弾けた絶望にころされる

羽屋敷を訪れるとき、名前が玄関まで駆けてくる姿がとても好きだった。自身を出迎えてくれる柔らかい笑顔に、漸く鬼殺で荒んだ心が凪いでいくのを感じるから。
なるほど自身の生み出した技はこういう気持ちから誕生したのかもしれない。

「名前」

当たり前だと思っていたのが間違いだったのか、その日はいくら待っても名前がその可憐な姿を現さない。ソツのない彼女にも珍しいことがあるものだと、思わず小首を傾げてしまった。

「名前…?」

留守かもしれないと思ったが、彼女が不用心に表の門を開けっ放しにするわけがないと、不躾ながら勝って知ったる屋敷を歩く。探し求めた意中の女性は、縁側の前に佇む広い部屋の真ん中で正座をしたまま虚空を見つめていた。

「…冨岡さん。気付かず申し訳ありません。いらっしゃいませ」
「……あぁ」

しかも気配に敏感な名前が、あろうことか襖を開けて声をかけられるまで己の来訪に気付かなかったらしい。これはどうしたものか。義勇は元々浮かびにくい言葉のどれを投げるべきか少々悩む。

「体調が優れないのか?顔色が悪く見える」
「寝る前に本を読んでしまって。お見苦しい姿で申し訳ありません、お湯浴みの準備をしてまいりますね」

寝不足は目の下の窪みが物語っているが、読書だけが理由ではないと、そういった事情に疎い義勇でも推察できる。それでもなぜか、いつもより線の細い彼女が消え行く廊下を見つめることしかできない。壁を感じて、二度と会えなくなるような虚無感に襲われた。





△ ▽ △ ▽





その日、藤の家紋の家から薬を取りにやってきたという客を認識するのと同時に、全身が芯から震え上がった。よろめく身体を必死に堪えたが、蘇る記憶にそれを阻まれる。

「お、にいさま…、」

体幹が乱れる。棚の上の花瓶が大きな音を立てて床へ叩きつけられ、伊之助からの贈り物であるスミレが陶器のかけらと共に地に沈められた。

「久しぶり、名前。相変わらず綺麗で俺はとても嬉しいよ」

幼少期、孤児となった自分を拾ってくれた家の義兄は、どんなに時間を経ても身体が忘れてくれない存在。記憶が、五感が、全てを覚えている。
肺にも脳にも酸素が回らない。この人はあの日、義父と一緒に殺された筈ではなかったのか。身体のありとあらゆる部分から冷たい汗が流れる。無意識に後退っていたが、背中に当たる冷たい気配にもう逃げ場がないと認めざるを得ない。

「その顔は俺が死んだと思ってたみたいだね?名前は一度も探しにきてくれなかったもんなぁ…俺はずっと君を探していたのに薄情な妹だよ、本当に」

乱暴に腕を引かれ、髪を掴まれても抵抗する気が思い起こらない。嗚呼、私はやっぱりまだあの日々から抜け出すことができていないのか。鬼よりも強欲な人間を恐れてしまう、あの幼き記憶の日々から。

「逃げられるなんて思うなよ」

広がる世界は延々と続く薄暗闇。
目の前の男が着物を乱す手を、どこか他人事のように見つめる。その行為が終わるまで誰もこの屋敷を訪ねてこない事を願い、現実を受け入れるように目を閉じた。





△ ▽ △ ▽





「名前の元気がない?」

義勇は自身より幾分高い視線の男と肩を並べながらこくりと頷く。この道の先は言わずもがな羽屋敷。

「俺は女性のそう言った部分に対してどう声をかけていいか分からない。お前なら得意だと思った」
「それは納得だ。俺様に派手に任せろ」

名前の様子がおかしいと感じたあの日から2.3度羽屋敷へ足を運んだものの、彼女の顔色や態度は妙なままであった。
自分ではどう踏み込んでいいか分からないので、3人も嫁がおりそういった面に秀でているであろう同僚に偶々街で遭遇したので、助っ人に呼んでみた。

「名前といえば、最近妙な噂が立ってんだよ」
「妙な噂?」

鬼殺隊の中で名前の存在を知る者は少ない筈だ。事実、柱以外の隊士で羽屋敷を知っているのは炭治郎たちだけ。しかしこの男は情報収集に長けた元忍、これまでも彼が持ってきた情報がガセであったことは一度もなかったので、きっと今回も何か根拠があっての話なのだろうが、俄には信じ難い。そんな義勇の心のうちを読んでいるかのように天元は再び口を開く。

