今日は陽が落ちる前に帰れる、名前は安堵の息を吐いて机の脇に置かれた新作のブランドバッグを肩に掛けた。せっかく購入した鮮やかなブルーは未だに自宅とオフィスという狭い世界でしか生きることを許されていない、休日が潰れたのはこれで何度目か。
「哀ちゃん?ええ、ちょうど今終わったところなの。これから伺っても平気かな?」
数件の不在着信と留守電を無視して画面をタップした後、細かいノイズの奥で小学1年生にしては落ち着きすぎたソプラノが小さく頷いた。その声が少し震えているのは、ほどなくして聞こえてきた彼女の優秀すぎるボディガードの声から見当がつく。どんなに小さな犯罪も絶対に許さない少年が、盗聴やストーキングを行なっている彼を野放しにしていることさえ、甚だ滑稽な話だろう。日本人は海外から来た若者に情が移りやすい傾向がある。
「少し外の空気を吸いに行きましょうか。もちろん、送り迎えの車付き。如何ですか、マドモアゼル?」
いつから彼の癖が移ったのと鼻で笑われる事はもちろん予想していた。私たちの周りには何故か気障ったらしい言葉を並べる若者がたくさんいるから、結局彼女が誰を比喩してそう言っていたのか、理解することはできなかったけど。そして正直、それが誰であろうと、私はバカにされている。
犯罪に塗れたこの街が冷たい夜風に包まれてしまう前に女は2丁目までの道を急いだ。
「フサエブランドの新作……」
「哀ちゃんが好きそうだなぁって思って買っちゃった。あ、でも、小学1年生が持つには早いかな?」
さっきのお返しとばかりに口端を上げれば、すっかり目を細められてしまった。クスクス笑っていると彼女は遂に上着を羽織ろうとするものだから、これはいよいよ本題に入らずにはいられない。
「博士はなんて?」
「すぐには特定できないそうよ。やっぱり警察に頼んだ方が…って」
「…そう……」
窓に映った、普段の気丈な姿からは想像もできないほど情けない女の表情に、少女の眉も下がる。小さく狭いこの都も、今は宇宙のように広く感じられる。自分たちがどれだけちっぽけな存在か思い知り、孤独と恐怖は消える術を忘れてしまった。彼女の前に置かれたカフェラッテはすっかりツヤをなくしている。
「…ねぇ、工藤君に相談してみたら?博士と私がコソコソやっていてもいずれバレるわよ」
「コナン君に私がこんなことで怯えてるなんて知られたくない…」
「あなたねぇ……」
何かあったらすぐに連絡しろという彼女のテンプレは、いざ自分の事となると戯言になってしまう。こうして自分を犠牲にする癖のある大人を、哀は何人も知っていた。今でも心の底から愛してやまない空の上の血縁者がそうだった。少女は女の分かりきった返事を耳に取り込む前に、バッヂの電源をONに切り替えた。時間からしてきっと、目当ての彼しか起きていないはず。
「いやあ、名前さん!お久しぶりですなぁ。相変わらずお綺麗だ…!」
「ご無沙汰しております毛利先生。先生も相変わらずお元気そうで…」
鼻の下を伸ばしていたアホ面からは一変、顎の下で両手を組み、険しい表情で毛利小五郎は名前の話に耳を傾けた。もちろん"名探偵"は私の隣に腰をかけ、年齢には相応しくない表情でこちらを見上げている。数日前にこうなるきっかけを作ってくれた少女にはたっぷり灸を据えたが、本当に、彼にはこの話を聞かれたくなかった。
数ヶ月前から、私の平和すぎる生活が姿を消した。部屋に響き続ける着信音は何度無視を続けてもまるで部屋にいるということを知っているかのように徐々にその音が大きくなっているような気さえしていた。
『名前。キミの髪は短い方が似合うよ、すぐにでも僕が切ってあげる』
このセリフは何度目になるかわからない。ドラマで聞いたことのある加工された声。昨日は着ていた服、一昨日はあのバッグについて指摘された。
プツリという機械音と同時に、家のポストに何かが投函される音。紙でないことは確かだ、かなり甲高い音が部屋に響いた。嫌な汗が額に滲む。
恐る恐る覗いたそこには、工作用のハサミがあった。触らなくともわかるほどベタついたものが纏わり付いている。その液体が何なのか、知りたいだなんて一生かけても思えない。
いつも見てる、そう脅されてるような気分になっては、ベッドの中で小さく身を潜めた。目を瞑っても、脳裏にはあの嫌な声が蘇る。そして数時間後には絶望しながら布団を出るのだ、今日もまた、一睡もできずに朝を迎えた。
「なるほど、ストーカーですか」
ある程度の事情を話し終えると、娘の蘭がお茶をテーブルに並べてくれた。苦しげな表情はきっと私の話に同情してくれているのだろう。年頃の同性には身近で怖すぎる話題だ。
「今のところ、大きな被害はないので警察にも取り合ってもらえなさそうですし…」
「相手に心当たりは?」
「ありません。知人との連絡は概ね携帯電話でとっているので、どうして自宅の電話番号まで知られているのか……」
自分で言ったセリフに鳥肌が止まらなくなった。誤魔化すように手に取ったお茶も味がわからないし、正直手はカタカタ震えていた。
「…名前ねーちゃん。後をつけられたりしたことはないの?」
少年の鋭い視線が突き刺さる。すかさず毛利小五郎が少年を咎めるが、私は彼の方が優秀な探偵だということを知っている。
「少なくとも、気配は感じたことないかな。気付いてないだけかもしれないけど…」
「僕、名前ねーちゃんのおうち行ってみたいなぁ!ねぇ、小五郎のおじさんもそう思うでしょ?」
少年をじっくりと睨んだ後、小五郎は少年の話に賛同し、名前の自宅を赴きたいと言った。何か手がかりが見つかるかもしれない、と。
