安室さんと瞳の中の暗殺者03

米花サンプラザホテルへ調査に行ったあの日から、頭のキレすぎる小学生は小田切警視の自宅に伺うときも、その息子に会いに行くときも、黙々と自分のあとをついて来た。

「名前さんの具合はどうだい」
「今日は蘭姉ちゃん達とトロピカルランドに行っているよ」

知ってるだろうにと言う視線が刺さってきて、君だって似たようなことをしているではないかとは口に出さず、へぇと短く返事をした。
つい先日、毛利家ではトロピカルランドの特集を目にした次女が漏らした「前に行ったことがある」という言葉に円卓を囲んで歓喜の声が上がっていた。

「ここは新一とあなたが遊びに行ったところなのよ」
「新一さんと…?」
「ねぇ、行ってみようよ!久しぶりに家族みんなでさ」
「そうねぇ…風戸先生に聞いてみないとわからないわ」
「いいじゃねぇか。たまには家族で休日を謳歌すんのも」

こうしてすぐに毛利家のトロピカルランドへの外出が決まり、姉妹は服を選びあって穏やかな時間が流れた。
警備に関して心配することはないだろう。件の突き落とし事件から護衛にまわる警察官の数も増えたし、両親も姉もその辺りに関して非常に敏感になっている。探偵団も名前を守ると探偵事務所を張り込んでやる気だ。
高木刑事にも一度灸を据えてあるので二度と気を抜くことはないと思うが、問題はこの少年。記憶をなくした名前と時を過ごせば過ごすほど、もどかしい気持ちと向き合うことができなくなっている。

「犯人を捕まえたって、時間が戻るわけじゃない」

あの日、あの時、同じ建物の中にいたはずなのに助け出せなかったのを悔やむのは君だけではない。
むしろオンタイムで状況を知っていたこちらは自分をいくら責めても責めたりない。

「…あの子はいつだって自分で全てを抱えてしまうからね」
「記憶をなくしても変わらないだなんて期待しちまうし、頼ってくれないのも腹が立ってしょうがないんだ」

確かにどうして守ってくれなかったのかと責められた方がずっと楽だ。謝れば謝るほど彼女の心に影が刺すから、気持ちの行き場が見当たらない。
それでも彼女は想像もできないくらい心優しく清らかな人間だから。きっと。

「名前ならきっと大丈夫。君のことも必ず思い出すさ」
「…珍しく根拠もないことを言うんだね」
「根拠なら先日の彼女の一言だ。曖昧でも、昔のことを憶えていただろう?」
「やっぱり聞いてたんだ」

せっかく捜査のパートナーになってくれたと思ったのに、数分後には犯人を見るような瞳で睨まれてしまうのでこの少年の攻略は難しい。

それでも、この犯罪者まがいの男を好いてくれるという天変地異が起きた人生だから、今回だってきっと大丈夫。もうじきあの愛しい笑顔にも会えるはず。

「安室さんの眼差しがとても優しいから、そばにいると幸せな気持ちになるって」
「…彼女がそう言ったのかい?」
「僕は思い出されたら困ることの方が多いと思うけどね」

確かに犯罪組織に身を潜めている今の自分を知らないままでいられるのならそれが1番だ。はじめは明かすつもりもなかったのだから、1からやり直すことだってできる。
それでも、安室透の優しい表情しか知らないあの娘をそばに置いておくにはリスクがあり過ぎる。

それをわかった上でも。

「君や毛利先生には申し訳ないけど、それでも引けないんだよ。彼女のことだけは」

優しいあの笑顔を思い浮かべ、穏やかな気持ちで今を過ごしてくれていることを願う。

平穏も記憶も全部、俺が必ず取り戻す。




△ ▽ △ ▽





命を狙われている時に限って誰かがそばにいる。わたしが狙われているのだから1人にしてくれればそれでいいのに、この身体の持ち主の周りは本当に暖かい人ばかり。

「こなんくん、」
「とにかく奥まで走るぞッ」

左手をぐっと引っ張られて身体が蹌踉めく。
それでも足を前に進めることしかできないのは、やっぱりまだ死にたくないと心のどこかではそう思っているから。

「ッ、」
「おめぇ…撃たれてんなら先に言えよ!」
「ご、ごめん…コナンくんだけでもいいから、逃げて」
「置いていくわけねぇだろ!もう少しだ、がんばれ名前」

息を吸うたびに撃たれた脇腹と左足が悲鳴をあげる。それでもコナンくんは脚を止めなくて、目を瞑って走っていたら気づいた時にはボートに乗っていた。

「う、運転できるの?!」
「ハワイで親父に習ったんだ」

いまどきの小学生は本当におそろしい。
この子は特に、抜きん出た行動力と瞬発力で何度も人の命を救っているというから、もっと自分の命を大切にしてほしいとここ数日そればかり考えていた。