「隊士たちの中で名前を知っている奴なんて限られてるだろ?でも、最近は名前だけ知ってるっていう奴が多いんだよ」
「柱や炭治郎たちと仲が良いからではないのか?蝶屋敷にも偶に行っているだろう」
「俺も最初はそう思ったが、蝶屋敷居る時は地味な頭巾被ってんだろ?んで気になって探ってみたら、ある村の藤の花の家であいつのことを根掘り葉掘り聞かれたっつう奴が多いんだ」

宇髄から聞いた藤の花の家の特徴からして、その家は先週自身が訪れた藤の家であった。俺は名前について聞かれることはなかったが、そういえば柱の医療環境を聞いてきた男がいたことを今更思い出す。

「まあ名前に過保護な風柱様が調べてるらしいから、心配はいらねえだろ」
「不死川が調べているのか。それなら安心だ」

本当に安心か?言いようのない不安に、妙に胸がざわつく。眉を顰めたまま天元に続いて羽屋敷の門をくぐったが、やはり今日も名前の出迎えはない。それどころか、男の妙に焦った声が聞こえる。これには元忍もなすすべなく驚いて、天使の部屋へ続く長い廊下を駆け抜けた。

「おいおいコレって…」
「なにがあった」

割れた陶器、破れた襖、倒れた戸棚。悲惨としか言いようがない部屋の中に、名前はいた。悲痛な声で名を呼び続ける霞柱の腕の中でぐったりと目を瞑る彼女の髪は乱れ、衣服は所々引きちぎられている。はだけた着物の合わせ目から覗く白い肌には赤黒い痣や、噛んだような痕が無数に散りばめられていて、此処で何が起こったのかをとてもではないが容易に想像できてしまう。

「誰かが名前を襲った。僕がついた時にはもうこの状態で…」
「…とにかく、胡蝶んとこ運ぶぞ」

額に青筋をいきわたらせ、唇を血が出るほど噛み締めた霞柱は今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。かくんと折れた名前の細い首に覗く紅い鬱血痕を認識して、自分の頭にも血が昇ってゆくのを感じた。
世の中には鬼より性質の悪い奴がいるらしい。



蝶屋敷へ到着すると鴉の伝えを聞いていた主人がすぐに姿を現した。隠に名前を預けるよう指示を出した後に向けられた表情には張り付けた笑顔は消え失せ、泣く子も黙る低い声が発せられる。

「お二人はご退出願います。名前さんは私が責任を持って診察しますので」

義勇も天元もただそれに従う他ない。自分たちには名前の状態を確かめる知識もなければ
術もない。診療室の扉が閉められる間際にみえた、名前の苦しげな表情が脳裏に焼き付いて離れない。

「何処へ行く」
「時透たちに合流する。このまま引き下がれねえだろ」
「不死川が知ったら、」
「馬ァ鹿。んな真似しねェよ、また隊士が失神し兼ねないしな。お前は名前の側にいてやれ」

ヒラリと手を振る音柱にも、いつもの気安い態度は全く見当たらない。





△ ▽ △ ▽





名前が目を開けた時、ツンと消毒の匂いに混じって優しい藤の花の匂いが鼻腔に広がった。視界の奥には険しい表情で顔を覗く蟲柱がいる。

「貴方が此処にいらっしゃるのは血鬼術を受けた日以来でしょうか」

脈に触れ、呼吸を確認される。その時擦った腕の包帯の存在に気が付いて、全身が覚えのある痛みを訴えた。腕以外の箇所にもあらゆる治療が施されている。

「っ、しのぶさん…お見苦しいものを、申し訳ありません…!」
「宇髄さんと冨岡さんがあなたを連れてきてくださったんですよ。発見されたのは時透さんらしいですけど、お二人に貴方を託して何処かへ行かれたようです」

いわれてみれば意識を手放す間際、霞柱のただいまという声を聞いた気がする。心配や迷惑をかけた人間が大勢いることを自覚して泣きたくなる。その多くは目の前の年頃の女の子に見たくも無いモノを見せてしまったことが原因で、顔を両手で覆いたくなったが身体が思うように動かない。

