炎柱様、もうご安心ください

その日、名前は早朝から産屋敷邸へと招かれていた。柱たちの近況報告に加え、大切な話があると当主から直々に文を貰っていた。幸いその日はどの柱も羽屋敷を訪ねておらず、人目を偲んでくるようにとのご指示も遵守することができた。

「よく来てくれたね名前。相変わらず元気そうで何よりだ」
「このたびはお招き頂きありがとうございます。お館様におかれましてもご壮健で嬉しい限りです」

名前は目の前に鎮座する産屋敷耀哉へ深々と頭を下げ、大きく息を吸う。柔らかな藤の匂いが身体いっぱいに広がった。
名前は産屋敷家に代々伝染する不治の病の進行を遅らせる薬の開発を進めていた。その薬を投与してきた甲斐もあり、耀哉は数ヶ月前に失った視力を取り戻すことができている。愛する子供たちの成長を自身の目で見届けることができるようになったのは何よりも幸せなことだった。

「今回のことは君にしか頼めないことなんだ」
「なんなりとお申し付けください。この身を削ってでも全ういたします」

耀哉は名前の淀みない瞳を見つめ、9人の柱達の顔を思い浮かべる。
現在の柱たちはこれまでにない精鋭揃いであるが、1つだけ懸念すべきことがあった。それは、その強さゆえに人に弱みを見せることがない、否、できないということ。
柱は基本蝶屋敷へ寄り付かない。きっと、怪我を負った姿を後輩隊士に見せることは柱として示しがつかないとでも思っているのだろう。特に男性陣には自尊心の高い子供たちが多い。
そんな中で名前に彼らの世話をお願いしたのは、かれこれ7年も前のこと。12歳という幼さが残る当時から今日に至るまで我が柱たちを懸命に治療し、言葉にすることはないものの鬼殺に滅入る彼らの心を救い、彼らの"素直さ"を取り戻してくれた。柱合会議では皆ピリピリすることが多いが、名前の話が出るたびに空気が和やかになる。その場にいるわけでも無いのに、彼女がどれだけ彼らの信頼を得ているかは手に取るようにわかった。

「では名前。頼んだよ」
「御意」

鈴の鳴るような音と共に、彼女が屋敷を後にする。
彼女が鬼殺隊の一員で、優秀な剣士であることを隠す理由を知る耀哉は、小さな後ろ姿を見つめながら彼女の肩の荷物を今の柱たちに下ろしてやってほしいと願わずにはいられなかった。





△ ▽ △ ▽





名前がお館様の指示で乗り込んだ列車には複数の鬼が潜んでいた。素早くその気配を察知した名前は最後尾の車両へ乗り込み、つばの広い帽子を目深に被る。今回耀哉より受けた命では、不測の事態が起きるまで鬼殺隊の者に姿を認識させることがないよう注意されていた。
しかし、状況は芳しくない方向へ進んでいるようだ。禍々しい1体の鬼が列車全体に侵食し始めている。今動くことは自殺行為であると分かっていても、名前は足を前に進めることを止めない。

「禰豆子さん」
「ウー!」

数車両進んだところで、見知った3人の戦士たちが眠っていた。側から擦り寄ってきた禰豆子に視線に合わせるよう身を屈める。いつものように頭を撫でてやれば、嬉しそうに目を細めた。

「この切符を燃やすことができますか?まずは伊之助さんを起こしてお兄さんを助けていただきましょう」

こくりと頷いた禰豆子が血鬼術を使って切符を燃やす様を見届け、名前は近くの車両へ移動する。鬼の攻撃から人質となった乗客を守る炎柱、煉獄杏寿郎に気づかれることのないよう、再び気配を殺し眠る乗客に紛れ込んだ。
彼が起きてくれればもう心配はないと分かっているはずなのに、何故か嫌な予感は消えることなく胸を埋め尽くして名前の表情を曇らせた。





脱線した列車の中から這いつくばるように外へ脱出した名前は、突如霧を裂くようにして現れたヒトを目にして心臓が止まるような感覚に陥った。
きっとお館様は此処へ現れる鬼が彼だということを知っていた。忘れもしない瞳の中の数字と、肌に施された独特な模様。名前は暫く足を縫いつけられたかのようにその場から身動きを取ることができず、炎柱と上弦の鬼をひたすら見つめた。
気がつけば杏寿郎と彼の一騎討ちも佳境に向かっている。朝日が山と山の間から顔を出そうとしているのを察知し、名前は遂に、意を決して着物の下から薄暗い空を映しだす鋼を抜き出した。
私の使命は彼ら、鬼殺隊を救うこと。鬼に抗う人間の命を、一つでも多く救うこと。ただそれだけ。

屋敷に帰れば霞柱が私の帰りを待っているだろうし、程なくして水柱や風柱もやってくるだろう。明日は音柱の検診に伺う予定だし、その後は恋柱と蟲柱にお茶に誘われている。岩柱とその弟子へ薬を届ける予定だってある。
無事にそこへこの炎柱を連れて帰らなければ。

息を大きく吸って目を瞑る。全神経を研ぎ澄ませ、地面を力強く蹴り飛ばした。

「全集中…羽根の呼吸、壱の型」

闘気も殺気も滲むことのない名前の身体と、澄み切った碧い日輪刀が突如として戦場に現れる。炎柱の急所を目掛けて繰り出された鬼の拳へ、名前の刀が眼を見張る速度で振り下ろされた。