元よりあの家に1人で帰るつもりはなかったので、こうなってくれてよかったと名前は息を吐く。
善は急げだ、と立ち上がる小五郎に蘭が細々と声を挟んだ。どうやら小五郎には先約があったらしく、彼はそのことを忘れてしまっていたようだ。
「すみません、名前さん…ご自宅に伺うのはまた後日改めて…」
「こちらこそ、ご予定が控えてらっしゃるところをお邪魔してすみません。またご都合の良い日にお願いいたしーー
「そのお話、僕が毛利先生に変わってお引き受けしてもよろしいでしょうか」
突然鼓膜を揺らしたマイルドな男の声に名前の心臓は嫌な音を立てた。普段の人好きのする表情はすっかり抜け落ち、両手を空にしてドアの前に立つ彼は、真っ直ぐに私を見つめている。例の少年にこのことを知られたくなかったというのも、結局はこの非常に目立つ容姿の探偵の耳に入ることが嫌だったという件に繋がっていた。
「また今日も電話があるかもしれません。それに、もしかしたら今日襲われる可能性だってある」
ここの1階でのアルバイトを終えたところだと話す男は、平気で仕事を投げ出して探偵業に勤しむ癖があるし、息をするように嘘を吐くから、すんなり信じることはできなかった。何ならここにあの大学院生のように様々なトラップを仕掛けている可能性だって疑える。
もっと自分の身体を大切にしろ
いつだったか、彼と同じ容姿の男が告げた言葉を名前は脳裏に思い返していた。
どうしてもついて行くと言って聞かなかった小学生を間に挟んで、3人は名前のマンションまでの道のりをゆっくり歩いた。道中、探偵2人からの質問に答えるだけで名前は拳を握りしめ、殆ど俯いていた。
「電話が掛かってくる時間に一貫性はありましたか?」
安室は前を向いたまま名前に問う。2人の間に漂う微妙な空気に、コナンは眉をひそめた。
「殆ど私の帰宅時間、です…最近は残業の日もあったので、時間はまちまち……」
どうしても知られたくなかった男に、どうしても知られたくないことを知られてしまった。哀ちゃんに言えばきっと、隠し事は探偵に通用しないと一蹴されてしまうのだろう。
顎の下に充てがわれた右手。探偵や警察は、考え込む時の癖があることを自分自身で理解できていない。
「ここの4階です。オートロックなので、外部の人が入ってくるのは難しいと思います」
マンションの下に着いた途端、小さな探偵がものすごい表情で後ろを振り返った。同時にエントランスに入ってきた顔見知りの隣人に、名前は安堵の色を見せる。
「こんばんは、山中さん」
「あ…...こんばんは」
ガチャリとロックが開く音がして、山中さんはB棟の方へと歩みを進めてしまった。AとBの棟が向かい合うように立っているこのマンションは中庭で繋がっている。ちなみに私の部屋はA棟だ。
マンションの中に入ると、コナンと安室は監視カメラの位置を確認しながらエレベーターへと乗り込んだ。ここに来るまでにも何人かの隣人と会釈を交わした。
「先ほどすれ違った方はお知り合いですか?」
「たしか山中さん、って言ってたよね」
「ごみ収集所で、よくお会いするんです。前に風で飛んでいってしまった服を拾ってくださったこともあって」
「…そうですか」
部屋に入るなり、コナンは真っ先に部屋の間取りを確認した。リビングの奥に広がる大きな窓からはA棟と同じデザインの建物が平行に佇んでいるのが見える。
「名前ねーちゃん、最近ベランダに出た?」
「ううん。なんだか外から見られてるような気がして……ここ1ヶ月カーテンすら開けられなかったの」
「ふぅん……」
白を基調としたカーテンの中に小さな探偵が入っていく。憂鬱の元凶である男も、キッチンや洗面所まで捜査の手を広げていた。手には何やら高そうな機械を握っている。
カチッという音とともに湯が沸いた。この少年がジュースよりコーヒーを好んで嗜むことを知っているので3人分の用意ができると、懐かしい足音が自分の後ろでピタリと止まった。
「…名前……、さん…。このマンションには最近越されて来たのですか?」
また処分されてないダンボールがいくつかあったのでと続ける彼の瞳が少し揺らいでいたように見えたのは錯覚か。聞き覚えのある響き、呼び名に心が震える。きっと、それが声に出てしまったことに彼は気付いているだろう。
「っ、えぇ。2.3ヶ月ほど前です。こっちに来てから、例の電話が鳴り始めて…」
「なるほど…」
ガチャリと奥から窓が開かれる音が聞こえる。久しぶりに部屋の中を吹き渡った空気は、少し生暖かくて季節の経過が早いことを思い知る。これで彼がいなくなって何度目の冬が終わったのか、随分前に数えることを諦めてしまった。
「ふる、やさ……」
「僕の名前は安室です」
この掛け合いが二度目であることを彼は覚えているだろうか。初めて会った時、貴方はふるやと呟いた私を制するように初めましてを言った。彼と同じ顔、同じ声、同じ匂いで。
「…僕が解決して貴方を守ります。絶対に…必ず」
本当に息をするように嘘を吐く男だった。それなのに、彼の方が私よりも切ない顔をしているから、いつもみたいに自信満々で、ムカつくくらい嘘っぽい笑顔で言ってよなんて可愛げのない言葉は何処かへ消えてしまって、コクリと頷くことしかできなかった。
ゴツゴツとした男の指が、春の夜風とともに名前の頬へと伸びる。流れに身を任せてしまっている私は未だに彼をあの人と重ねているし、彼の言葉が嘘でないと信じてやまなかった。
2018.03.05
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