お色気血鬼術にかかりました 前編

「名前さんと任務でご一緒できる日が来るとは…!嬉しいなぁ」
「私も炭治郎さんがいらっしゃってとっても心強いです。鬼殺隊士としてはまだまだ未熟ですので、どうかよろしくお願いします」

名前特有の甘くて優しい香りが鼻腔に広がった。初めて見る彼女の隊服姿は全く見慣れない。美しい着物を纏っている姿しか知らないので、枝のように細い脚が惜しげもなく露出しているこの姿は少なくとも目のやり場に困った。

「なぁ炭治郎、苗字さんと知り合いなのか…?」
「苗字さん…?ああ、名前さんのことですか?」

普段より幾分頬を紅く染めた村田からはほんのり善逸と同じような匂いがする。彼女へこの香りを向ける人間が多いことを、炭治郎は知っていた。

「すっげぇ美人だよなぁ…強いのに一緒にいるとなんかこうふわふわするし、いい匂いがするし…」
「へぇ〜!村田さんも名前さんのことが好きなんですね!」
「んな…!そ、そんなわけないだろ!…って、"も"ってことは、お前も…?」

先輩隊士の剣幕は鬼を前にした時よりも恐ろしくて、炭治郎は苦笑を浮かべる。たしかに名前のことは大好きだ。いつだって味方でいてくれるし、一緒にいると安心して泣きたくなる。しかし自分は兄弟子と彼女との仲を本気で応援している。名前のことは親族のような存在として慕っているというのが一番近い感情である気がした。妹もよく懐いている。

「名前さんは柱の方々にも好かれているし、善逸や伊之助も彼女を大好きだから」
「そういえば、前に風柱と一緒の任務に就いた時、彼女と話していただけで殺されかけたよ…」

ぶるりと震えながらその任務のことを思い出したらしい村田を見て、やはり風柱とは反りが合わないと感じる。名前さんには義勇さんと結ばれて欲しい。思考を読むのが難しい人だけど、初対面で愚行を働くあの柱よりよほどいい男だ。


そうして数名の隊士ですっかり日も沈んだ夜道を歩いていた時。道端に蹲る小さな男の子を目にして村田が立ち止まった。名前さんが最初にそれを視界に捉えたはずなのに近づかないことを疑問に思いながら、炭治郎も村田に続く。この少年からは鬼の匂いはしないし、酷く切ない香りが漂っていた。きっと迷子か何かだろう。名前さんの性格からしてすぐに子供に駆け寄るはずなのに、似合わない険しい表情のまま素通りを決め込もうとしているのがやけに気になった。

「君、こんなところで何をしてるの?夜は危ないよ、鬼が出るから、」
「村田さん、しゃがんで!」
「えっ」

名前の叫び声と共に、四方からその男の子へ向かって飛んできた鉛玉を彼女の刀が弾く。そこで漸くその少年が囮として鬼に操られているのだと認識した。鬼殺隊を誘き寄せるための罠にまんまと掛かってしまった自分が情け無い。

「チッ…俺の攻撃に順応するとは……お前、柱か?」
「生憎一般隊士です。子供を喰わずに囮にするとは少々頭の切れる鬼だとお見受けしました」
「フフン…気に入った。俺はお前のように美しい女が大好きだ」

鬼の声だけが聞こえ、その姿は見えない。名前さんは身を屈めながら辺りを警戒して1人の隊士に囮となっていた男の子を街へ連れて行くよう合図を出した。俺と村田さんは自分よりも階級の低い隊士を護るよう立ち回る。

強い風が吹く。あたりの景色が鬼に有利な深い森の中へと変貌した。ぐるぐると移ろう景色の中、これは錯覚なのか、移動術なのか。確認するにはまだまだ情報が足りない。

「鬼殺隊は人間を殺さない…だから俺は数名を必ず喰わずに残しておく。お前たちの弱点を作るために」
「意地の悪い方ですね…」

刹那、目の前に立ち憚った巨体はニヒルな笑みを浮かべて俺たちを見下ろした。くるりと廻った瞳の中には数字が刻まれている。俺たちは鬼の異能による移動の重圧に耐えきれず吐き気を催していた。名前さんだけが、鬼を見据えて刀を構えている。

「人間が俺の術を吸い込むと立っていることが出来なくなるのだ!俺は地を這いつくばうお前たちを喰うのが好きなんだ、ひれ伏すような姿が堪らない」

どうにか身体を動かそうにも、眩暈と吐き気によってそれを憚られる。そこかしこから汚物の匂いが漂って更に気分が悪くなった。名前さんが前に出るなと言わんばかりに俺と鬼の間に立つ。その背中からは何の感情も感じ取ることができない。

「ほぉ…そうか、お前は猗窩座が逃した女ではないか!これはあの方に喜んでいただける…」
「あの方…?何故無惨が喜ぶのです?」
「それはお前が一番よくわかっていることだろう」

