遊郭潜入前日のおはなし

「珠世様、ご無沙汰しております」
「名前、来てくれたのですね。息災で安心しました」

久しく目にすることのなかった名前の変わらない姿に頬を綻ばせる。同時に、緩やかな笑顔の奥に潜む哀しみの色を隠すのが随分と上手くなったなぁと少々悲しくなった。

珠世はお茶を淹れながら目を伏せる。
鮮明に蘇る記憶は8年前のある晩のこと。

路上に倒れる名前を保護し治療を施したのは雨がしとどに降り続く深夜のことだった。
側に鬼の気配はあったものの、全身に打撲や内出血、噛み跡があり、これらは鬼ではなく人間の仕業であるとすぐに理解して保護を決めた。最初こそ嫌な顔をした愈史郎もことの重大さを理解したらしい。それから目が覚めるまで丸2日、彼女の看病をしてくれた。

「覚めましたか。もう安心ですよ」
「…ここ、は……」
「病院です。私は医者で、道端に倒れていた貴方を連れて参りました」

まだ幼い少女だ。それにしては人生を諦めきったような虚な瞳を携えている。衣服から見えない部分へ巻かれた包帯に気付くと、彼女は青褪めた顔をこちらへ向けた。

「お見苦しいものを…申し訳ありませんでした…」
「私は珠世と申します、この子は愈史郎。無理にとは言いません。貴方が話したい事があればなんでも伺いますから、いつでもお呼びくださいね」

それから数日経って名前から鬼と遭遇したという話を聞いた。
血に濡れた鬼の皮膚が爛れるのを見たという。気になって調べてみれば驚くべき血液の持ち主であることが判明した。
鬼であること、鬼舞辻無惨を倒すことを願っていることを話したのは、そんな彼女との出会いで何かが変わる予感がしたのかもしれない。次から次へと現実離れをした話を耳にして混乱しているだろうに。名前は全ての話を呑み込んで、自身も鬼を滅する手助けがしたいと言った。

「鬼殺隊という組織が存在すると愈史郎さんにお聞きしました。私はそこで鬼舞辻無惨を倒す手助けをしたいと考えております」
「鬼殺隊は死と隣り合わせの仕事です。貴方は普通の女性として生活を送ることができるのですよ。それを手放してまで入りたいのですか?」

この期に及んで鬼の存在を打ち明けたことを酷く後悔した。側から見れば弱みにつけ込んだようなものだ。こんなに小さな女の子に自身の恨みを任せてしまって良いのだろうか。
幸せを、奪ってしまうことになると言うのに。

「珠世様のためならば、どんなことだっていたします。私の幸せは貴方に笑って頂くことです。貴方と愈史郎さんに頂いたこの医学の知識も、必ずや役に立たせてみせます」

そのとき初めて少女の笑顔を目にした。羽が舞うような柔らかな笑顔。絆されてしまったのは自身の方だと、漸く気が付いた。


そうして名前は独学で剣術を学び、半年後に最終選別へ挑むこととなる。
熱心に本を読んだり、近所のご老人に話を聞き、選別に参加する前から全集中常駐をも会得した。
鬼殺隊に対する知識は不十分だったが、彼女がとても強い隊士になると肌で感じた。

名前は選別で5体の鬼を倒し、擦り傷1つなく帰還した。鬼の情報伝達が異常に速いことを熟知している珠世は名前の血液が彼らに触れることがなかったということに酷く安堵した。名前が街を出る前、愈史郎と話し合ったことを伝えたあの時は震える手を隠すのに必死であった。

「名前。貴方の血液は特別です。以前教えた稀血のような、鬼のご馳走にも思えるほどいい香りがするので鬼を寄せ付けてしまう。ですが、鬼がいざ貴方の血に触れると細胞が崩壊し、再生に非常に時間がかかってしまう。逆に、人間が貴方の血に触れれば、どんな傷をも治すことができる。これを無闇に使うのは良くないと、私たちは判断しております」