「もう辞めましょう、猗窩座」





△ ▽ △ ▽





炭治郎と伊之助は信じられない光景を前に開いた口を塞ぐ術をなくしていた。
普段、屋敷に篭って甲斐甲斐しく怪我人を世話するあの天使が、気配に敏感な伊之助ですら探知不可能な速さで上弦の参の硬い拳を斬り落としているのだから。

「な、何故お前が…!チッ!杏寿郎、また何処かで会おう。その時は必ずお前を鬼にしてみせる」
「ッ!逃げるな!卑怯者!!!」

名前を視界に捉えた猗窩座が、彼女と陽光から逃げるように林へ逃亡する。
煉獄さんを瀕死状態に陥れておきながら、全ての罪から逃れようとするその姿に、炭治郎は身体の芯から燃えたぎるような怒りに震えた。

「炭治郎さん、傷口が開いてしまいます。こちらへいらしてください」

名前は普段の鈴の鳴るような優しい声音を俺に向ける。膝から崩れ落ちた杏寿郎を支え、2人で同じように眉を下げて笑うのでさらに涙が溢れて止まらなかった。
煉獄さんの潰された左目、砕けた肋骨、傷ついた内臓。素早く傷の状態を察知した彼女が彼へ薬の投与を始める。この人の姿を認識しただけで、こんなにも安心してしまうのは何故だろうか。

「世話をかけてすまない名前殿。俺よりも竈門少年を先に見てやってくれ」
「そろそろ隠の方が到着されます。竈門くんは呼吸のおかげで止血ができているようですしそちらへ任せましょう」

煉獄さんは更に眉を下げ、泣き続ける俺たちを宥めてから、眠るように気を失った。まるで息をしていないかのようなその姿に喉の渇きが治らない。助太刀にすら入ることができなかった自身の無能さを思い返して、悔しさから体がどうにかなってしまいそうだった。震える拳を握りしめ、地面に叩きつける。痛いのは手なのか腹なのか頭なのか、もうわからない。

「炭治郎さん、伊之助くん、ご安心ください。煉獄さんは必ず助かりますよ。私も心を燃やしますから。だから、あなた達も一緒にもっと強くなりましょう。煉獄さんの強さをみんなで受け継げば、きっと次は彼を倒せますから」

名前は溢れる涙を止めることができない俺と伊之助の頭を撫で、初めて会った時のように優しく、暖かく微笑んだ。その笑顔が泣いているように見えた理由はわからないが、2つだけ炭治郎にも理解できたことがある。
それは名前とあの鬼が初めて会った訳ではないということと、煉獄さんがきっと無事に戻ってきてくれるということ。

杏寿郎の手当を進める名前の澄み切った蒼い瞳の中には、小さな炎が宿っているように映った。





△ ▽ △ ▽





「名前殿はいらっしゃるか!」
「その声は…煉獄さん。いらっしゃいませ。おや、そちらはご兄弟でしょうか」
「初めまして名前さん。煉獄千寿郎と申します。その節は兄を助けていただき本当にありがとうございました」

千寿郎は目の前で柔らかく微笑む名前を見つめ、ポッと自身の頬に熱が籠るのを感じた。兄から聞いていた話通り、本当に天使のような女性だとついぽろりと声が漏れ出るところだった。

「改めて礼を伝えにきた。名前殿。君が来てくれなかったら俺は急所に一撃を喰らい、既にあの世にいたことだろう。本当にありがとう」
「当然のことをしたまでです。それに、あそこへはお館様のご命で足を運んだのですよ」

名前はあの日の朝、お館様より乗客と件の任務に関わる鬼殺隊員の手当を仰せつかっていたらしい。ある程度大きな戦いになると予想していたのか、豊富な器具を揃えていた彼女が処置をしてくれなければ、自身はあそこで命を落としていただろう。生家に戻ってからは、代々煉獄家に仕える医師が彼女から治療を引き継いでくれたので、彼女に会うのはあの列車での戦闘以来だ。
例のあの日に見た姿より、心なしか窶れて見えるのは気のせいだろうか。彼女を象徴する柔らかな笑みにも覇気がない。

「野暮なことを聞くようで申し訳ないが、君はあの上弦の鬼と会ったことがあるのか」

見舞いにやってきた竈門炭治郎は名前と猗窩座の関係を酷く気にしている様子であったし、自分も2人の間には何か因縁があるように感じた。
何かを考え込むような素振りを見せた名前が緩やかに眉を下げて笑う。困ったような顔も、何故こんなに美しく様になってしまうのだろう。隣に座る我が弟の顔も妙に紅く染まっている。

「…彼には昔、命を救っていただきました」
「鬼に、命を…?」

この話はこれでおしまいですと微笑まれ、杏寿郎はそれ以上踏み入ることができなかった。
先日もそう言っていたが、彼女はあの鬼のことを彼と呼ぶ。妙な気分が晴れることはなく、心の霧は濃くなるばかりだった。
それから思い出したかのように、酒に溺れる父に飲ませる薬を差し出され、弟と共に家路につく。

「名前さんはとても綺麗な方ですね、兄上」
「うむ。彼女は我が柱たちの天使と呼ばれていてな!あの不死川をも手懐けている素晴らしい女性だ!」
「え…あの風柱様をですか…?」

もう2度と拝むことができないと思っていた夕日が自身と驚く弟を照らし、2つの影がそこには確かに存在している。
杏寿郎は天使の切ない笑顔を思い出し、胸に残るモヤっとした感情に目を瞑るよう、風柱に若干の失礼を働く弟の小さな頭に手を置いた。

20201202
炎柱様、もうご安心ください

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