「すみません。不躾とは分かっていたのですが、珠世さんにしつこく聞いてしまいました」
「…そうでしたか」

わたしのためにそんなに切ない顔をしないで。貴方は被害者だし、何もできなかった此方が申し訳ない。伝えたい言葉はたくさんあるのに、しのぶは喉を締められたように言葉を紡ぐことができなかった。
鬼舞辻を滅殺するために幾度と共同研究を行う珠世に彼女の過去を知りたいと請ったのは、自分が支えられてばかりの彼女の肩の荷を少しでも解いてあげたかったから。

「義父が鬼に殺された時、あの人も一緒に殺されたと、ずっとそう思っていたんです。今は藤の花を家紋とする家に身を置かれているようですので、おそらくそこで私の話を聞いたのでしょう」

名前は寝台に身を預けたまま天井を見つめる。そこにどんな恐怖があったのか、想像をすることしかできない自身の無力さに泣きたくなった。
鬼であれば殺すことができるのに、相手が人間とくれば手出しができない。無償で鬼殺隊に手を貸してくれている一般人となれば尚更。この件の調査が難航していることも合点がいく。不躾な真似はなかなか出来やしない。

「不死川さんが情報源を調べていますが、時透さんもそこへ合流しているのでしょう。宇髄さんだってこの件をきっと調べます。冨岡さんも珍しく取り乱していましたから黙っていないでしょうし、私も家族同然の貴方を傷つける人間を野放しにしておくつもりはありません」

何故こうなると予想できなかったのだろう。彼女の性格を考えればわかったはずだ、1人で抱え込み、他人に迷惑をかけることを酷く嫌う。
名前が柱たちの間だけで知られている存在だと、鷹を括っていた?鬼だけが脅威であると決めつけていた?名前は心中を察したかのように柔く笑う。どうしてか、私の周りにはこうして悪を悪のまま憎むことのできない人間が多すぎる。

「これは犯罪ですよ?名前さん、熱りが冷めるまでここで過ごすかどなたか男性の屋敷に身を置くべきです」
「私如きの過去に皆様を巻き込むわけにはいきません。しのぶさんには一番ご迷惑をおかけしてしまいましたね…ごめんなさい」

きっと万が一にでも此処にその男が現れるかもしれないと恐れているのだ。そうなれば自身とカナヲ、それに療養中の隊士総出で彼女を守ることができるというのに、彼女はそれを求めない。彼女の場合、昔の自分に引け目というには深すぎる傷を抱えているのだ。泣くことも、弱音を吐くことも許されないことだと、一人で業を背負っている。

「お願いだから、私たちを頼ってください名前さん…」

何故醜い存在に同情するのか、やっぱり理解ができない。屈服するくらいならば自分で命を絶ってやる、その覚悟を持った方がよっぽど楽だ。まるで姉を見ているようで、またこの手から溢れ落としてしまいそうで、もどかしくて苦しい。彼女の底のない優しさは人を泣かせることができる。

「ありがとう、しのぶさん。でもね、あなたも私を頼って欲しい。気持ちはわかります。でも犠牲になる必要はないの、他の方法を一緒に考えましょう」

ゆるく握られた手はいつものように暖かくはない。しかし、その表情には全てを知っていると書いてある。寄り添いたいと願うこの人はいつだって寄り添う隙を与えてくれない、気がつくといつも心の側にいてくれる。

「どうして、それを…」
「炭治郎さんを避けていたでしょう?」

あなたからはいつも優しい藤の花の匂いがするからと微笑まれ、しのぶは奥歯を噛み締めた。怒気を匂いで察知するあの少年を避けていたのは念の為だったし、それが仇となってしまうとは。特にこの人にだけは知られたくなかった。自分のせいで名前に悲しい思いをさせたくないから。

「私がそれを辞めたら、あなたも私を頼ってくれますか?」

そんなに悲しく笑わないで。あなたの陽だまりのような優しい笑顔が大好きなの。この世で唯一、姉を思わせる、あの笑顔が。
それでも彼女は自分に似て頑なに人を頼ることを嫌うから。ならば、私だって。

しのぶは懐に忍ばせていた小瓶の封を開け、点滴へと繋がるタンクへ中身を流し入れる。全てが解決するまでずっと此処に居ればいい、私の監視下で安らかに眠ってほしい。そう願いを込めて名前の瞼がゆっくりと閉じられるのを見届けた。

2021.02.05
弾けた絶望にころされる

時系列しっちゃかめっちゃかですが、夢主鬼殺隊復帰ちょい前くらいのおはなし

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