水柱様、お茶が入りました

心地よい、鈴の鳴る音だと思った。


淡い音色のような声がどこかで俺の名を呼んでいる。
知っている。この音を、俺はいつかに聴いたことがある。

出所を探るように先刻から異常に重たいと感じていた瞼をゆっくり持ち上げれば、澄み切った小川の水のような瞳が、安堵の色を浮かべて俺を見た。

「動いてはいけません。もう少しだけ、全てを忘れて優しい夢をみましょう」

誰だ、此処は何処だ。
そんな思考はどうでもよくなってしまうほどの懐かしい暖かさが頬を撫でる。

「よく頑張りましたね。みんなのために、いつもありがとう」

再び微睡へ溺れる際の、優しい日差しと重なった笑顔がとても眩しくて羽毛のように柔らかかった。

きっとあの笑顔を、俺は死んでも忘れない。





冨岡義勇はある屋敷の前でその1歩を踏み出すことができずに立ち尽くしているところだった。
右手に掲げた風呂敷の中では、街で人気という御茶菓子が早く入れと言わんばかりに顔を覗かせる。吐かれた息は重たいが、心なしか甘さを含んでいる気がしてむず痒い。
意を決して脚を動かしたその時、あたりを優しく包み込むような鈴の音色が耳に届いた。

「冨岡さん?どこかお怪我でもなさったのですか?」
「…いや、そうではない」

罰の悪い表情を浮かべてしまった。
自身の緊張の元凶である名前はそんなこと知る由もなくキョトンと首を傾げる。瞳は今日も青い空のように澄み切っている。

「実はちょうどお茶が入ったところでして。ご多忙とは存じますが、ご一緒にいかがですか」

鬼を殺すことしか頭に無かった自分の世界で、彼女はあまりにも平和を象徴して笑っていた。その笑顔に釣られて目の前の屋敷の敷居を跨ぐ。これが当初の目的であったはずなのに、促されている自分が居た堪れない。

茶の間に通された後も、義勇は脚を崩すことができず視線を泳がせた。目の前に置かれた茶を啜るタイミングすらも失っている。
絞り出すように口から漏れ出た声は、少なからず上擦ってしまい、視線はやはり畳を仰いだ。

「先日は世話になった」

3日もこの邸に滞在していたのはかれこれ2週間も前のこと。
鴉に導かれ屋敷の前に項垂れていた自身に甲斐甲斐しく世話を焼いてもらった日々は言葉通り夢のような時間だった。
目の前の彼女、名前の、羽根のように柔らかな雰囲気に包まれると何故か自分が善良な人間であるかのように感じてしまう。
日頃鬼を倒すことしか頭にない自分が久しく感じることのなかった安らぎを思い出したのは、紛れもなく彼女のせい。

「まぁ美味しそうなカステラ…ありがとうございます。でも、これからはもっとお気軽にいらしてくださいね。約束です」
「…承知した」

小指を顔の前に突き立て、優しく微笑まれる。たったそれだけのことに、とくりと心臓が飛び跳ねた。茶を口に運ぶ所作さえ信じられないほど美しくて見惚れてしまう。

ーー羽屋敷。
そこは鬼殺の末に怪我を負った隊士たちが羽を休める休息地。一般隊員には知らされていない、主に柱を休息させる医療施設。
柱でありながら、義勇はその屋敷の存在を先日まで知らずにいた。鬼を滅した後、ボロボロの身体を引きずって鴉に導かれるままたどり着いたのが、この苗字名前が主人兼医師をつとめる羽屋敷。蝶屋敷のように慌しい気配はなく、ただ、優しくて流暢な時間が流れる空間。
鬼がこの世を巣食っていることがお伽話のように感じられるほど暖かい。その理由の大半は彼女の存在が占めていると、義勇はひとり納得している。

「他の柱もよく来るのか」
「わたしが皆様のお屋敷に伺うことが多いのですが…よく私めの様子を見にきてくださります。皆様とってもお優しくて」

名前が柱の中で面識がなかったのは唯一、自分だけであったという。屋敷同士の距離が少しばかり遠いことと、水柱邸の近くには藤の家紋の家が多く、定期的に医者に診てもらっていることをお館様から知らされていたらしい。
特によくこの邸を訪れるのが時透だという情報と、自分が今の柱の中で最後に名前と知り合ったという事実に少し肩を落とし、義勇はようやく茶を手に取った。
水面を見つめたままの俺を柔らかい笑顔が見守っている。

「ふふ。お気付きになられました?」
「茶柱、か…初めてだ」
「今日は良い1日になりそうですね」

また優しい鈴が空気を揺らす。それが鈴ではなく彼女の声音だということに、ここにきて俺は漸く気がついた。
自分のために、花のように頬を綻ばせる彼女が作る穏やかな空間が、堪らなく好きだ。先程までの杞憂が嘘のように吹っ飛んでしまう。

「…名前。また来る」
「いってらっしゃいませ冨岡さん。いつだってお待ちしております、そしてどうかご武運を」

何故か絶対に無事に帰って来られるような気がした。
予感めいたものなどなにもないはずなのに、胸は高鳴ってやる気に満ち溢れる。

彼女の言うとおり今日は良い1日になりそうだ。見送りの際の名前の柔らかな笑顔を思い出し、義勇は他人には分からないほど小さく口許を弛める。

羽織からは優しくて甘い、名前と同じ匂いが香った。

20201201
水柱様、お茶が入りました

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