彼女があんなに優しい笑顔を見せてくれるなら、こういう日常も悪くない。





ぴったり隣に敷かれた布団に名前がいる。どっちを向いて眠ればいいかもわからず天井を仰ぎ続けた。
長い後ろ髪を引かれながら任務に向かった霞柱がここで寝ると言って聞かなかったので自分もそれに倣ったが、まさか2人きりになるなんて夢にも思わなかった。

「静かな夜ですね」
「あぁ…」

2人で過ごす夜は初めてではないのに、緊張から己の心音だけが脳に響いて五月蝿い。
名前の寝巻き姿も目に毒だった。身体の線がくっきり浮かんで脳裏から離れない。

「不死川さん」

こちらの気を露ほども知らない穏やかな声を視線で辿ると名前も天井を向いていた。あの夜の出来事は夢だったのではないかと思うほど、この邸は時の流れが緩やかで気を抜いてしまう。

「ちゃんとお礼を言っていませんでしたね…。あの晩、助けに来てくださってありがとうございました」

否、確かにあの夜は存在した。
目を閉じて、名前は小さく言葉を紡ぐ。
自分がもっと早く異変に気付いていたら、彼女は二度とあんな思いをしなくて済んだ筈だった。

「…間に合わなかったろォ」

白い首筋に滑らせた指先がかさりと音を立てて傷に触れる。きっと身体中で傷が癒えていない。
思わず眉間に皺が寄る。

名前は身体の向きを此方に向け、ゆるゆると首を横に振っていた。

「あなたの姿を目にしただけでもう大丈夫だって、確信したんです。不死川さんが来てくださらなかったら今頃わたしはここに居ません」

星空を閉じ込めた瞳と視線がかち合う。あの夜、確かにそこに流れていたはずの雫を拭うように頬に触れると身体が強張ったような気がして腕を引っ込めた。しかしそれはいとも簡単に彼女の小さな手に遮られてしまう。

「名前、」
「いつも助けてくださって、本当にありがとう」

粂野匡近を失った夜、これ以上この世に大切なものを増やさないと誓った筈だった。それでも彼女はいつだって心の真ん中に居続ける。
人を愛すること、大切なものを守ること、其処から生まれる強い力を教えてくれ、時には荒んだ心を凪いでくれた。
彼女に貰ったものはこの身体の中に数え切れないほど存在している。

「不死川さんの手は暖かくて、触れられるといつだって幸せな気持ちになるの」

握られた手の甲に頬を擦り寄せられ、胸の中に愛が溢れて苦しい。
気付けば同じ布団に居たし、名前の身体は自身の腕の中にすっぽり収まっていた。薄い着流し越しに感じる肌はいつもより幾分熱い気がして眩暈がする。

「あんまり可愛いこと言うなァ、これでも我慢してんだ」

恥じらうように紅く染まる頬。潤んだ瞳を下から向けられ、自ら詰めた距離に失敗したと思わざるを得ない。
…これは本当に我慢が効かなくなる。

「我慢……しなくて、いい」
「……………は?」

消え入りそうな声に、最初は都合のいい空耳かと本気でそう思った。
まるでそれが合図だと言わんばかりに、星空を閉じ込めた瞳が己を貫いて、思わずごくりと息を呑む。

「不死川、さん、」

湧き上がる激情。熱い身体。絡まる指の先。交わる視線。重なった唇。

優しい鈴の音が脳を木霊した。どうもそれはさっきから自分の名前を呼んでいる。

「全部塗り替えてやるから覚悟しろ」

今夜はこの世の幸福全てが己に降り注ぐ。
名前のか細い腕が首に回った。


2022.02.14
柔らかな風に舞う

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