霞柱様、昔話をしましょう

ここ数週間、霞柱である時透無一郎はどんなに遠方の任務を課せられても朝方には必ず羽屋敷へ戻っていた。そんな霞柱の、鬼の頸を斬る様は目にも追えない神の領域であったと現場に遭遇した隊士や隠は口々に漏らす。

「名前、名前!」
「……と、きとうさん…おかえりなさい。ご無事、ですか」
「僕は平気。名前、身体を少し起こせる?とりあえず汗を拭こう」

その日は日を跨いでから間もない頃に帰還した。
丸い雫を額にポロポロと浮かべる名前の上半身を支え、白い肌へ手拭いを滑らす。荒い呼吸を繰り返す彼女から優しく、暖かくて堪らないあの笑顔を目にすることができていない日々を数えるのは片方の手を折り返したところで辞めにした。

「昨日よりも顔色が少し良くなったね。きっともうすぐ元気になるよ」

名前が用意していたとみられる薬と水を口に含ませ、閉じられた目蓋にそっと触れる。すみませんと弱い声が返ってきて自身の心も苦しい熱で犯されているような気分に陥った。

数日前、熱に魘され続ける名前を蝶屋敷へ運ぶべくその小さな身体を抱えたが、蟲柱に迷惑をかけるわけにはいかないと本気で制されてしまって自分が彼女の世話を見ると決め込んだ。苦しい時に頼る人間をお館様と名前しか知らない無一郎は自身の不甲斐なさに正直本気で泣きたくなった。刀を握って2ヶ月で鬼殺隊を纏める柱にまで上り詰めたのだから、好きな女性の苦しみを救うことも造作なくこなす事ができたらよかったのに。ただ側に身を置いて、14年の曖昧な記憶から知識を手繰り寄せ、介抱を施すことしかできないのは非常にもどかしいものがあった。

「お手を煩わせてしまい、もうしわけありません…お気になさらずおやすみになってください」
「気にしないで。僕はいつも名前にしてもらっていることを返しているだけだから」

名前は眉を下げる。流行り風邪であった場合、移してしまうことを懸念して何度も僕を部屋の外に追い出そうとするが、力のない身体で何を言われてもそこを動かなかった。彼女の辛さを分かち合いたかったし、側を離れたくなかった。夜が訪れれば任務に出なくてはならないのだから、僕がいる間くらい我儘を言って頼って欲しい。頼りにしてくれたら、なんだってするのに。

「大丈夫だよ…僕が、ずっとここにいるからね」

少しでも辛さが僕にうつればいいのに。そう願いを込めて手を握っても、いつものようにそれが返されることはなかった。

名前の様子がおかしくなったのは炎柱が上弦の鬼と対峙したというあの日からだ。ぼーっと空を見つめることが多くなったし、包丁で指を切ったり庭の花を枯らしてしまったりと普段ならば絶対にありえないような失敗をいくつも犯していた。どこか体調が悪いのかと尋ねても大丈夫の一点張りで、そうして知らぬ間に遊郭へ潜入捜査を命じられてしまったのでその真意を問うことができずずっとモヤモヤとした感情を抱えていた。
潜入捜査から白い顔で戻ってきた次の日のこと。任務からの帰還を聞きつけてやってきた時、名前はその小さな体をぐったりと縁側に横たわらせており、今までにないほど肝が冷えた。

柱の中では既に彼女が鬼殺隊であることに加え、特殊な血を持つことも情報共有がされている。最初こそ驚いたものの、僕は名前がただ無事で、いつものように柔らかく笑って出迎えてくれさえすればそれでよかった。鬼殺隊なんか辞めて、ここで僕を待っていてくれればそれでよかったのに。

「何か食べたいものや欲しいものはある?僕にできることだったらなんでもするから言ってみて」

ゆるりと首を横に振る名前の絹のような髪を梳く。自身の腕の中にあるはずの彼女は今にも消えて無くなってしまいそうな儚さを纏っており、言いようのない不安に駆られた。

「…時透さんに、お話ししたいことがあります」

布団の上で握った小さな手をようやく握り返され、名前は僕を見た。もちろんなんだって聞くよと返せば、悲哀を孕んだ笑顔を向けられ胸が苦しくなる。

「煉獄さんが遭遇されたという上弦の鬼は、私の…命の恩人でした」

ぽつりぽつりと、雨が降るように名前が言葉を落とす。閉じられた瞳と、額に載せられた手拭いのせいで正確な表情は読み取ることができなかったが、今にも泣き出しそうな空気だ。

