重たい身体を浮び上らせようと藻掻いてもそれは叶わず、脳はぐるりと回っている。
「ダメですよ。安静にして居てください」
鉛のような肢体を何とか起こしたというのに、再び男の手によってゆるりとスプリングへ沈んだ。
身体が溶けてしまいそうなほど熱いのに、どこからか酷い寒気が襲ってきているような気がする。
酸素を求めて空気を吸い込めば、最近嗅ぎ慣れた男の匂いが自分を包んだ。小さく吐き出された息が頸を掠める。私が目を覚ましたことに酷く安堵したらしい。
「また、ごめいわくを……」
「貴方にかけられる迷惑なんてこの世に存在しません。寧ろ、もっと頼って欲しい」
困ったように謝る少女の赤い頬が愛おしくてたまらない。水の膜を張った瞳が宙を彷徨ってから自分だけを写している。
毛利探偵が長女と居候の少年を連れて長野へと旅立ったのは半日前。何も今回の依頼が長野県警からの案件で、直々に迎えがあったそう。体調不良から留守番を買って出た少女は寂しい表情をひとつも見せずに家族を見送った。
『娘に何かあったら頼んだぞ、安室』
彼女の性格上、自分からこちらに助けを求めるなんてことはまずあり得ない。休憩中に作った名前の夕食用のパスタは揚々と湯気を立てて、まるで自分の分身のように彼女の元へ届けられるのを嬉しそうに待っていた。
軽い足取りで駆け上った3階のドアを2回ノック。部屋着姿を観れるかもしれないだなんて中学男子のような思考は止められず、浮き立たずにはいられない。しかし、あの小さな足音は、此方を焦らすかのように一向に出て来る気配を感じさせなかった。痺れを切らしてノブを回すとそれは音を立てて自分を無機質に招く。頭によぎる最悪の展開に脚が竦む思いだったが、第2の嫌な予想が的中した。まるで死体愛好家の殺人現場のような光景だったなんて不謹慎なことを思わせるほど、倒れてる姿さえもが絵になる女。
行き場をなくしたスパゲティの温度が低下するとともに、彼女の顔色が悪くなる。なぜもっと早く様子をみにこなかった。
「一応おかゆを作ったのですが、食べられますか」
「本当にありがとうございます。あとでいただきますから、安室さんは、」
「お言葉ですが、今の貴方1人で身の周りの支度をできるとは到底思えない」
頭部を大きな体温に触れられたと思えば、水を持ってきますという言葉を残して男が部屋を出て行く。その柔らかい表情はいつかのミステリートレインで見た彼とはまるで別人。もしかしたら、本当に全くの別人だったのかもしれない。殺し屋のような顔をしていたから。
「起き上がれなかったら口移しでも」
「だいじょうぶ、おきれます」
そろそろ部屋中に盗聴器を仕掛けた少年が血相を変えて戻ってきてしまう気がする。
一階の喫茶店に戻った男は、高まる鼓動を抑える術をすっかり頭から欠落させていた。埋め込むかのように自分の腕の中にすっぽり収まる彼女の寝顔を刷り込ませれば、年相応の変態気質な中年の完成。見た目でカバーできるかどうかも怪しいし、少女の前だけでは偽物を装って接することが非常に難しい。
熱によって顔を紅潮させた少女の破壊力は想像以上だった。彼女という存在が凶器になって降りかかってくるのだから、自分はどう足掻いたって逃れることができない。あと1秒でも長く触れていたら何もかもを捨て去っていた。
「名前さん、ご気分は……」
色を失った顔は息をしているのか否かもわからないほど真っ白。それなのにこの世のどんな花よりも美しく眠る少女の存在が酷く幻想的で、暫く我を忘れるくらいには目を離すことができなかった。
絹のような長い髪を辿って頬に触れれば、長い睫毛が2回上下する。薄く開かれたとろ目がこちらを向くのにそんなに時間はかからなかった。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「いえ……」
あなたがのぼってくるおとがしたから
鈴のなるような声色でそんなことを言うものだから、愛しさを抑えることができず、衝動的に少女の身体をがむしゃらに抱き寄せた。以前見た時よりもまた肩が薄くなった気がする。これ以上どこに落ちる肉があると言うのか、彼女は根本的に身体の作りを変えていく必要があると出会った時から思っていた。
「名前」
「はい」
「……名前...」
彼女なんとも思慮深く、関わる人間を真正面から受け入れる。それが自分にだけでないということをわかっていても嬉しさは抑えきれない。恋愛関係にあるわけではない男がいきなり抱きついてきたというのに、ここまで拒否されることがないだなんて。自分にだけこうであってほしいが、そうでないことはここ最近の付き合いからでもよくわかっていた。工藤邸に住む大学院生とも仲がいいらしい。
「どうしようもないほど、貴方が愛おしい」
「……あむっ、ん、」
「キスをする時は目を閉じるんですよ」
本性が姿を現して、小さな唇を奪う。ひゅっと彼女の中に吸われた酸素でさえ、余すことなく自分のものにしたい。一瞬で離れたそれは外国人の挨拶と変わりなかったが、少女の頬を染めるには充分だった様子。
「あ、あむろさんといると、わたし、ぜったいに熱が下がらないです…」
ふらふらと後ろに倒れた上体は透かさず支えた。瞬時に目に入った鎖骨に吸い付いたのだけは見逃して貰うとして、これで父の優秀な弟子というポジションからは脱出できただろう。
彼女の白い身体の中で、頬と首筋だけが紅く映えている。少々やりすぎた気がしなくもないが、階段を駆け上がるあの怪力スニーカーの音からして、どうやら反省する必要があるらしい。
20170824
安室さんと熱が上がる日
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