「おい、名前!がんばれ、あと少しだから…」
「お願いコナンくん、逃げて!」
「クソッ」

ボートの縁に捕まって傾く身体をどうにか保っても、四方から弾丸が飛んでくる。舵を握るコナンくんに何度めかもわからないがんばれを貰っても、わたしはもうそれを振り解くことしかできない。

「コナンくん、おねがい…」
「いやだね」
「…どうしてそこまで、」

振り解いたはずの右手がもう一度小さな手の中に包まれる。小学生にしては古傷だらけで少し固い手。見上げた視線の先でこちらを射抜く瞳が誰かと重なって、思わずごくりと息を呑んだ。

「好きだからたよ」
「…え?」
「お前のことが好きだからだよ、この地球上の誰よりも」

どこかで聞いたことのあるその台詞を最後に、コナンくんはわたしの腕を引っ張って水の中へ誘った。





見ないようにしていた傷口からどぽりと血が流れて視界が狭くなる。それでも小学生を道連れにするわけにはいかないと、一握りだけ残った正義感に突き動かされ、どうにかひらけた噴水まで来てしまった。

病院で何度も処置をしてくれたあの人とは別人のような顔。見覚えのある黒い物体が左手に握られていて、隠れられるようなものは近くに何一つとして残っていない。

「46秒前…」

コナンくんと風戸先生が何かを話している。丸腰で狂気犯の前に怯む素振りも見せずに進んでゆく彼をどうにか止めたいのに、血を失ったこの身体は言うことを聞いてくれない。きっとあの人にトドメを刺されなくても、このまま失血多量で死んでしまうだろう。

「さて、ここはやっぱりレディファーストと行こうか」
「させるかよッ」

向けられた拳銃から庇うように少年の身体がすっ飛んでくる。銃弾が頬を掠めたのと同時に風戸先生の歯が怪しく月に照らされて、それがあたりの水溜りに反射してよく見えた。
それから思いっきり身体が地面に叩きつけられたが、痛むのは傷ではなくて頭の奥深く。

コナンくんのカウントがゼロと告げたとき、辺りに水が噴き上げて、脳の中で何かが弾けた。

「大丈夫か名前!とりあえず止血を、」
「にげ、て…」
「名前、お前いい加減に…」
「お願い、新ちゃん」
「なっ、?!」

驚いて動かなくなってしまった幼馴染の小さな身体を庇うように抱きしめる。水の勢いが鎮まって風戸先生の姿が見えた時、あたりに1発の銃声が轟いた。

「ぐぁっ!」

目を開いても全身が痛いから自分が撃たれたかどうかもわからない。それでも唯一正常に働く耳を頼りに呻き声を探したら、左手首を押さえて蹲る殺人犯に近寄る人影。

犯人よりも怖い顔をしたあの人がそこにいた。

「あ、むろさ…ん、」

黒いオーラを纏ったその後ろ姿は見覚えがある。それでも他人の空似ではないかと思うほど、彼には周りが見えていない。

一直線に風戸先生のところへ突き進んだ後は眉間にごりっと銃口を押し付ける。コナン君の必死の静止も聞かないで、青筋の浮き出た右手はトリガーに指を引っ掛けた。

「だ、め…、」

地面を這いつくばって、漸く辿り着いた彼の身体に腕を巻きつけて縋る。ぴくりと反応した大きな身体はやっぱりわたしの呼びかけに応えてくれない。

「コナンくん、お願い…」

こちらの意図を汲んでくれた少年が腕時計を構えてぷつりと音を立てた。狂気に犯されたグレイカラーの瞳の先で、風戸先生の身体が背後に傾く。

「安室さん、無事ですから、」
「っ、名前……」

標的が崩れ落ちた瞬間、漸く降谷零の耳に声が届いた。




△ ▽ △ ▽






昼間に捕えた容疑者が殺人犯では無いと分かった頃にはもう名前の護衛は解けていた。
目を血走らせてトロピカルランドを駆け巡っても、彼女に取り付けた発信機は水没でもしたのか肝心な時に反応してくれやしない。

「クソ…ッ、」

そばにいると言ったのに。必ず守ると約束したのに。いつも自分は口だけで、彼女を1人にしてばかり。恋人らしいことなんて何一つしたことがないから、忘れられたって仕方がなかった。

「あ、むろさん…」

自分の勘だけを頼りに脚を動かしていると不意に耳に届いた声は気のせいなんかでは無い。愛しい女の声が自分を呼んでいる。それも、血に塗れた小さな肢体を地面に横たえて。

「名前…ッ、」

人は許容を超える怒りを覚えると記憶がなくなるらしい。それから自分が何をしたのかはほとんど覚えていないが、気づいた時には右手に愛銃を握っていたし、標的は目の前で意識を失っていた。そして、腰回りに感じる愛しい温もり。

