はじめまして風柱様

鬼をこの世から滅ぼすこと
実の母を手にかけたあの日から、ただそれだけが生きる理由だった。
漸く心を開いた兄弟子を失うのと同時に自我をも無くし、血反吐を吐くような鍛錬を積んでいると風柱という称号がついていた。そんな地位が欲しかったわけでは無い。
兄弟子と切磋琢磨する時間が好きだった。
鬼という存在全てをこの手で消し去って、唯一生き残った弟が平凡な幸せを過ごすことのできる世界を作りたかった。

ただそれだけのはずだったのに。
我が人生に光が差したあの日のことを、きっと死んでも忘れることはできない。





「不死川さんですね。わたしは苗字名前と申します。鴉から話は伺いました」
「何を聞いたかはさっぱりだが、俺は誰の手も借りるつもりはねェ」

女は突然、この世の平和を象徴するような柔らかい笑みを浮かべてやってきた。
鬼が蔓延る中、何の苦労も知らず呑気に笑うその女に実弥は沸々と苛立ちを覚える。

「お館様のご命なので。1日でも構いません、お怪我を治すお手伝いをさせてはいただけないでしょうか」
「チッ……勝手にしろ」

後ろ手にお邪魔いたしますと丁寧な声が聴こえて実弥は再び舌打ちを漏らした。そのお館様にはつい先日大変無礼な態度をとってしまった手前、命令に背くわけにはいけない現状と自分に腹が立つ。

「…だりぃ……」

戦闘には血が欠かせない。己に通う、稀少な血が。

柱にのぼり詰めてから今日まで碌な睡眠をとっていなかった上、食事の時間すら惜しんで鬼を狩っていた。後先考えずに行動してしまうのはお前の悪い癖だと兄弟子の声が耳に届く。死んだなんて嘘だったんじゃねェかと突っ込みたくなるほど鮮明にその声は脳内を何度もこだました。
それから瞼を閉じてしまえば柔らかな羽毛に包まれて、心地の良い鈴の音色が響く。

「…今日もみんなのためにありがとう、不死川さん」





目が醒めると太陽はかなり高い位置から横たわる己を見下ろしているようだった。
全身を纏う柔らかな布団、鼻をくすぐる食い物の匂い、自分の他に誰かが家にいるという感覚。全てが違和感として己を襲い、実弥は身震いした。
それでも空腹に従順な腹はその美味そうな飯の匂いに鳴き声をあげる。同時に障子の奥から控えめに鈴が鳴った。

「おはようございます。ご気分はいかがですか」
「…」

返事が無いのを肯定と受け取ったのか、女はひょっこり顔を覗かせた。やはり今日も温室育ちの柔らかい笑みを携えて。

「お食事をお持ちしました。不躾に台所をお借りしてしまったお詫びに」
「お詫びだなんて思ってねえ面だなァ。いつまでここで油売ってるつもりだ、失せろォ」

この女の正体について何も知らされていないが、己の身体を眼にすれば大方見当はつく。いくら蝶屋敷からの遣いだったとしても、こんな男の家に女が1人で脚を運ぶのはいただけないだろうに。

「失せません、ここに居ます」

女は柔らかさを含んだまま、そう言い放った。
また、鈴が鳴る。出どころを探るようにようやく顔を上げたのと同時に、再び腹の虫が大きく鳴いた。

「…不死川さん。お腹を見習って素直になればきっと楽になりますよ」
「なっ……余計なお世話だァ…!」
「食べましょう。お口に合うかは分かりませんが、これも生きていくため。食材に罪はありませんから」

ほかほかと湯気の立つ白米を前に、手を動かさない他、術はなかった。何度も食べ物を粗末しないためだと自身に言い聞かせて。
至って素朴な献立は幼少期を蘇らせる。暖かさが身体に染み渡る、どこか幸せを含んだその味に喉の奥が少しだけ熱くなった。
奥で膳を運ぶこの女の笑顔だけは、やはりどうしても気に食わない。