名前さんに向いた赤い瞳がぎろりと光る。名前さんに動くなと制されてはいるが、呼吸でどうにか身体を持ち直し、助太刀に備えて鬼の死角へ潜り込んだ。
星空の元で淡く光を放つ様な名前の太刀筋が美しいと月並みの感想が口から出そうになった頃、羽がひらひらと舞い、名前さんが目を閉じる。鬼はそれを知ってか知らずか、口を閉じることなくペラペラと話し続けていた。

「しかし本当に美しい。喰えないことが本当に惜しい……?っ、な、なに…!」
「あなたは少々お喋りが過ぎます」

釘付けになっていたはずの視界から名前さんが消えた。ふわりと羽が舞うように彼女が宙から舞い降りたのと同時に、鬼の頸が地面へ転がり落ちてゆく。名前さんは血鬼術を逃れるのも、剣術裁きも至高の領域に達している。口惜しいが、傍観に徹することしかできなかった。

「畜生…!畜生!お前には罰を与える!俺を殺した罰だ!クソッ!」
「っ、あ…、名前さん!」

視界がぐるぐると回り始める。また、景色が元の夜道へと移ろった。歪む空間の中で近くに横たわっていた村田へと延びる鬼の爪。塵となり消える前にそれはずぷりと音を立てて人肉に食い込んだ。人間を囮にして弱点化させる、これまで出会った鬼の中でも卑劣極まりないやり方に青筋がたつが、この重圧には逆らえない。


鬼の焼ける匂いがする。名前さんは何処だろう、彼女の姿を目と鼻を使って追う。細めた視界の先で、小さな身体が村田さんを庇うように覆い被さっていた。

「苗字さん…!苗字さん!」

村田の声が木霊する。焦りきったその声を辿っている最中、咽せ返るような甘ったるい匂いが鼻の中に広がった。充満するその匂いの中に名前さんの息遣いを感じて酷く安心したのも一瞬のことで、いつもの柔らかな陽だまりのような匂いが消え失せてしまっている。

「ハ、っあ…や…ッ、」
「名前さん…?!」

頬を上気で赤く染め、苦しげな息を吐く名前さんの姿がそこにはあった。その小さな肢体の下には村田さんが林檎の如く顔を真っ赤に染めて横たわっている。

「怪我…?!それともなにか…」
「た、じろさ…、ダメっ、ン……ハッ……きちゃだ…め…」
「苗字さんが俺を庇って、あの爪が刺さったはずだ…」

村田の言う通り、確かに人肉を抉るような音が聞こえた。しかし彼女から血の匂いはしない。それどころか、隊士たちは彼女のおかげで殆ど無傷だ。それでも何かいつもと違う、脳をくらりと溶かしてしまうような甘い匂いが漂ってきて先程とは別の眩暈を起こしかける。溢れんばかりの涙に濡れた名前の睫毛が月に照らされてやけに扇情的だ。ごくりと生唾を飲み込んだ刹那、空気が微かに揺らいで、腕の中から柔らかい熱が消え失せる。

「触るな。コイツは俺が連れて帰る」

白と黒の縞模様の羽織には見覚えがあった。その男は名前さんの身をひょいと抱え上げ、独特な眼でこちらをぎろりと一瞥する。追い討ちをかけるように首に巻かれた爬虫類にシイイと威嚇され、炭治郎はそこを動くことができなくなった。

「い、伊黒さん…!でも…、」
「この程度の鬼も倒せないのだからお前は修行を積め、戯け者」

今回の任務では本当に名前さんが居なければ今頃俺たちはあの術と爪にやられて全員お陀仏だった。やるせない。伊黒さんに返す言葉も見つからない。

「名前、しっかりしろ。胡蝶には連絡を済ませてある。蝶屋敷へ急ぐぞ」
「い…ぐろさ……、わ、たしを…っ、ねむら、せて…ん、」

名前さんの言葉に伊黒さんは目を見開いてから、右手を宙に挙げた。甘い匂いは消えることなく、名前さんの身体から放たれ続けている。

名前の首裏に衝撃が走り、大きな瞳が閉じられる。最後に視界に映った蛇柱の顔はこれまでに見たことない程、悲しげに歪んでいた。





△ ▽ △ ▽





風を切るようにしてやってきた傷だらけの男はそれはもう焦りと怒りを隠しきれない様子で蝶屋敷の敷居を跨いだ。病人の容体を悪化させてしまいそうな禍々しい空気がそこかしこに渦巻いている。

「名前は無事なのかァ!?」

ピシャリと音を上げて開いた扉の奥で、眉間に皺を寄せた蟲柱と蛇柱の姿が視界に入った。寝台に横たわる意中の女性は妙に頬が紅潮している。

「不死川さん…そろそろ本気で出禁にしますよ。少しは静かにしてください」

蝶屋敷の主人の冷たい声色に首を描く暇もなく不死川は寝台へ駆け寄った。かすり傷のひとつもないことに肩を撫で下ろすが、この頬の色は明らかにおかしい。胡蝶も伊黒も、普段と様子が違う。