「8つの頃、両親は病に倒れ相次いでこの世を去りました。孤児としてある一家に拾われ、そのお宅では奥様を早くに失われた義父と義兄が新たな家族として私を出迎えてくださり、女手のないその屋敷で私は毎日家事に明け暮れる日々を過ごしておりました。それは両親を亡くしてぽっかりと心に穴を開けた私にはとてもちょうどいい生活だと思っていたのです」

初めて聴く彼女の過去。知りたいと願っていたその真実を、早くなってゆく心音に掻き消されぬよう、無一郎は無意識に深く息を吸う。

「義父は手掛けていた仕事に躓き酒に溺れ、私に暴力を働くようになりました。そんな義父に不満を溜めた義兄はその怒りの矛先を私に向け、彼は毎晩身体を求めてくるようになりました。拾ってもらった上に食事を与えてもらっている身である私は2人を拒むことはできず、大人しく言うことを聞かねば命を奪われてしまうと怯えました。そんな日々を過ごしていたある日、突然事は起きたのです」

震える瞼が持ち上げられ、名前の瞳が虚ろに天井を見つめる。自身が認識されているかどうかわからなくて怖くなった。名前が過去から戻ってくることができないような、僕の知らない名前になってしまうような気がして。

「その日は朝から強い雨が降っておりました。夕刻になってもなかなか帰ってこない義父を義兄が探しに出かけていっったので、逃げることができるのは今しかないと、ボロボロの身体を引き摺って戸に手をかけました。戸を開けた瞬間、外から湿気と共に生臭い血の香りを認識するのと同時に、床に身を張り付けていた私の前に両手と口元を血で赤く染めた男が現れた」

名前の小さな声が絞り出されるよう、空気を震わせる。それはこれまでにないほど切なくて、悲しい音。

「彼は猗窩座と名乗りました」

随分と優しい響きを含んで名を呼んでいる。そんな彼女の声を少なくとも僕はこれまで聞いたことがない。

「猗窩座は、女の肉は不味いので喰わない。とっとと消えろと言いながら、ずっと出たいと思っていた家の外へいとも簡単に放り出してくれた。視界の奥では義父が血を垂れ流して亡骸となっていることを妙に冷静に捉えておりました」

名前の最低限の生活を奪っていた義父。彼が殺されたと知り、複雑だっただろう。数年間は曲がりなりにも彼女の衣食住を確保してくれた人間だ。情がないといえば嘘である。しかしそれでも彼から逃れたいと思う生活を強いられていたのだから、彼女がそれを気に止む必要は全くないのに。どこまでも優しくて温かい性格。そこを好きになってしまった僕は彼女を苦しめていたのだろうか。

「彼に投げ飛ばされた際、腕に滲んでいた私の血に触れた猗窩座の手が爛れていくのを目にしました。彼も驚いた様子で私に掴み掛かろうと近づいてきましたが、背後から現れた義兄の気配を感じ取り、最後は急いで逃げろと背を押してくださったのです」

僕は過去を思い出すことができないけれど、彼女は違う。ずっとそんなに重たくて辛い過去を背負って生きてきたのだ。微塵もそれを醸し出すことなく、いつも柔らかく出迎えてくれた。彼女に寄り添う前に、寄り添ってくれるから、それに依存してしまっていた。それを痛感して、悔しさから拳に込める力がどんどん強くなってゆく。

「昔から人喰い鬼の話は知っていましたし、憎むべき存在であることも知っていた。でも、私は鬼を憎むどころか感謝をしなくてはならない。鬼に命を救われたのですから。鬼殺に手を貸すなんて言語道断。そう思っていた矢先、ある女性が私を拾ってくださいました。彼女は医者で、鬼の祖を酷く恨んでいます。全てを失った私はその日から私を引き取ってくださった彼女のために生きることを決意し、今日に至るまで鬼舞辻無惨を倒すために生きています。それは恩人である彼女のためですが、彼を殺したいと思う気持ちに嘘はありません」