「安室さん、無事ですから、」
「っ、名前……」

身体の向きを変えて今すぐ両手に抱きしめたい。それでも触れることが怖くて後ろを向くことができないだなんてまるで中学生だ。名前がどんな表情と感情で自分の遅すぎる登場を見ていたかを想像しただけでも、情けなく震えてしまう。

「すまない…また、助けられなかった」
「無事だって言ってるでしょう?」

頬を挟む小さな両手は彼女にしては力強くて、くるりと向きを変えられた次の瞬間、視界いっぱいに愛しい女の顔が広がった。
そして唇を掠めた感触は、久しぶりにしても雑すぎる。

「……キスをする時は目を閉じろと、前にも教えたんですよ」
「はい、憶えています」
「…は?」

だから、と続けた小さな唇がぎゅっとつむられた瞳と共に降ってくる。惜しくもそれに気がついたのは彼女の血色の悪い顔が頭ひとつぶん離れていったあとのこと。

「憶えています、ぜんぶ。あなたの体温も優しさも、背負っているものも全て憶えてる」

握られたシャツが彼女の手の形に馴染んでゆく。零れ落ちた涙は自分のものかそれとも彼女のものなのか、理解するにも時間がかかって、息を吐き出すのと一緒に漏れ出た声は酷く情けない。

「名前……」
「忘れてしまってごめんなさい。それから、たくさんありが…ひゃっ、」

壊してしまうのではないかと思うくらい力一杯抱きしめて、首元に顔を埋める。
生きている。彼女は今、自分の目の前で、同じ時を過ごしている。今まで通りの彼女が今も、これからもずっと。

「記憶がなくなっても、君は僕の愛しい人に変わりなかったよ」

彼女のブラウスが水気を帯びた時、漸く自分の瞳から涙が溢れていることに気がついた。

「おかえり名前」
「はい、ただいま戻りました安室さん。遅くなってごめんなさい」

満面の優しい笑顔が自分を迎え入れるので、何も気にせずその小さな身体を抱きしめる。それから再び唇を近付けようと目を瞑ったが、遂に小学生のスニーカーに稲妻が走って、名前の意識も飛んでいった。




△ ▽ △ ▽





澄んだ記憶の中で子供たちが笑っている。
ここ数日の灰色の思考回路が嘘だったかのように、何もかもを鮮明に思い出すことができる。
二度と浴びることもないと思っていた朝の日差しが柔らかく感じるのは、朝がくることを恐れない日を迎えるのが久しぶりだから。

「コナンくんったら、名前のことになると身振りを考えないんだから…本当に新一とそっくり」
「し、新一兄ちゃんに言われたんだよ!名前姉ちゃんのことは頼んだぞって…」

優しい表情で母の肩を抱く父の姿、姉と友人の温かい笑顔、そして無邪気にはしゃぐ子供たち。
車椅子に乗った佐藤刑事も、彼女を押してやってきた高木刑事も、目を赤くして笑ってくれた。

漸く、毛利名前がみんなの元へ戻ってきた。

「あと1週間もすれば抜糸できるとよ。…悪かったな名前、守ってやれなくて」
「もう、お父さん。謝るのはなしだって言ったでしょう?」

事件のことは全部姉から聞いた。トロピカルランドでぬいぐるみに扮していた男は誤認逮捕で、風戸先生が容疑者にすら上っていなかったことも。
しかしそんなことはどうでもいい。全てはもう終わったこと。この中の誰1人として欠けていたら自分はきっとここにいない。特に、1番迷惑をかけた彼がいなかったら。

「名前お姉さん、また歩美たちと遊んでくれる?」
「うん、もちろん。たくさんいろんなところへ行こうね」
「やったぜぇ!これからも名前姉ちゃんのことは俺ら探偵団が守ってやっからよ!」
「その必要はないよ」

静かに音を立てて開いた扉の奥から優しい声が聞こえる。顔を向けるのがなんだか恥ずかしくなって、みんながそちらに注目する中、布団を口許まで引き上げることしかできない。

「これから先、名前さんのことは僕が命をかけてでも守り抜くからね」

家族や子供たちがいるのに、そんなこともお構い無しにその男は一直線に寝台へやってくる。

「何があっても、絶対に」

引き上げた布団を握る右手の薬指には、ここへ運ばれてきた昨夜に贈られた真新しいピンクゴールドの指輪が光っている。
それから狂おしいほどの慈愛に満ちた瞳を向けられて仕舞えば、関係性を推理するのは子供にだって簡単なこと。

「なかなか言うじゃない、彼」
「安室さん素敵…!」
「チェッ…鼻に付く野郎だぜ…」

それから姉と園子ちゃんに散々質問攻めにあったり、探偵団とチャンバラごっこをしたりと色々騒がしく過ごしていたら思ったよりも早く退院が決まった。
気持ちに抑えが効かなくなった安室透には江戸川コナンから接近禁止令が命じられ、ボディガードが着く生活はまだまだ終わりそうにない。

2021.03.27
安室さんと瞳の中の暗殺者03

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