唇から浸水01

月がちょうど半分満ちる、静かで寂しい夜だった。

流れ星を見た。
満点の星空に伸ばしたはずの両手は宙を彷徨って、力なくまた元の場所へと戻ってくる。
口の中に広がる鉄の味と全身を蝕む酷い痛みに、ついに名前は目を閉じた。肢体はすでに土や砂利に冷やされ始め、全集中の呼吸に使う酸素が体を巡ってくれない。

先ほど笑顔で見送ってくれた師範の顔を思い出して、痛みより申し訳なさが勝った。どうやらあなたに習った全てを発揮できないまま、ここで無駄にしてしまうようです。 

足元でこの状況に陥れた化け物がチリになってゆく。断末魔の叫びが僅かに聞こえたが、何を言っているかはわからなかった。
こんなに綺麗な夜空の元であの世へと向かうことができるのは不幸中の幸いだし、先ほどの流れ星がこの鬼の生まれ変わりでないことを心の底から願った。


それは初めて出会う、下弦の鬼だった。

隊員を苦しめた血鬼術はどうにか免れ、相討ちとなった。その頚を切り落とすことはできたものの、隊員は全滅。私の鴉も片方の羽を負傷し、文を飛ばすこともできない。
ちょっとやそっとの事では破けることのないらしいこの隊服も、今は大きな爪の形に引き裂かれ、赤黒い液体が絶え間なく流れ出る。
隊に入ってからはや2年。最愛の師範や同期の隊士たち、今は亡き家族の笑顔が血液のように脳内を駆け巡った。

もう朝日を浴びることはできないかもしれない。
日の出まであと2時間はあるし、ここは鴉の指示した場所からもかなり離れている。
それでも、鬼を倒して死ねるならば、本望だ。
先刻から耳鳴りが鳴り止まない。


「名前、諦めるな。死ぬな!」
「、っ…ぁ。だ、れ…」

真空の世界にいるかのような感覚の中、重たい瞼を上げることは叶わなかった。
唯一届いた声はやっぱり走馬灯の一種かもしれない。だって、彼がそんな声で私を呼ぶはずがないもの。
酷く焦りを孕んだその音が遠くなって行くのと同時に、全身に暖かいものが被さったことを感じて、肌や感覚はまだまだ死を受け入れる覚悟ができていないのだと自嘲した。
私もどうやらしぶとく生まれてきたらしい。




* * *





給仕の音と、鳥の囀り。それからバタバタ人が駆け回る音が聞こえて、勢いよく部屋の扉が空いた。先にはここ最近知り合った男の子がニコニコしながら立っている。

「おはよう!名前ちゃん!!」

苗字名前は生きていた。
全身に巻かれていた包帯も、今では寝巻きの下、お腹だけに止まっており、私の死を覚悟した隠はこの回復力を前に言葉を失っていた。
きっともなしに化け物だと思われている。

「お饅頭もらってきたんだ!一緒に食べようよー!」
「善逸くん。お薬も飲まないでそんなの食べてたら、またアオイちゃんに怒られちゃうよ?」
「ぐっ……じゃ、じゃあ、バレないようにお庭で食べよう!名前ちゃん、今日はすっごくあったかくてお花見日和なんだよ?たまにはちょっと気分転換しようよ!」

差し出された小さな手をそっと握れば、満面の笑みを浮かべ、今にも天に上りそうだと言わんばかりの舞が始まった。脳内にはきっとたくさんのお花が咲いている。

「俺、断言できる。名前ちゃんに会うために生まれてきたんだとおも」
「あっ、炭治郎くん。炭治郎くんも一緒に日向ぼっこしない?善逸くんがお菓子持ってきてくれたんだよっ」
「ねえ無視?!無視は酷くない?!ねぇええっ!!
って炭治郎ー!空気を読め!空気をー!!!」