名前の眉が悲しむように下がって、苦しさがうつるように胸が痛い。名前がこれから伝えようとしている話の内容が容易に想像できてしまって、これまでの生活が変わってしまうような気がして、情けなくも身体が震えてしまう。

「ですが、久しぶりに彼に出会って…分からなくなってしまいました。こんな気持ちの人間が、日頃鬼と命懸けで闘っている皆さまの側にいるべきではない事は重々理解しております。私は皆様の前から姿を消そうと決心しました。ですが…同時に体調を崩して動けなくなってしまった。本当に締まらないですね、私は」

泣きそうなりながらも柔らかく笑う姿が痛々しくて、愛しい膨らみを包むように布団の中へ肢体を潜り込ませる。形の良い唇をグッと噛み締めるのをやめて欲しくて、指でそっと小さな薄紅色を撫で上げた。

「ありがとう名前。君を知ることができてとても嬉しいよ」
「…軽蔑されないのですか。私は心身ともに穢れた人間です」
「するわけないでしょそんなこと。僕は名前が好きだ。誰になんと言われようが、君にどんな過去があったとしてもこの気持ちは変わらないし、変えるつもりもない」

鬼殺隊にいるみんながみんな鬼に家族を奪われた訳でないことくらい誰もが理解している。どんな形でもこれまで鬼殺に貢献してきたことに変わりはないし、彼女が僕たちに誠意を見せなかったことなんてこれまでに一度でもなかった。
それに、例えどんなに醜い男根に貫かれようと彼女は世界一美しく、優しい人間だ。きっとどの柱がこの話を聞いても同じことを思うだろうし、それが何よりの証拠だというのに。

「穢れてなんかいない。君の心が清らかで美しいことはみんなが知ってる。名前が居なかったら僕はとっくのとうに死んでいるし、君に助けられた命がいくつもあるのだから、どうか自信を持って欲しい」

脆くて弱い、今にもここから居なくなってしまいそうな名前の小さな背に手を回す。そこに羽が生えて僕の前から消えてしまう日が訪れないよう、優しく強く、身体を自分に押し付ける。じんわり胸に染みた水分はまだ温かくて、名前がしっかりとここに存在することを実感できる。

「君がどうしても自分をみんなと違うと思っているならそれでいいけど、僕はそんな名前を丸ごと愛してる。君が熱に魘されている間だって口付けを交わしたいと思っていたし、今すぐここで抱いてしまいたいとも思っているよ」

この状況で使う言葉ではないという自覚は十二分にある。それでも持て余した愛情は止まる術を知らず、身体中から湧き上がっては口から溢れ出る。本人は一生知ることがないであろうが、僕は寝ている彼女の額や頬に何度も唇を寄せている。今の話を聞いていようがいまいが、その行動はきっと変わらなかった。彼女への気持ちが嘘でないことだけが、不動の事実として存在する。

「僕たちはみんな君を必要としてる。だから側にいてよ。僕は名前が居なくなってしまったら生きていけないよ。僕を殺しなくないでしょ?」

狡い言い方だとはわかっているけど、僕に愛を知らしめておきながら勝手に居なくなるなんて君の方が狡いに決まってる。名前の小さくて頼りない身体をぎゅっと抱いて、懇願するように瞳を伺う。はらりと頬を伝う雫が、この世のものとは思えないほど美しくて吸い込まれるように唇を寄せた。

「ありがとう、時透さん。私は幸せ者です」
「名前はいつになったら僕を名前で呼んでくれるの」

鈴の鳴る音が聴こえて、漸く名前の愛しい柔らかな笑顔が零れ落ちた。僕はこれからもずっと、その笑顔を守りたいし、守ってみせる。
さあ、今日は夜までずっと一緒にいよう。名前と同じ夢を共有したくて、無一郎は彼女の小さな額に自分の額を重ねてそっと目を閉じた。

2020.12.12
霞柱様、昔話をしましょう

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