数時間前の己の行動を省みて、罅が入るほど壁を殴る。
「名前がまだ、隣の水族館にいる」
「っ!どうして…!」
「蘭さん達が来ていると連絡があったんだ。家に1人で居させてもどんな行動に出るかわからない。それに、君が此処にいると知ったら、」
「…坊やを探しに来るのは時間の問題だろうな」
自分の犠牲を厭わない性格だ、きっともうじき此処にやってくる。不覚、この小学生が来るなんて予想もしていなかった。キュラソーに顔が割れている彼女の命は自分と同じくらい危うい。
「兎に角、車軸が爆破でもされたらひとたまりもない。爆弾の解体は君に任せたよ、安室くん」
「っ、お前に指図されなくたってわかってる!それよりもコナン君、名前に連絡を」
「…さっきからしてるんだけど、繋がらなくて……」
こうなったら1秒でも早く奴等を出し抜かなくては。頭痛がする程五月蝿く脈打つ心臓は、もう随分前から、いつ止まっても可笑しくない。
ロマンを追い求めることと探偵の探究心に相通じるものがあるだとか言われたらあの小さな探偵をぶん殴ると決めていたが、まさか相手の方が危険を顧みなくなってしまうなんて。頼りなく手すりを掴んで歩む姿は、もう何かを知っているのか。
「ちょっと、あなた!どうしてこんなところに…っ!ひゃ…」
「哀ちゃんっ、」
自分の喜怒哀楽は大切なものをなくす度激しくなった。針金が弾かれたような声が無人のアトラクションに木霊し、手を伸ばした自分の身体が足の着地点を見失う。今しがた気付いたが、確かに少女と同じ目線で会話をしていた。
「しっかり掴まっててね」
「…お願いだから、そろそろ自分の身を案じてよ」
大切な友人の顔が歪んでいるのがよく見えた。この子の陽だまりのような笑顔が大好きなのに。キツく掴まれた手は微かに震えているし、とても冷たい。自分の代わりに彼女の携帯電話が暗闇に吸い込まれ、お釈迦になった。
自分の身体は二の次で、他人が傷つく事を恐れ許さない人間だ。彼女の優しさに助けられたのはこれで何度目か。この世の男を魅了する要因が見た目だけないことがよくわかる。一緒に銃弾の雨を浴びさせてしまったこともあった。
「ねえ、もしかしてみんな、まだこの中に…」
「貴方は毛利探偵のところに戻って」
先ほど遭遇した組織の裏切り者は、同じ髪色の男がここにきていると言っていた。彼等に顔が割れているこの少女がここに居るのはかなり都合が悪い。
「哀ちゃんでもそうする?私は逃げたくないよ」
今なら江戸川君の気持ちがよくわかる、もうこうなってしまったらこの子の衝動はきっと誰にも止められない。
「一緒に行こう、哀ちゃん」
「止められるのか?」
「わからない…でも、やらないと」
こんなに小さな少年に人質の救出を請うだなんて。日本警察の面子も丸潰れだが、今は彼にこの観覧車を任せて名前を探すことに集中すべきだ。
先ほど、風見から小学生がまだゴンドラに残っていると連絡をもらっていた。自身の嫌な予感は高確率で的中するし、そばにいて欲しくない時に限って、少女はひょっこり姿を表す。
少年を向かいのホイールへと受け渡せば、件の男がそちらで彼を待ち構えていた。金輪際絶対に助けを求めることはないと願うが、後は頼んだぞ、シルバーブレッド。
転がる観覧車は坂で加速し始める。行く手を阻む瓦礫を崩すたび、少女の苦しむ顔が脳裏に浮かんで離れなかった。
「まさかここまで馬鹿だったとはな…」
「さ、流石にその格好で出歩くのは……」
「組織も今はキュラソーの行方を追うのに手一杯だ、そう案ずるな」
長らく死人として生きていたせいか、この男は命を狙われることを人生のスパイスだとでも思っているのだろうか。鼻を鳴らしたFBI捜査官の手が頬に張られたガーゼを撫でる。未だ乾かない擦り傷がちくりと痛んだ。
「あの安室君に半べそをかかせることができるのはお前だけだろう」
「安室さんが…?」
「君が守った子供たちよりも情けない顔をしていたさ、あれは見ものだったよ」
哀ちゃんと向かったゴンドラの中で、私は子供達に降りかかる瓦礫を庇い、失血多量で気を失っていたらしい。遠ざかる意識の中で聞こえた彼の声は、確かに焦りと不安を孕んでいた。
「…大丈夫、ですよね」
「あぁ。一応の信頼は取り戻したようだが、暫くは四六時中組織の監視下だろう」
