俺のとなりで息をして

空の寝台を前に、この邸の主を纏う温度が急降下した。遅れてやってきた水柱も、表情こそ崩すことはないが焦りを感じているらしい。

「ほんとすみません…本当にすみません!」
「竈門くんのせいではないですよ。しかし弱りましたねえ…君の嗅覚すら掻い潜ってしまうとは」

炭治郎が目を離した一瞬の隙に名前は姿を消した。
義勇が蝶屋敷に到着したころには血相を変えた炭治郎が蟲柱に頭を下げているところで、羽屋敷にも彼女の姿はなかったと言う。

「迷惑をかける事を何より嫌う人です、2度と私たちの前に姿を現さない可能性もあり得ますね」
「…しかし、行く先は限られて、」
「では冨岡さん、貴方に質問します。羽屋敷以外に彼女が身を隠す場所に心当たりはありますか?」
「…不死川と合流する」

昨夜の名前の力無い姿が目に浮かぶ。彼女を何も知らないという現実を突きつけらて、悔しさから身体がどうにかなってしまいそうになる。




△ ▽ △ ▽





全身に走る痛みは自業自得。蟲柱が注入した睡眠薬は中和剤を飲んでどうにか堪えたが怪我が治るわけではない。
炭治郎には申し訳ないが、上弦の鬼が大きく動いている最中、こんな私情に彼らを巻き込むわけにはいかなかった。

「うん、偉いね。ちゃんと言うことを聞いてくれるようになった」

たどり着いた山小屋には不気味な笑みを携えた男が待ち構えていた。
近づかれるたびに、幼少期の記憶に支配され身動きが取れなくなってしまう身体が恨めしい。

「お願いします。彼らに危害は…」
「それはこの後の君次第だよ名前。どれだけ俺が君を待っていたか、身体でわかって貰わないと」

羽屋敷へこの人が訪れたとき、言うことを聞かないと鬼殺隊を内部から崩壊させると脅された。本当に何をするか分からないこの男を、これ以上鬼殺隊に関わらせるわけにはいかない。
自分さえ犠牲になれば済むのなら。

温度を持たない瞳が自身の肢体を見下ろす。伸びてきた両の手に身体の輪郭を確かめるよう撫でられ、嫌悪から身体がびくびく震えた。

「お前の身体は俺を忘れられないみたいだね。ああほら、こんなにも反応している」

額に充てられた唇が、下へ下へと降りてくる。床へ縫い付けられた身体はもう、随分前から抵抗することを諦めていた。

「っ、!」
「我慢せずに声を出せ。ほら、はやく」

首を舐められ、唇を噛みすぎて鉄の味が口に広がる。痺れを切らした男は不気味な笑顔を一層濃く染める。

「言うことを聞けないのなら…藤の家で隊士たちに毒入りの料理を振る舞おうか」
「や、やめて、」

口を開いたのを逃さないとでも言うように男の舌が口内に伸びた。呼び起こされる記憶や痛みに、それ以上言葉を発することさえできやしない。

「じゃあ誠意を見せて貰わないとなぁ。名前、自分で服を脱いで俺を誘ってごらん」

解かれた拘束。それでも恐怖に支配された身体は言うことを聞かずうまく動けない。
鳩尾を蹴られ、自分の呻き声が骨を伝って脳に届いた。

「できないなら…なにされても抵抗するなよ」

腰の上に跨られ、舌舐めずりをした男の顔が再び近付く。
服を剥ぎ取られると察知して眼を閉じたそのとき、大きな音と共に扉が吹っ飛んで、古屋に冷たい風が吹き込んだ。

「コイツに触るな。殺すぞ」

地を這うような低い声。その言葉を覚悟として背負った男が視界に飛び込んで、もう枯れたと思っていた涙が無意識に溢れた。




△ ▽ △ ▽





「しなずがわさん…」

目の前の光景に脳の血管がぷつりと切れたような音がして、視界が赤く染まる。名前の声が聞こえなくなるほどの怒りに吐き気すら催した。

「お前…俺の邪魔をするな……っ?!」

名前に馬乗りになっていた男に、渾身の力を込めて拳を振るった。
古屋の壁を突き破り地に沈んだ身体を、その先で水柱が真剣を片手に待ち構えていた。
骨折の痛みにのたうち回るその男に追い打ちをかけようと刀を振り翳すのは、お前の仕事ではない。