コロコロ表情の変わる人だなぁ。
堪えきれずくすくす笑って、みんなで食べた方が美味しいよと袖を引けば、善逸くんのご機嫌も戻ってきた。 


生死を彷徨ったあの晩、私はここ、蝶屋敷へと担ぎ込まれ、1ヶ月間眠り続けていたらしい。
目が覚めた時1番に機能したのは鼻で、大量の果物や菓子、花束の匂いを嗅いで白目を剥き、さらに3日眠り込んだ。
一時は失血と低体温で危ないところだったが、この屋敷の主人であるしのぶさんのおかげで一命を取り留めることができた。おまけに後遺症も残らないらしい。

適切な応急処置のおかげですとしのぶは優しく笑っていた。確かに何度も夢に出てきたし、周りの人からもいろんな話を聞いた。


「ささ、名前ちゃん。こちらへどうぞっ!まだちょっと冷えるかもしれないから俺の羽織り膝にかけとくね」
「名前さん。具合が悪くなったらすぐに言ってくださいね?」
「2人ともありがとう。本当に優しいなぁ」

別任務の負傷で入院してきた彼、我妻善逸くんと竈門炭治郎くんとはすぐに仲良くなった。最近落ち込んでいるという猪の被り物をした彼とはまだあまり話したことがない。

善逸くんに至っては、私が目を覚ましてから毎日部屋を訪れては、お互い重症だというのにお茶だのデートだの結婚だのとありとあらゆることに誘ってくれた。会うのはそれが初めてだったし、最初はその身体の異様な小ささと、積極的な性格に本当にびっくりしたけど、ここまで楽しい入院生活を送ることができているのはこの人のおかげだと思う。



「え?名前ちゃんって継子なの?」

お饅頭を一口で頬張った彼が驚いた顔でこちらを覗く。彼の綺麗な髪の毛に反射した光が眩しくて、温かい。

「うん。ご縁があって継子にしてもらったの。師範と同じ呼吸を使っているわけではないのだけどね」
「俺はなんとなくそんな気がしてたかな」
「もう炭治郎くん。またそうやってクンクンして…」

甘いこし餡が口いっぱいに広がって、自然と笑顔が溢れた。少々残っていたあの苦い薬の味が浄化されていく。それでも、くすねてきたお饅頭を食べてしまったのは申し訳ないから、お見舞いにもらったカステラを後で渡しに行こうと思う。

「名前さんからは優しくて甘い匂いがするんだけど、凛とした匂いも混じってるんだ。初めて会った時から強い人なんだろうなって思ってたよ」
「すごい、匂いでそんなことがわかるんだね。すっごく買いかぶってるけど」

炭治郎くんの言葉に、私の隣にピッタリくっついて座る善逸くんがキラキラした目で私をみている。身体も小さくて何だか可愛い。

「名前ちゃん、こんなに細くて小さくて柔らかくて可愛いのに、継子になれるくらい強いだなんて………うん。もう、結婚しよう。それで俺を守って…」
「名前」

お花が飛びそうな猫なで声を遮るように聴こえた声は、まるで流れる水のように流暢で、美しく、とても寂しい。
耳の良い善逸くんや、鼻のきく炭治郎くんですら気配を感じ取ることができなかったようだった。
私だってこんなに驚いて、息をすることすら忘れている。

「冨岡さん!あぁ、やっぱり名前さんと知り合いなんですか?」
「………あぁ…」

炭治郎を一瞥した男は相変わらず無愛想な表情を貼り付け、1歩ずつゆっくり私たちのいる縁側へと歩みを進めた。
何度も夢にみた、その特徴的な羽織と、長い前髪に、吸い込まれてしまいそうな蒼い瞳。
この人に会いたかったのだと、全身の細胞が叫んでいる。


「無事でよかった。見舞いにこれずすまなかった」

頬に感じる暖かい温もりは、此処で眠っている間も、あの夜も、何度も感じて求めてやまなかったあの温度。夢の中ではこの手に導かれ、深海を抜け出すことができた。

「命を救ってくださったのに、謝らないでくださいよ。冨岡さん」

それに、私が眠りから覚めるまで、何度も足を運んでくれていたことも知っている。しのぶは気味悪がっていたけれど。

不器用に笑って見上げた彼は、ほんの少しだけ笑っていた。きっとその場にいたみんなが、そう確信できるくらいに優しく、善逸くんに負けないほどの暖かさで。


20201117

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