安室さんと純黒その2

頬を掠めた、しっとりふっくらしたこの感触は身に覚えがあるし、鼻孔を擽ぐる優しい匂いだってあの人特有のものだと知っている。宙を浮かんでいた意識がその感覚に導かれて地へと足をつけた。

数年前に紹介されたLAの病院を共に訪れてくれたのは当時刑事として寝る間さえ惜しんでいた父でもなく、弁護士として名を連ね始めていた母でもなかった。

「あーん!もう、名前ちゃん!新ちゃんの手、離しちゃダメって言ってるじゃないっ」
「ねえ新ちゃんママ。私、1人でも十分歩けるよ?」

LAでの治療を終え、NYへと旅立った1週間で正直一生分の恐い体験をしたと思っていたけど、わたしの人生はどうやら波乱の上に存在していたらしい。日本に帰ってきてからもたくさんの事件やら事故やらに巻き込まれた。

「この辺りは通り魔が出るって噂なのよ!だから、新ちゃんの手握ってなさい?名前ちゃん、目を離すとすーぐどっか行っちゃうんだから…」
「通り魔…」

別に意図して何処かに行っているわけでは無い。私の方向感覚が壊滅的に機能しないだけだと、誰に何度言っても認めてもらえなかった。唯一、どんな時だって私を理解してくれた新ちゃんは迷った私を見つけてくれる名探偵。あの時の事件だって私の方向音痴が招いたことだと思っている。

「こんなところで何してるお嬢ちゃん」

銀髪、長髪、日本人
その特徴を捉えただけで、身体の奥底から震え上がったことは言うまでもないのに、向けられた拳銃に思わず腰を抜かした。日本でも遭遇したことのない通り魔事件。世界規模となると、殺人を犯す人間の動機さえさっぱり分からないものになってしまう。

「お前はこんなところに居てはいけない存在だ」

14年間生きてきてこんなに心臓が早く脈を打ったことは無かった。あわあわと口を魚のように動かすことしかできない私を一瞥した男が目の前に腰を下ろす。この時の私には、なぜこの男が私を知ったように話しているかなんて気づくこともできなかったし、降り続く雨に混じって鼻につく血の匂いに意識が遠のいてしまいそうだった。

「…隣のビルにお前の連れがいるはずだ。FBIがお前を誤射する可能性だってある、音を立てずに向かえ」
「あ、あのっ、」

その血臭が目の前の人間から放たれているものだと気付いた頃には、私の震える手がその人へと伸び始めていた。警察官の父や好奇心旺盛な幼馴染のために、主治医や看護師に聞いた止血の方法がこんなところで役に立つなんて。結末を知っていたら、あの時の私はきっとこれを教わることをしなかった。

「分かっているのか?俺は今NYを騒がす通り魔だぞ」
「けが人なことにかわりはないでしょう」

舞台で震える私の手を握ってくれたあの人と同じ体温。それから特有の安心する香りが鼻を掠める。
そう、本当にあの時と同じように。とっても綺麗にお化粧が施された瞳が今もこちらに向けられている。

「…ハァイ。気分はどうかしら?眠り姫」
「………べる、もっと……」

身体が鉛のように重たくて、どうにも上手く動かすことができない。
記憶を辿ろうにも、東京の大海原へと沈んでいったところでフェードアウトしてしまったから、自分が生きていることが信じられない。何故あなたがわたしを、あのカーチェイスには誰がなにが関係しているの、新ちゃん…コナン君から連絡は、それに安室さんは。聞きたいことが山ほどあるのにどうしてこうもタイミング悪く風邪を引くのかこの身体は。

「暫くバーボンとの接触は控えた方がいいわ。彼、組織に潜り込んでるスパイだと疑われているから」
「...あむろさん、が…?」
「それにしても貴方って本当に不運に巻き込まれることが多いわね」