女はそれから何度も邸にやってきた。
先日施された処置は的確で、その頃には傷痕も消えていた。蝶屋敷はいいのかと尋ねて初めてそこからきたのではないと知る。山をひとつ越えてきているのだと。驚きのあまり声を荒げた。

「何故そんなに俺を気にかける」

名前はひだまりように柔らかな表情を携えたまま俺を見た。血に濡れた白い羽織を桶に浸し、そっと手を放せば鈴が鳴る。
血を、見るな。知るな。触るな。もう遅すぎる願いが叶うことはないのに、自身の脳内はそればかり。現にここにコイツが足を運ぶのは俺が懲りもせずに血を流しているからだろうに。

「俺はテメェみたいな箱入り娘に介抱されるような人間じゃねェ。穢れた世界生きてんだ、もう関わるな」

お前は何も知らぬところで、今までどおり何も知らずに笑っていればそれでいいだろう。そんな想いを抱くようになったのは彼女が訪れる日を待つ自分を自覚してしまったから。
これ以上大切な存在になってくれるなと、警鐘は脳内を鳴り止まない。

「何故穢れていると?」

女は立ち上がり、真正面から俺を見た。
思わず息を呑むほど美しいその出立ちに何故か焦燥を覚える。
鈴が凛と鳴った。それはどうも目の前の女から聴こえてくる。

「お前には関係ね、」
「匡近さんを知っています」

彼女は返事を待たなかった。
久しぶりに他人の口から出た兄弟子の名はひどく優しく紡がれている。その兄弟子も、俺が大切に思ったがために消えてしまった。

「優しくて、愛の溢れる人でした。あなたの話を何度も聴きました」

匡近と、知り合い。俺の話を。何故、何故。聴きたいことは山ほどあるはずなのに、喉の奥が熱くて声を発することができない。
女の睫毛が頬に影を落とす。それがよく見えるほど、気づけば彼女は俺の側にいた。

「護れなかった。あなたはそう責任を感じているのでしょう。でも、今はできなくても誇ってください。皆んなを、大切な人たちを守ろうとしている自分を」

心地良い羽根が撫でるよう、頬に小さな白い手が添えられる。初めて意識があるときに彼女の体温を感じて、こんなに暖かく柔らかなものがこの世に在ることに酷く感動した。
自分とはまるで違うその手を、できることなら大事なものに、したくない。

「鬼を滅し、安全と幸せを皆に。こうして前を向いて生きるあなたを、何故穢れていると思えるのですか。私は…私は、貴方ほど綺麗な心の持ち主を知りません」

それはお前が温室育ちだからだと、実弥は叫びたかった。叶わなかったのは彼女の全てを受け入れる瞳が優しく己を貫いたから。

「貴方の両手は美しい。この手で、これからきっと何人もの尊い命を救うのでしょうね」

こんなに傷だらけで、実の母を手にかけた手が、綺麗なわけがないだろう。その上家族を救えなかった。
苛立ちともどかしさに震える両手を、名前が傷ごとかさりと撫で、そこに唇を寄せた。そうされるだけで確かに己の両手が綺麗なものに見えるのだから恐ろしい。

「胸を張りなさい、風柱。貴方に救われた命があることをどうか忘れないで。私は、私たちはずっと、ずっと貴方の味方です」
「…ッ、…名前…………っ名前…!」

実弥は自分の半分も小さな身体を抱き締めて、陽が沈むまで泣き続けた。肩の荷がスッと落ちたような、背負う荷物を2つに分けてもらったような、妙な気分だった。

それから優しい鈴の音に導かれるよう、実弥は何度も、何度も名前の名を呼んだ。





名前を羽屋敷まで送るようになったのは自然なことだった。隠に頼むから問題ないと渋る彼女を強引に抱き寄せ、背負った熱に溺れかけていれば麓の街に辿り着く。
街では二人で茶屋に寄ったり、買い物をして束の間の休息を楽しんだ。
名前は道行く人の視線を全て浚ってしまうほど美しいかった。その好奇や下衆の相まった視線から守るのに必死になっていると、名前に顔を覗き込まれて心配されるほど苛立っている自分がそこにいる。

