桜の記憶

「冨岡せんせい?」

その甘い声に名を呼ばれるたび、心と頭を鈍器で打ち付けられたような錯覚に陥り、足が張り付いたように動けなくなってしまう。
短く折られたスカートから惜しげもなく露出された白くて細い脚は、この時代でも俺だけでなく皆の視界に入り、男の情を揺さぶっていた。

「…苗字。気をつけて帰れ」
「はい!せんせいも残業はほどほどに…」
「名前〜かえるぞ!」
「あ…うん、ではせんせい、また明日!」
「…あぁ」

屈託のない陽だまりのような笑顔を置き土産に、名前は夕陽の差し込む昇降口へ同級生と共に吸い込まれるように消えていった。その後ろ姿がどこか脆く儚いようで、俺は彼女がこの世に存在しているものなのかどうかさえ疑問に思ってしまう。


前世に唯一、自身の心を射抜いた女だった。
名前の絹のように指を透き通る髪の毛、掌に吸い付く白い肌。それから桜色の唇の柔らかさも、その奥から漏れ出る甘い声音も、俺は全てを知っていた。心の記憶が憶えていた。
鬼を殺し、痣の代償でお互い時を同じくして世を去り、100年の時を経て漸く巡り会えたと思えば教師と生徒という隔たりに苛まれることになる。あの頃のように自分の腕の中で眠る彼女を見ることもできなければ、あの愛しい笑顔に触れることもできない。俺の肩書きは、名前が大人になっていく過程を支えるいち教師。側で元気な姿を見ることができるだけ、幸せなことだろうと何度も湧き上がる激情を抑えつけては、前世の記憶に目を瞑った。
とはいっても、学生生活を謳歌する彼女を草葉の陰から見守るのは非常に辛いものがある。男女の壁を無きものとし、皆を平等とする長女気質の彼女は誰からも愛されており、自身の守備範囲である体育用具室前や体育館裏へ連れ込まれ告白されているところを目にするのもしばしば。
自身は燻る感情を伝えられないもどかしさ、彼女は自分を100年前に恋仲であった冨岡義勇であるとは認識していない切なさに、何度も血管が浮き出るほど拳を握りしめた。



「ごめんなさい、気になる人がいるの」

彼女の十八番はいつもこれだった。
付き合いを申し出た男どもは皆同じように肩を落として去ってゆく。気になる人ーー毎日帰路を共にしている我妻や嘴平のことだろうか。もしくは彼女と同じくらいに広い心を持った炭治郎か。彼女の周りに集う男性陣の顔を浮かべればキリがない。前世でも彼らは親しい間柄であったという事実も加わり、最近は黒い感情が湧き上がるのを抑える術をなくしていた。

100年前、彼女は今際の際に告げた。生まれ変わったってあなたを愛し続けますと。もちろん同じ気持ちだった。しかし、前世の記憶を保持する人間なんてきっといないのが正しい。彼女が隣にいない世界は、まるで最愛の姉を鬼に殺されたあの頃のように色を失ってしまった。

「こんなところでお昼寝ですか?」
「…ここは生徒立ち入り禁止だ」
「今日は特別な日なんです、見逃してください」

昼時。最近見つけた自身だけの憩いの地に天使は音も立てずに降り立った。
ペロリと出された紅い舌が目に毒だ。自分しか知らないはずの彼女のありとあらゆる表情が壊れたビデオテープのようにひっきりなしに頭の中へ流れ込む。
滑らかな春の風が靡く屋上に名前と2人きりというシチュエーションにどうにか平然を装うのがやっとで、反応は遅れてしまった。

「いいことでもあったのか」

もはや泣き出しそうな声色だった。
頬を赤らめて下を俯く癖は変わらない。甘くて優しい、花のような匂いを纏うのも。

「忘れられない人が、いるんです……ずっと、ずっと、胸の蟠りでした」

宙を揺蕩う瞳は学校の奥の山を見ているようだった。中腹に見える桜の木々は、柔らかな風に揺られているのが容易に想像できる。彼女と最後に一緒に見た花も桜だった。

「顔も名前も声も思い出せない。でも、彼の纏う雰囲気とか、そばに居ると安心して何もかも忘れてしまうような甘い眼差しだけは覚えていて……ずっと気になっていたんです、それに似ている人を」

1歩ずつ距離を詰める彼女の足音より、自分の心音の方がよほど五月蝿い。息をするのも忘れ、絹のような髪を撫でながら開かれた唇が、ずっとずっと求めていたかたちに揺れ動く。

「義勇さん」

淡いピンク色の花弁が舞う。優しい春の香りと共に胸の中へ広がるあつい熱。

「あなただったんですね。ずっと、ずっと待ち焦がれていたのは」
「名前…」

1ミリでも動けばその大きな瞳に溜まる雫が溢れてしまいそうだった。それなのに心は先程までの杞憂が嘘のように軽やかで、暖かい。
100年もの年月を経て辿り着いた、愛しい体温。

「名前。愛している。忘れたことなど一度もなかった」

手を握る。吸い付くような柔らかさに涙が溢れた。誤魔化すように彼女の目尻から溢れる涙をそっと唇で拭う。愛しい笑顔のまま腕の中へ飛び込んできた熱を、俺はもう逃さない。

「好きです、義勇さん。ずっと、ずっと…あと100年後だって、ずっと大好き」

100年の時を埋めるように愛を確かめ合い、それから2人で子供のように涙を流し、額をくっつけて笑い合う。世間が認めずとも、定められた愛に背くという選択肢は、俺の中に一欠片もなかった。

麗かな春の風が舞う。俺たちが出会った頃のことを知っているかのように、優しく包み込むような風を受けながら、焦がれていた熱が唇に重なった。



それから今後のことを2人で考えあぐねている中、同僚である宇髄天元や、教え子である炭治郎たちが"前世の記憶の保持者"であることを知り、100年前の恋仲を知る多くの人間から祝福された。こうして俺たちの関係は秘密であって秘密ではなくなることになる。


「義勇さん、帰りましょう」
「あぁ、帰ろう名前」

どんな境遇に陥っても、俺は何度だってお前に恋をする。
夕飯の献立について楽しそうに語らう彼女の絹のような髪の毛には、淡いピンク色の花弁が2つ、寄り添うようにそこにいた。

20201130

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