名前は目を見開いて私の話を聞いていた。愈史郎の読み通り、彼女は自身の言うことをなんでも聞いてくれる。それに縋って、珠世は彼女の命を長らえることができるよう、鬼殺の道から逸らしてしまいたかったのだ。

「そ、そんな魔法のような効果が…私の血液に…?」
「えぇ。このことは貴方の鎹鴉に伝えれば鬼殺隊の党首の耳に入ることでしょう。私の読み通りであれば、貴方は剣術の道ではなく医学の道に進むことを勧められます」

ごくりと唾と一緒に話を飲みこむ名前はきっといつかどこかでその剣術を振るうことになる。だがしかし、それは今ではない。鬼舞辻無惨の弱ったところに、彼女の大きな一撃を加えることができたら、きっと。

「貴方は鬼殺隊を内部から支えるのです。そして私たちは離れていながらも一緒にいつか使うことができるかもしれない、鬼舞辻を倒す事ができるかもしれない薬を作り続けましょう。貴方はその来る日まで、その巧みな剣術は隠しておいて。でないと、鬼舞辻に命を狙われる対象になってしまう」

力強く頷いた名前はその後、鬼殺隊の当主の館へと呼び出され、私たちの読通り医療機関を携えた邸を構える運びとなった。それが、現在の羽屋敷である。



幸か不幸かはわからないが、名前は鬼殺隊に身を置くことを隠し、こうして元気でいてくれる。その事実だけで珠世は十分幸せだった。

「先日、例の鬼に出逢いました」
「…そうでしたか。いよいよ戦闘に戻るのですね」
「いえ、戻ったわけではありません。私の血の効能をお館様は未だ他の方に知らせたくないご様子でしたから」

強張っていた肩を撫で下ろし、珠世は名前の頬に触れる。困ったような笑みを携えている時、彼女は自身の望みとは逆の方向へ走っていくことを珠世は理解していた。

「ですが、近いうちに大きな戦が始まるような気がしております。私はそろそろこの血の効能を隊士の方へお話しするつもりです」
「貴方のことだから、無理して血液を分け与えすぎることのないようにしてくださいね。私はそれだけが不安です」
「ご安心ください。自分の限界は私が一番よくわかっております。無惨が滅びるまで、私は絶対に死にません」

この小さな手で、いくつもの命を救ってきた彼女ならきっと大丈夫。珠世は自分に言い聞かせるように何度も心の中でそう説いた。彼女を失うことを恐れているのは自分だけではない。でも、前に進もうとしている名前を止めることは、もうできない。

「明日から潜入捜査を命じられております。恐らく上弦の鬼が潜んでいるとの見解ですので、どうにか鬼の血を採取して参ります」
「ありがとう。よろしく頼みます」

哀しみを隠すのが上手くなったのではない。哀しみを感じる機会が減ったのだと、珠世は思った。きっととても良い仲間に恵まれて生活しているのだろう。それならば、自分だけが彼女を守らなくともきっと大丈夫。ここまでこうして元気に過ごしてきてくれたのだから。

「それでは珠世様、失礼いたします。またお顔を拝見しに参ります」
「えぇ。待っております。次は愈史郎がいる日にね」

大丈夫、その次という日もきっと訪れる。
優しくて柔らかな名前の微笑みが、自身が殺してしまった息子の笑顔と重なって思わず手を離したくなくなってしまった。

「どうか、無事に帰ってきてくださいね名前…」

振り返らずに進んでいく名前の後ろ姿を見届け、珠世はただその身の無事を願うことしかできなかった。





△ ▽ △ ▽





「悲鳴嶼さん、こんにちは」
「名前か。久しいな…」
「ご無沙汰しております。そちらの方は、お噂に聞いておりますお弟子さんでしょうか?」
「左様…玄弥、挨拶をしなさい」
「あ、っと…その…不死川玄弥です…」
「苗字名前と申します。玄弥さん、よろしくお願いいたしますね」