「不死川さんの好きな食べ物ってなんですか?」
「…いわねェ」
「ごめんなさい、知ってます。おはぎでしょう?」

そうして俺の手元のおはぎを指差しながら、ころころ鈴を転がすように笑う名前の隣は酷く居心地が良い。
個人情報をペラペラばら撒いていった兄弟子には脳内で往復ビンタを喰らわせて、それから名前が幸せそうに甘味を味わう姿を見守った。

「あったけェな」
「えぇ、とても。春の匂いがします」

眼を閉じて、季節を感じる名前の姿にどくりと心臓が脈打つ。小さな桜色の唇の柔らかさを知りたくなって、風柱は暖かいどころの騒ぎではなくなった。
そばにいると身の危険を感じるくらい名前は可愛すぎる。もちろん自覚がある程、実弥はすっかり彼女に毒されていた。



それからというもの、実弥は名前が風柱邸を訪れるより先に羽屋敷まで脚を運んだ。
怪我をすれば治療に、任務がない日は買い物に、鍛錬の合間に茶を飲みに。
彼女の顔を見に行くことは、風柱の新たな日課に加わった。

その日、縁側でうたた寝ていた名前は悪夢に魘されているようだった。
脂汗を額に浮かべ、両手で己の華奢な身体を守るように抱きしめている。

「っ、ごめ…なさ、」

指まで力が篭って苦しそうだ。
彼女を温室育ちだと詰った己をどうにか痛めつけてやりたい。彼女にだって逃れたい過去がある。そうでなければ鬼殺隊と肩を並べる生活を選ぶことはなかっただろう。

「名前…大丈夫だ、ここにいるからなァ」

いつかお前がそうしてくれたみたいに。
肩の荷をどうにか分けて欲しくて、小さな熱をそっと自身の身体へ預けさせた。
漸く解かれた拳が、自分の傷だらけの手にそっと重ねられて喉が鳴る。

「、好きだ」

実弥の小さな声は春の風が桜の花びらと共に、広い青空へと連れて行く。
この柔らかな熱が消えないように、今はまだこのままで。そう願って眼を閉じると、やはり鈴の音に導かれて淡い眠りに包まれた。





花柱が死んだとき、名前は初めて涙を見せた。それから最初に口を突いた言葉はありがとうだった。皆が悲しみに明け暮れる中、名前だけは何度も何度も、壊れたオルゴールのように感謝を連ねた。

美しかった。どんな花より宝石より景色より。名前の涙とその慈悲深さが、美しくて堪らなく、儚いものだと感じて泣きたくなった。

「罪の無い命が奪われることは、本来あってはならないことです」
「…あァ……」

蔓延る鬼どもを滅殺し、大切な人が笑って幸せに暮らす日々を願っていくつの季節が移ろいできたかは分からない。そうしている間にも呆気なく尊い命は奪われる。
名前は涙に濡れた睫毛を持ち上げ月を見た。反射した光に照らされて、零れた宝石のカケラが彼女の耳の横で弾ける。

「それでもカナエさんは…鬼殺隊の皆様は、こうして命を懸けて平和を取り戻そうとしてくださるのですね」

月から降りた名前の頬に再び雫が落ちた。堰を切って零れるそれを焼き付けるために柔らかな横髪を耳へかけた。触れた頬は暖かくて柔らかい。

「不死川さんも、本当にいつもみんなのためにありがとう」

最後はもうほとんど言葉になっていなかったその言葉を、本当は息ごと攫って呑み込みたかった。名前の薄い肩を抱き寄せて、実弥も心の中で何度も彼女に感謝を述べた。きっと想いが伝わっていると信じて。