「冨岡ァ!そいつは俺の獲物だァ、手出すんじゃ…」
「だ、だめ」

力なく羽織りが引っ張られ、漸く意識が浮上する。腰回りには涙を流す名前が何度も首を振って縋り付いていた。

「…無事、ですから」

白くて柔らかいはずの両手が赤黒い痣だらけになっているのを目にしなかったら、自分もとどめの一撃を入れに行くつもりだった。掬ったその手はひどく冷え切っている。

「…宇髄が警察連れてくるから安心しろ。お前は1人で何でも抱えすぎだ」

落ち着きを取り戻したのは一番辛い思いをした人間がこの女だとわかっていたから。その上また守り切れなかった。
視界の端で、冨岡が刀の柄で男を殴って気絶させ拘束しているのが見えた。

「どうして…」
「時透から話は聞いた。アイツが珠世ってやつにお前の故郷を訊いてここが分かった」

鳩尾を抑えながら起き上がった名前を支える。震える身体が頭を持ち上げて、似合わない悲しい瞳が俺を見上げた。

「ごめんなさっ、」
「謝んなァ。今まで気付けなかった俺たちのせいだ」

胸に広がる水分が暖かい。冷え切った彼女の身体にまだこんな熱が残っていることに酷く安堵した。
それでも今までどんな想いを抱えて過ごしてきたのか、想像しかできない自分が情けない。

「お前が辛いときに、そばに居てやれなくてすまなかった」

ふるふると首を振るたびに着物の合わせ目から覗く歯形や痣の跡。外傷だけではない。心にはきっともっと大きな傷を負っている。
もっと早く、気づいていたら。寄り添うことができたら。

「好きな女を守れなかったんだ。気が済むまで殴っていい」
「わたしが黙っていたのですから…自業自得です。あなたはなにも、わるくない」 

くたりと身体のどこにも力が入っていない名前が腕の中で無理矢理笑う姿が痛々しい。
お前は何も悪くないのに、そんな面して笑うな、悩むな、悲しむな。自分を闇から救ってくれたときのように、自身も名前を救いたかった。

「お前は穢れちゃ居ねェ。頼れって言っただろ、もう居なくなるな」

謝られるのはもうたくさんだったし、何より心から笑って欲しかった。性急に唇を塞げば確かに知っている温度が存在する。

「…こんな私を、必要としてくださるのですか」
「前にも言ったろォ。頼むから、俺のそばでずっと息して笑っててくれ」

あのときと同じように頸を真っ赤に染めた名前が涙を流して眼を瞑る。
ずっとだなんて約束をできない世界で生きている自覚は十二分にある。それでも言葉にせずにいられないのは、彼女を失う未来を描くことができないから。

「この身が消えるまで、みなさまのおそばに居させてください」

みなさまって何だよと笑い飛ばしてやりたかったのに、いつの間にか現れた霞柱と水柱も重なって納得する。
これは笑いどころの話ではなくなった。

「時透、不死川、邪魔だ。そこを退け」
「情報収集したの僕なんだし、美味しいところ持ってかせるわけないでしょ。名前、一緒に帰ろう」
「お前ら2人とも離れろやァ!」

それからすぐに音柱が警察を連れてきて件の男はお縄に罹った。
名前は警察が到着する前に眠りに落ちて、あいつの顔をもう見ることがなくてよかったと、実弥は息を吐く。

もう2度とあんな想いはさせない。お前の脅威は必ず俺が制圧する。
実弥は一人誓った思いを胸に、眠る名前の頭を優しく撫でた。

2021.01.04
俺のとなりで息をして

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