6時間ほど前にここを訪れた眼鏡とつり目が特徴的な男性は、暫く安室透との接触を控えるようにと忠告を残して行った。また、あの日の出来事を他言しないようにとも。その後やってきた自分と真反対の体の作りをしている姉と少年には、耳が潰れてしまうのではないかというくらいしつこく怒られた。恐らく私も当分派手な行動はできない。
日頃の運動不足や体力不足も相まってあの日から3日間眠り続けていたらしい私は、知らない間に30以上もの針で全身を縫われていた。確かに身体を動かすと色んな部分が悲鳴をあげる。
「まぁ、工藤邸の大学院生は暇なんでね。いつでも呼んでくれ、話し相手くらいにはなってやる」
「…盗聴されてたらどうするおつもりですか」
「君もなかなかFBIを舐めているな」
剥き出しの首筋に降ってきた薄い唇に目を瞑れば、甘ったるくこちらを覗くグリーンの瞳が揺れるから、私はそのまま目を閉じて再び微睡みの中へと逃げてしまう。
「名前。生きていて本当に良かった」
それはこっちのセリフ。貴方が無事で本当に良かった。
本当にここ数ヶ月で何度も命を落としかけ、その度に色々な人が私を救ってくれた。深夜の廊下に響くこの足音は、いつも自宅の階段を上ってくるそれと全く同じ音。すごく久しぶりに姿を見るような気がする。
「こんなところに来て、大丈夫なんですか」
「…起きていたんですね」
バツが悪そうな顔をして、いつも気安い男がそっと肩の側に腰を下ろす。まだ鏡を見ていないから自分がどんなに酷い顔をしているのか見当もつかないが、彼も相当大きな怪我を負っている。自分と同じ部分に大きなガーゼを貼り付けていた。
「その節は有難うございました。お陰様で、生きています」
「……」
「あ、あの、本当にここにいて大丈夫な…、んっ、!」
性急に奪われた言葉と息が男の体内へと消えてゆく。温かい。触れた手も唇も、切ないくらい、互いが生きてここに存在していることを実感する。
「……あ、むろさ…ん…、」
「もっと自分を大切にしろ」
キツく抱き締められ、軋む身体の感覚が妙に心地良い。私が動けないのをいいことに、何度も何度も彼の唇が降り注ぐ。苦しくなってトンと胸を叩けば、綺麗なグレイカラーの瞳に射抜かれ、今度こそそこから動けなくなってしまう。
「名前、愛してる。君のおかげで俺の世界には色が芽生えた」
突然の告白に応えるどころか、驚く間も与えてくれない、私が知らない自信も余裕も無い男。色んなものを一気に背負いすぎて、何処かに全てをおろしてきてしまったのではないか。
「……守れなくて本当にすまない。本当は傷一つつけるつもりもなかった」
大きな手が頬を撫でる。その手で何百人もの国民を守ってきたのだから、謝る道理なんてどこにも無いのに。
絆創膏だらけのその手を両手に取り、いまだに酸素を求めている口を小さく開く。切なく揺れたミルクティーブラウンの髪の毛からは、少しだけ硝煙のにおいがした。
「……とても優秀な警察官の、」
「…は?」
「部下の方がお見えになったんです。私を救ってくださった方のお話をして頂きました」
自分の危険を顧みず、しつこく私の命を守ってくれた。ゴンドラに彼が到着した時、彼が纏っていた白いTシャツは緋色に染色されていたと子供達から聞いている。
擦り減らした彼の神経がなくならないうちに、返せるものがあれば。夢の中ではもう、彼から何かを奪うのはやめてくれと神に願うことしかできなかった。
「貴方がいなかったら、私はきっと心臓がいくつあってもここにいません」
「、名前」
「頂いてばかりです。本当に、ありがとうございます」
緊張で震える両手を伸ばして、あの倉庫の時のように柔らかな髪の毛を手繰り寄せれば、彼の肩がびくりと跳ねる。恐る恐る顔を覗けば、よく知った自信家の表情が此方を伺っていたし、さっきまでのそれは演技だったようにも思える。こっちはものすごく勇気を振り絞ったのに。なんて恥ずかしい。
「〜っ、違うんです…ふるやさんが見えたら、頭を撫でてやってくれって、風見さんが…!」
「…………名前。もう一度言ってくれ」
口に手を当てた頃にはもう遅い。両手を白いシーツに縫い付けられ、答えるまでずっと激しく唇を啄ばまれた。きっとそのうち、首筋に咲いている真新しい紅にも、気付かれてしまう。
2019.06.02
安室さんと純黒05
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