首都高での壮絶な鬼ごっこの最中に見たあの人は、わたしの全く知らない人だった。あんな怖い顔、いつものあの人からなんて想像もつかない。彼はいつも人好きのする笑顔を浮かべ周りと歩調を合わせているから。

「…ねぇ、わたしのそばに、銀髪、のおんなのひ、と……」

目を見開いたベルモットを視界に捉えた瞬間、わたしの意識は再び微睡みの中へと沈んでしまった。起きたらきっと、また呆れた声を上げられてしまうのだろう。それでも彼女は美しい。



* * * *




本当にあの天使のような彼女の事になるとこの高校生探偵は信じられないほど周りが見えなくなってしまう。子供達が新しくできた水族館に行こうとずっと前から決まっていた今日を楽しみにして居たというのに、本当に1発ぶん殴ってやりたいくらい情けない顔をして、定まっているかもわからない瞳を車窓から空へと向けている。

「…子供たちにまで心配させるような表情はやめなさい。そろそろ気付かれるわよ」
「…ん、あぁ………」

今度は一体どうしたというのか。彼女がラブレターを貰って帰ってる事は日常茶飯事で、それをこの男に隠している事は知っていた。それがとうとうバレてしまったのか、または例の喫茶店の店員と何かあったのか。おそらく後者が有力な説だろうと灰原哀は腕と脚を組んで口角を上げていた。常に自信に満ち溢れているこの探偵を唯一無条件に困らせることの出来る少女が最近更に美しくなってきた事に、同年代の自分が気付かないわけもない。しかしあの浅黒い男に好意を寄せているのならば彼女の趣味はどうかしている。自分ならあんな危険な男は絶対に選ばない。

「なぁ灰原…」
「なに」

隣でお菓子の取り合いをしている子供たちには聞こえることのないような細い声で、彼は言う。自分を命懸けで助けてくれた彼女を。お姉ちゃんのように優しすぎる彼女を。絶対に死なせないでと、何度もこの男に伝えてきた。

「昨日から名前が帰ってこないんだ、夕べの首都高での事故が関わってる可能性があるかもしれない」

今朝、嫌という程観たあの事故のニュースを今すぐに何度だって観てやりたい。噛み締められた唇が情報の希薄さを物語っていてどうしても遣る瀬無い気持ちでいっぱいになった。ねえ貴方、今どこでなにをしてるの。既読にならないメッセージが恨めしくて仕方なくなった。





* * * *






「私がいたらきっと足手纏いになります」
「いいからついて来なさい。その体調で1人にさせておくにはわたしの心が痛むわ」

貴方の口からそんな言葉が出てくるなんて
バーボンが聞いていたらきっとそう言ったであろう優しい言葉を投げかけたベルモットに抱き締められた名前は右目をキュッと瞑った。
あの後、次に目が覚めた時には信じられないほど広いホテルのスイートルームのベッドの中だった。私が出会った銀髪の女性はベルモットが探している女の人と同一人物らしくこのまま私を家に帰すことはできないらしい。大事な証人でしょう?と唇を撫ぜられたのだって記憶に新しい。彼女が私を愛してくれるように私もベルモットのことが大好きなので、頷かない選択肢はなかった。

てっきり彼女が所属する組織に連れて行かれるかと力んでいたから、ドライブの果てに到着したのが最近オープンしたと言う複合施設だったので拍子抜けした。ここには今日、子供達が博士に連れて来てもらうと新ちゃんが言っていた。

「心配いらないわ。すぐに見つけて貴方をお家まで送ってあげるから。帰りたくないって言うならこのまま私が連れ去ってもいいのよ?」

そんなにすぐには家に帰れる気がしないし、追いかけて来たあの人の体温が今はものすごく恋しくて愛しい。東京湾に沈んでしまったであろう私のスマホには、きっと沢山の人から連絡が来ているのだろうと、どこか遠い意識の中で他人事のように考えている自分がいた。

20171001
安室さんと純黒02

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