それを諦めることができない私は愚か者でしょうか


「名前ーー…」

その名を呼んで、ハッと我に返った。
静まり返った、大人1人が暮らすには少し広すぎるマンションの一室。綺麗に整頓されたその部屋で一際目立つのは、空っぽのベッドの上にだらしなく脱ぎ捨てられた男物のスウェット。そう、彼女を追い出したあの日からなんら変わらないその光景。
息を吸う。彼女の匂いはもうそこにはない。虚無感に苛まれ、彼女の面影を手繰り寄せるかのようにスプリングを鳴らして顔を埋めるが、もうあの日から2ヶ月という月日が経った今、残るのは自分の頭の中の、彼女のあの切なげな表情だけ。


「別れて欲しいんだ」


まるで日常会話をするような口ぶりだったが、それに対して有無を言わせないような威厳があったと思う。彼女が首を縦に振るしかないよう、自分でも驚くほど冷たい声で放った言葉。

「できれば明日中に出ていってくれ。俺は今日、何処かに泊まるから」

名前に目もくれてやらず、彼女の中で自分という存在が最低な男だという位置づけになればいいと願って、その時にはよく考えて行動したつもりだった。彼女は素直に納得してくれるだろうか。嫌だと首を振って泣き出すだろうか。それとも、それともーー。
自分から放った言葉に対して、心臓がばくばくと大きな音を立てていた。もしかしたら自分は取り返しのつかない、もう彼女と関わることを生涯許されないことを言ってしまったのではないかと、この時になってようやく気がついたのだ。
妙な緊張に蝕まれているこちらのことなど露知らずか、彼女の返事は予想もしないほど凍りついたような冷たい言葉だった。

「平気よ。そんなに荷物もないし。すぐに出て行くから」

大好きだった彼女の笑顔はそこに1ミリもない。ただ真意を読み取れない、そんな表情で俺と一度も目を合わせずに、決して数少ないとは言えぬ荷物を抱え、ものの数分でこの部屋を出ていった。彼女の心をも閉ざすようにガチャリと鳴ったあの扉の音が脳にこびりついて離れない。自分が望んだはずの結果なのに、どこか納得できず、彼女が嫌だと泣いて戻ってきてくれるのではないかと少しだけ期待していた都合のいい自分が、そこには確かに存在していた。

「名前……」

彼女を失くすことは、亡くすことに比べれば軽いものだと、堅い決意のもと行動したはずだった。自分の身分のせいで彼女の命が危険に晒されるだなんて真っ平御免だし、まず、そんなことを考えたくもなかった。それは今もなお変わらない。しかしここまで自分の中で彼女の存在が大きかったことに、今更気がついてしまった。家の中だけではない。街に出れば彼女の面影ばかりを探し求めている。あの髪の長さは名前くらいか、あの靴は名前が持っていた、あの服装は、あの笑顔は、あの後ろ姿は。全てを"記憶"の彼女に重ね合わせ、あわよくばを望んでいたのだ。

「馬鹿か…俺は、今やるべきことを……」

深く息を吐く。何故今になって彼女に伝えたい言葉がゴロゴロと産まれてくるのだろうか。今更、全部遅すぎるのに。

「零、ただいま」

それなのに、いつかあの扉からきみが優しい笑顔で戻ってきてくれることを願っている。
変わらない、君への気持ちが自分の中にあるかのように、俺は俺の拠点を彼女の記憶に残してしまった。いつだって君が俺の隣に戻って来られるように、ここを引き払うことができず、燻っている。名前の笑顔が見たい。名前の体温に触れたい。名前の声が聞きたい。奴らを潰すまで、そんなことは絶対にあり得ないと、わかっている。わかっているのにーー。


短編「それを諦めることができない私は愚か者でしょうか」
2017.03.03

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