霞柱様、おやすみのお時間です

「名前。こんなところにいたの」
「時透さん、おかえりなさいませ。お怪我はありませんか?」
「…名前で呼んでって言ってるでしょ。ただいま。それから怪我はもちろんないよ」

時透無一郎は縁側の奥に伸びる部屋の隅で本を読んでいた女性の隣へ腰を下ろした。毎日水仕事に明け暮れているはずの両手に赤い傷は一つも見当たらない。
柔らかな白い左手にそっと自分の右手を重ねる。きょとんと此方を向いて首を傾げる彼女を横目に、その手の下ーー太腿の上へ頭を転がせば、鼻腔を優しい匂いが擽った。

「30分だけ…」
「はい。ゆっくりお休みになってください」

髪の毛を撫でる心地の良い体温に釣られ、微睡の中へ意識を彷徨わせる。

今日もやっぱり、彼女にまつわる記憶だけは鮮明だ。





鴉が五月蝿く声を上げているような気がした。
夢の狭間から現実へ導くように鈴の音が聴こえ、瞼を持ち上げれば、透き通った瞳がその中に自分だけを捉えている。

「時透さん、おはようございます」
「…ん…、なまえでよんで……」
「銀子さんがお呼びですよ」

渋々心地よい体温を手離して上体を起こす。明日の晴天を約束するかの様に眩しく光るオレンジ色の夕日が、肩を落とした自身の姿を照らした。

「休息ー!霞柱、睡眠不足!今日ハ休息ナノヨ!」

無一郎は銀子の腹をそっと撫でてやった。嬉しさから口元が綻ぶのを抑えることができないし、浮き立つ足で名前の元へと舞い戻る。

「名前、僕お休みなんだって。今日は誰かの屋敷に行くの?」
「いえ、今日は何処へも。どなたか負傷した方がいらっしゃれば伺う予定ですが…」
「じゃあ1日一緒に居られるね。誰も怪我しなければいいなぁ」
「ごゆっくりとなさって行ってください。何か召し上がられたいものはございますか?」
「なんでも。名前のご飯はどれも美味しいから」

承知しましたと名前が腰を持ち上げた。
厨に行かれてしまうのがなんだか嫌で、部屋を出る彼女の着物の裾を掴む。俯く僕の手を、今度は名前が掴んで優しく撫でてくれた。とっても柔らかくて、心の中までじんわりと暖まってゆく。

「では時透さんも一緒に作って頂けますか?」
「……作る」

また今日も名前を呼んでもらうことはできなかったけど、それでも彼女と1日中一緒に過ごす日が訪れるなんて。手際よく夕餉を作る名前の横顔を見つめ、この時間が永遠に続けばいいと願い続ける。
廊下に映った自身の影が名前と重なって口許が緩んだ。

一緒に夕餉を食べ、湯浴みを終えて、用意されたふかふかの布団に横になる。それでもやっぱり名前が物足りなくて、重たい瞼を擦りながら彼女の部屋へ向かった。

「名前ー…」

部屋の真ん中に敷かれた布団の膨らみは規則正しく小さな上下運動を繰り返している。その中で眠る天使の顔に手を滑らせれば、微睡の中で頬を擦り寄せるように微笑まれて堪らない。
此処が一般隊士の集う蝶屋敷のような場所でなくて本当に良かった。
その無防備であどけない表情は、自分以外に見せてくれるな。

「ん…む、いちろ、さ…」
「…!うん、名前。おやすみ」

ここで名前を呼ぶなんてずるすぎる。
衝動的に彼女の布団の中へ潜り込み、その華奢な身体をそっと抱きしめた。心地よい匂いと優しい暖かさに包まれ、名残惜しいが自分もすぐに意識を手離してしまう。
なんだか幸せな夢を見ていたような気がした。

翌朝、僕たちを邪魔するかのように派手な化粧を施した大男が侵入してくるまで、僕の上機嫌はずっと続いた。
やはりこの屋敷の警備は強化すべきであると、お館様に相談しなくてはならない。

20201201
霞柱様、おやすみのお時間です

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