「何があったァ…」
「見ての通り眠っているだけだ。しかし、目が覚めたときどうなっているかはわからん」
「は…?それはどういう…」

名前が鬼殺隊として戦線に立つことを俺は特にきらった。幸せそうな笑顔を携えて俺たちの帰りを待つ彼女の平穏を守りたかったから。しかし、否定するような立場にいるわけではない自分は彼女の意志を尊重する他なかった。それでもこうして鬼の被害に遭っているところを目の当たりにするとやるせない気持ちでいっぱいになる。

「名前さんは現在、人間の摂取可能な量を遥かに超えた催淫剤を含まれている状態です」
「催淫剤?なんで名前がそんなもんを…」

名前が殆ど1人の力で上弦の陸を伐倒したという情報は瞬時に鬼殺隊内へ伝えられた。宇髄たちが倒した上弦の陸の穴埋めとして役職を得た下層の鬼だったのかもしれないが、勝ち星をあげたこと、名前が柱になる条件を揃えたことに変わりはなかった。勿論無傷で帰ってきているとは思っていなかったが、誰がそんな妙な症状で蝶屋敷へ運ばれたと想像できよう。

「別の隊士を庇ったときに吸引してしまったようだ。俺がここへ運ぶ間、自身の理性が崩壊するのを察知したのか意識を飛ばすよう頼まれた」
「鬼の術なのかあるいは薬を飲まされたのか定かではないので、下手に色んな薬を飲ませるわけにはいきません。時期に目を覚ますでしょうが、その時にどんな行動をとられるかは…」

名前が自己犠牲を厭わない人間であることはこの長い付き合いでよく知っている。その考え方は自身と似たものがあるから止めてくれとは言えなかった。

「オメェ…よくそんな頼み聞けたなァ…」
「そんな目で見るな、俺も流石に堪えたんだ。もし今後同じことを頼まれれば迷わず胡蝶を呼ぶ」
「あら、私だって名前さんを眠らせるなんて不本意ですよ?そんなことのために薬を作っているわけではありませんから。というか、お二人が名前さんを鬼から守れば済む話では?」

俺ならばいくら愛しい彼女からの願いだとしても、名前を傷つけることはできない。例の気色悪い笑顔がこちらを向いて、その言い分に2人の男は下を向くことしかできなかった。

「同行していた隊士の話によると、彼女は鬼に執拗に好意を向けられていたようです。鬼をも虜にしてしまうなんて流石は名前さん!…と言いたいところですが、今回ばかりは私もどうしたものかと頭を悩ませています。鬼の爪が食い込んでいたとの報告でしたが、そんな傷は見当たりませんし、血鬼止めの効果も現れません」
「眠っている間も己と抗っていたが、あの様子からすれば恐らく既に自我はないだろう」

たしかに名前は眠っているが熱に侵されているような表情で苦しそうだ。たしか、催淫剤ってあれだよな…媚薬のような……よく分からないが。
聞くに聞けない疑問を抱えながら見上げた視線の先で、心なしか伊黒が疲弊しているように見えた。

「お二人は催淫剤の効果を解消する方法をご存知ですか?」

知るわけねぇだろ!と口を吐きそうになった言葉をすんでのところで飲み込んだ。とにかく催淫剤という言葉を聞くのも嫌だというこの状況下で、落ち着きを払った声が部屋の中に響くことにすら苛立ちを抑えきれない。しかし、いくら腹を立てても名前の容態が良くなる訳ではない。

「時間の解決を待つか、強い性的快楽を与えることが一般的ですね。前者の場合非常に長い時間を有する可能性があるのでできれば後者が望ましいところ、生憎彼女に恋仲の方はいらっしゃいませんし…」

何を言っているんだこいつはと顔に描いてある蛇柱に同情の念を抱く。蟲柱がこの状況を楽しんでいるように見えるのは俺の気のせいだろうか。なんだか試されているような気分になってきた。
その時、この屋敷で働く少女が主人を探しにやって来たので俺たち2人の文句は行き場をなくして空気に溶けた。

「すみません、急患のようです。すぐに戻りますが何かあったら呼びに来てください」

胡蝶が部屋を出る。その足音に反応したのか定かではないが、同時に名前が熱い息を吐きながら潤んだ瞳をそっと開いた。

「不死川、覚悟しろ。己との戦いが始まるぞ」
「戦い…?」

何と戦うんだよと聞きたかった言葉はやっぱり自身の中に飲み込まれる。伊黒の疲れ切った表情が聞くなと物語っていたから。
それから伊黒の言葉の意味を理解するまで、そう時間はかからなかった。

20210105
お色気血鬼術にかかりました 前編

次が信じられないほどR指定のお話になります…。
2人新しい柱も参戦します

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