明日のことは明日考えるって約束するから


「また寝てないんでしょ?零」

ポンと肩に置かれた白く小さな手。直後に感じた右頬の温度と彼女独特の声色に、張っていた肩の力ががくりと抜ける。

「名前…」

差し出された缶を受け取ると、彼女は自分の隣のデスクの前へと座った。少し冷めた彼女独特の笑顔を見るのは何年ぶりだろう。懐かしさからなのか、特別な感情があるからなのか。ただ言えるのは、手の中の缶コーヒーから伝わる温度よりも高い熱が、自分の中に湧き上がったということ。

「酷い隈。それにそのボサボサの頭は、軽く3徹ってところかしら?」
「…ご明察。生憎、どっかの誰かみたいに潜入だけやってればいいってわけじゃないんでね」
「ははっ、あんたって本当嫌な人間だよね」

お前がそうさせたんだろ。歯の裏をノックした言葉を寸前のところで飲み込んで彼女の顔を睨みつける。それに気付いた彼女が、申し訳なさそうに眉を下げて笑う事はわかっていた。

「私のせい、って言いたいんでしょう?」
「…自覚はあるんだな」
「書いてあるもん。零の顔に」

触れられた。頬を。
指先でなぞられた、たったそれだけなのに、相手が彼女だというだけでこんなにも身体が熱を帯びてしまう。順応な身体が悔しくてたまらないが、なんせ俺は3日も寝ていないのだ。そんな精神状態の中で彼女に会って仕舞えばそれはもう…
ーー疲れているだけだ…落ち着け、
言い聞かせるように息を吐いて、ようやく彼女と視線を合わせることができた。その暗い瞳の中に、彼女は何を隠しているのだろうか。

「どうなんだ、そっちは」
「普通だよ。大した動きもないし」
「…右の髪……」
「え?」

大きな瞳をこちらに向け、きょとんとした表情を浮かべた彼女。普段は物騒な言葉が飛び交い、事件に追われた刑事で忙しないこの部屋が、こんなに静かだと思ったことがこれまでにあっただろうか。名前と話をするなんて、本当に久しぶり。正直、今でも夢見心地だった。同じ組織に潜入しているとはいえ、2年も前から潜入を始めた彼女と、最近漸く潜入に成功した末端の自分が同じ仕事をさせてもらえるはずもないし、行動を共にするわけもない。たまに組織内の風の噂で彼女が組織から厚い信頼を得ているということは聞いていたが、実際にその姿を見ることができたのは3年ぶりだった。

「お前は嘘をつく時、必ず右耳に髪を掛ける。あの時から変わってないな」
「うっそ、ほんと?」
「元気がないときは少し声を張る…それもお前の癖だよ」
「……ほーんと、零には敵わないなぁ…」

切なく微笑んだ彼女はやはり最後に見た時よりも窶れた気がする。警察学校時代の頃から元気で、優しくて、おまけに誰に対しても平等で、気の利く女だった。自分が辛い訓練に挫けそうになったときも、彼女の笑顔を見て、声を聞くだけで、まだ頑張れると自分に喝を入れることができたのだ。もちろん卒業するまでそんなことは口にしなかったけど、好きだった彼女と同じ部署に配属されることが決まった時、彼女に気持ちを伝え、晴れて恋人になることができた。夢だった公安警察として日本の平和を守ることができ、愛しい女が側にいてくれる。この幸せを必ず守り抜いて、互いを高めあいながら頑張ろうと決めたはずだった。しかし、公安の女刑事というのは非常に貴重な資本だ。就任初日から、彼女は俺たち同期とは別行動をしていた。否、上司にそうさせられたと言った方が正しいだろう。初めて秘密裏に現場に赴いた時も、初めて潜入捜査を任された時も、彼女は俺に相談もなしに動いていたし、それを後から知らせてくれることもなかった。そんな彼女にジェラシーを感じていたし、正直なところ寂しささえも感じていた。それを言葉にすることはなかったが、やはりどこかで同期に先を、ましてや好きな女に先を行かれることが、1人置いていかれているような気がして心細かったのだ。そんなすれ違いが幾度か重なったところで、彼女が俺に別れを切り出した。今のように右耳に髪の毛を掛けながら、「他に好きな男ができた」と。もちろん、彼女が嘘を言っていることはわかっていたからそれなりの理由があるのだろうと、何度も何度も自分に言い聞かせて、今までこうして生活を続けてきた。今思えば、そんな彼女に、嘘まみれの別れ台詞を言われたことが悔しくて、動揺したところを見せたくなかったという意地があったのだろう。

「…何かあったのか、とは聞かない。お前が聞いて欲しくて来たのなら別だけど。そうじゃないんだろ?」
「……勘違い、だったみたい…」
「え?」

俯き、ぼそりと彼女の口から溢れた言葉は、どんどん切なさを帯びて行く。ついに彼女は、その瞳から大粒の雫を零し始めた。初めてみる、彼女の弱々しい姿。何があっても自分を、自分たちを支えてくれていた彼女が、こんなにも辛そうな表情を浮かべるだなんて。ゴクリと固唾を飲んだ音がやけに大きく身体に響く。