悲鳴嶼さんと街へ降りてきたその日、天使のように可憐な女性に出会った。名前を聞いて、蝶屋敷で何度か見かけていたその人だと認識する頃には澄み切った大きな瞳を見ることができなくなってしまっていた。彼女は、美しすぎる。

「彼女は我ら柱の健康管理や治療を行なってくれている。とても腕の良い女医だ…南無」
「お褒めに預かり光栄です。玄弥さんのお話はしのぶさんにも伺っておりまして。困ったことがあったら私にもご相談くださいね」

柱の…?ということは、兄貴とも交流があるのだろうか。自身は会うことを許されていない兄の安否を、どうしても聞きたくなった。

「あ、あの…!」
「はい、なんでしょうか」
「兄貴……あ、いえ…風柱様は、元気なんでしょうか…?」

悲鳴嶼さんからの見えない圧が痛い。しかし、こうでもしなくては彼の状況を知ることができない。俺には会う権利も話す権利ももうないというのだから。
目を合わすこともできない俺に、不審も嫌悪も感じることのない、柔らかな鈴が鳴るような音が聞こえてきた。

「えぇ、とてもお元気ですよ。よく私の体調を気遣って様子を伺いに来てくださる、優しくて暖かいところも変わっておりません」
「…そう、ですか……よかった」

そう話す彼女は何を知っているのだろうか。自身の過ち全てを知った上でそんなに優しい言葉を掛けてくれるのだろうか。とにかく兄が無事であると言うことを確認できてよかった。謝意を述べようと顔を上げたその時、白くて小さな手が自身の頬に触れる。亡き母を思い出すような心地よい温度だった。

「玄弥さん、よければ今度鴉を飛ばしてください。私で良ければお話のお相手になりますので」

では失礼しますと綺麗に頭を下げた名前の後ろ姿を見て、彼女が兄を側で支えてくれているのならきっと大丈夫だと、妙に安心している自分がいることに気が付いた。
悲鳴嶼さんもとても優しい表情で彼女を見つめていたし、きっと手紙を送ることを許してくれるだろう。





△ ▽ △ ▽





「不死川さん、いらっしゃいませ」
「おォ。出かけてたのかァ?」
「えぇ、少し…」

今日も庭から現れた無礼な自分を鈴の鳴る音が出迎える。静かな邸の中に自身の心音が妙に大きくトクトクと響いている気がした。

「頂き物のおはぎがあるんです。よければご一緒にいかがでしょう」
「茶は俺が淹れるから座ってろォ。疲れてんだろ」
「不死川さんは本当にお優しいですね。でも、まずはそのお怪我の手当からです」
「…チッ」

今日は羽織から見えない箇所を傷つけたつもりだったのに。彼女には隠し事はまるで通用しないことをすっかり失念していた。そんなことより今日ここへ来たのは、別の用があったから。

「明日から任務に関わると聞いた。なんかあったらすぐ連絡しろォ、無理はするな」

きょとんと首を傾げ、澄んだ瞳が自身を貫く。
この愛しい存在を失おう日が来るものなら自分は本当に自我を失って生きる気力すら無くしてしまう気がする。逆を言えば、彼女がこの世に在り続ける以上、自分は死んでも死に切れないと言うこと。いつもは直視できない眩しすぎる笑顔を久しぶりに間近で見たような気がする。しばらく会えないのであれば、目に焼き付けておかなくては。

「ありがとう、不死川さん」

その笑みに絆されると何も言えなくなってしまう。彼女に万が一があったら自分が1番に駆けつけられるようにしよう。実弥は歯痒くもどかしい気持ちに目を瞑って名前の手当を受け入れた。


数日後、名前の潜入先が吉原だということを聞いた風柱と水柱は2人仲良く音柱に食ってかかった。遊女とかふざけたマネさせたらタダじゃおかねえからなと脅しを効かせても腑が煮え繰り返るような怒りを抑えることはできなかったので、毎日風のような速さで鬼を滅殺してどうにか自我を保つのが精一杯だった。

遊郭潜入前日のおはなし
2020.12.18

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