翌朝、名前は花を生けた。無垢なかすみ草の周りには、鮮やかな美しい蝶が可憐に舞っていたのを俺は見た。





「惚れてんの?」

音柱の突拍子のない一言に実弥は盛大に茶を吹きこぼし、蛇も怯む形相で睨みつけた。
奥ではパタパタと名前が駆けつける音がする。

「悪りぃ、悪りぃ。あんまりにも優しい顔して見つめてっから」
「それ以上余計な口開いてみろォ、殺す」

案の定手拭いを持ってきた名前に服を拭ってもらっている間も大男は口許を緩ませてこちらを眺めるので、米神に浮かぶ青筋や、名前の触れる際どい自身を抑えるのに躍起になってヘトヘトだった。
宇髄は名前が部屋を出た瞬間堪えきれないとばかりに、声を上げて笑う。

「しっかしまぁ、派手にモテますな名前ちゃんは」
「アァ?」
「時透に冨岡だろ?それに近ごろは煉獄と、あぁ、新人隊士を羽屋敷で世話したとも言ってたな」
「時透に冨岡ァ?詳しく話せ」

確かに街を1人で歩かせるわけにはいかないと誓ったほど、彼女は男の色目を引く。知り合いにいれば好きにならない道理はないほど優しく美しいので実弥は心配事が尽きなかった。
そして実弥には一つ、ずっと気に掛かっていたことがある。





「匡近のこと、何で知ってんだァ」

音柱が帰った夜、実弥は名前の小さな背中に声をかけた。
振り返った名前の大きな瞳がほんの一瞬零れ落ちそうに揺れている。ごくりと息を飲んだのは実弥だった。

「最終選別で、肩身を拾ってくださって」

名前のしなやかな指先が水を切って、大きな瞳が閉じられる。
まさか名前の口から出てくると思わなかったその単語に思考は追いつかなかった。彼女が隊服を着ている姿も、日輪刀を構える姿も。全く持って想像がつかなかったのは、その可能性を考えたくもなかったから。

「最終選別…?お前も出たのか?」
「私が知っている同期は彼だけです」

ひどく動揺したのも一瞬のことで、そう言われて仕舞えば全てがふと腑に落ちる。
名前から香る凛とした匂い、時に消される気配、周囲を観察する能力の高さ。
匡近と意気投合するのもおかしくない。

「彼の鴉が懐いてくださって。匡近さんもよく連れられて、ここに」
「アイツ、鴉に振り回されてたのかよ」

簡単にその光景が浮かんで実弥は目を閉じた。
後頭部へおずおずと小さな手が伸びる気配。少し躊躇って触れた熱は酷く優しい。

名前につく鴉は生前、匡近に仕えた鴉だった。初めて彼女が風柱邸へやってきたのも、そいつにせっつかれたからだという。

匡近が、俺を名前に巡り合わせたのか。

「可愛い弟みたいだって、不死川さんのことをよく話していました。私も彼の気持ちがよくわかります」
「…はぁ?」

名前はいつも俺の奥に匡近を見ていた。それは重ねるとかそういう類のものではなくて、俺を通してきっと匡近の思い出を手繰り寄せたのだと思う。

優しい瞳に貫かれ、流されそうになったがそれにしても今の言葉はいただけない。

「初めて貴方に会ったとき、手の付けようがないほど荒れていましたね。それでも空腹に堪えられなくて」
「その話はやめろォ…」
「不死川さんがご飯を食べてくれて嬉しかったんです。本当に、弟がいたらこんな感じなのかもって、」
「これでも弟に見えるかァ?」

後頭部の熱を逃さぬよう、ぐっと胸の中に引き込めばいとも簡単に収まってしまう。すこしの力でも込めて仕舞えばこんなに細い腕はぽきりと音を立てて折れてしまいそうで、力加減に困る。

「し、なずがわさ…」
「人の気もしらねェで色々言ってんじゃねえよ」

見上げられた星空のような瞳がまた揺れている。
導かれるようにずっと知りたかった熱を、その小さな唇から奪って呑み込んだ。

「ずっとそばにいてくれ」

もし万が一オレが命を落としても、向こうで必ずお前を待っているから。
願わくば、来世もずっと。

力加減も忘れて、そのまま細腰を己の身体に抱き寄せると、名前の白い頸が紅く染まっているのがよく見えた。

2021.12.28
風柱とはじめまして

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