「…零のこと。あの時とちっとも変わらないなあ、なんて思ったけど…変わったね。頼もしくなったし、いい男になった」
「名前……」

きっと、3年前の俺だったら、今までが頼りなかったような言い方だな、なんてつまらない文句の1つや2つを並べ、遇らっていただろう。しかし、今の自分はあの時とはわけが違う。足が、身体が。勝手に彼女の方へと歩みだした。今まで封印していた気持ちが、凄まじいスピードで溢れ出してゆく。愛おしい。今すぐこの腕で彼女を掻き抱いて、愛していると伝えたい。全てを投げ出して、自分の懐に入れと、伝えたいのに。

「零」

聞いたこともないような低い声で名を呼ばれ、腕を伸ばしたところで全身が硬直した。同時に冷たい機械が自分の左胸に充てられる。独特の金属音が、まさかという自分の思考を否定する。ここまで冷静な自分がいることに、自分自身が1番驚いていた。

「…組織がね、新入りにネズミがいるって疑っているの。今私が貴方を殺せば…分かるでしょう?私達はもっと組織の中枢に近づける」
「………」

銃口が、冷たく笑った。そっと目を閉じて息を吐く。1mmも動かない俺に、彼女がくっ、と歯を食いしばったような気がした。

「どうして何も言わないの…?」
「…いや、お前に殺されるなら、本望だと思ってさ」
「っ、なんで…!バカじゃないの?!貴方、この状況がわかってないの?!」
「名前」

肩に触れる。ガクガクと震え上がっている彼女のその姿を見れば、何処まで彼女が追い詰められているかなんて、容易に理解できた。先ほどまで止まっていた涙は、再び栓が外れたかのようにボロボロと零れ落ちて彼女の白いシャツを濡らしてゆく。何度も、何度も存在を確かめるように彼女の名前を呼んで、小さな体を抱き締めた。子供のように声を上げて泣く彼女が右手に握っていたそれを床に転がす音が聞こえて更に強い力で抱き締める。同時に自分の背中へと回された腕。途切れ途切れに聞こえるのは、彼女が自分の名を呼ぶ張り裂けそうな声。

いやだ、やめたい、にげだしたい

そんな感情を乗せ、彼女が俺の名前を呼んでいる。確証はなかったけど、俺にはそう聞こえてやまなかった。彼女をここまで苦しめた組織に憎しみが込み上げると同時に、必ず自分の手で潰してみせると、彼女の胸へと語り掛ける。それが伝わったのか、名前の腕に込められる力が強くなった。

「れ、い…っ、わたしもっと、もっとがんばる…だけど…だけどっ、」
「大丈夫」
「っ、」

潜入を始めてわかった。彼女が自分から遠ざかった訳が。彼女が嘘を吐いた訳が。漸くわかった気がする。もちろん、バレた時のことを考えて俺に被害が及ばないようにするという理由もあっただろう。でもきっと1番の要因は…

「お前は一人じゃない。フォローをするために…お前を支えるために、俺が一緒に潜入するんだ。安心しろ」
「…零……」

怖かったのだろう。気を許した人間に、不安や恐怖を口にしてしまうことが。
側にいてくれる人間がいるという安心感を得て、それを失った時のことを考えてしまうことが。彼女はきっと怖くて堪らなかったのだ。

「抱え込むな、俺がいることを忘れるな。前にも言っただろ、一緒に頑張るって」

コクコクと頷く名前の顔を両手で包んで上に向けさせる。ボロボロな精神を象徴するかのように崩れた顔が痛々しい反面ーー

「名前、好きだ」
「ーーっ、」

愛おしくて堪らなかった。
彼女は眉をこれでもかと言うほど下げて、顔をぐしゃぐしゃに顰めながら涙を流した。見たことのないその泣き顔に戸惑うことはない。彼女の人間らしい一面をまた一つ知ることができて、不謹慎にも嬉しさを感じていた。

「あの時からずっと変わらない。もう二度と離さないって、約束する」
「れい…零、わたし、」
「名前」

雫の通った痕跡をそっと指で拭えば、どちらとも無く重なる視線。その大きな瞳いっぱいに自分が写っていること、やっぱり自分は夢を見ているのだろうかと、ちょっとだけ不安になった。

「…やっぱり、零がいないとダメ、なのかも」

彼女は悔しそうに、それでいて綺麗に笑っていた。そんなの俺だって一緒だよ。言いたかったその言葉を唇にのせ、それをそっと彼女の小さな唇へと重ねた。名残惜しく離れた途端、彼女がキュッと俺を引き寄せ、再びそれは重なる。会えなかった時間を埋めるようなその行為に、何故か自分も泣きたくなった。

「もう早まるようなことはするな。お前のこと、守ってやれなくなる」

首が外れてしまうのではないかと言うくらい、何度も何度も頷こうとする名前の頭を後ろから手で抑え、キスを続けた。角度を重ねる度に頬に着く雫は、どちらのものかさえ判断できない。その頃にはもう、何日も寝ていないことなんて、頭の中から吹っ飛んで忘れていた。
今日はこのまま一緒に帰って、この小さな身体を抱きしめながら眠りにつきたい。それくらいのことをしても、罰は当たらないだろう。



短編「明日のことは明日考えるって約束するから」
2017.01.28

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