3ヶ月分
「どこまで行くの?」
明日明後日は休みだから良いだろうと、連れ出されたのは週末の多忙さにやられた身体。たいそう座り心地の良い座席に身体を預けても眠らずにいられるのは、私よりも忙しい彼が、いつぶりかに誘ってくれたからだと思う。
「もうちょっとで着く」
それは時間だろうか距離だろうか。
車内の時計を見ればあと30分もすれば日付が変わろうかというところ。何時頃会社を出たか覚えていないが、ついさっきまで会社にいたと思ったのに。今日は随分と遅くまで仕事をしていたものだ。
それにしても、この車が走っているのはいわゆる高速道路で、出口はもう少し先であるし、何よりこのまま進めば確実に隣の県まで移動することになる。
彼が言ったようにカレンダーどおりの休日が待っているのだから、この際何時間かかろうとどこまで行こうと構わないのだけど、仕事終わりの色気のないスーツ姿で、薄く塗ったファンデーションもところどころ剥がれているこの姿はいただけない。
こんな急な誘いでなければ、会社を出てすぐに連れ出されなければ、口紅の一つぐらい塗り直して来たというのに。きっとマルコはそんな女心をわかっていない。
「着いたよい」
少しひやりとした風に当てられて、声のする方を向けばマルコが外側からドアを開けていた。どうやら寝てしまっていたらしい。
カチャリとシートベルトを外して、差し出された手を取って地に足を着ける。寝惚け眼に映し出されたのは、星ばかりが輝いている空と、月明かりに薄ら照らし出された海。
周囲に人がいる気配もなく、どこまででも構わないと思ったものの、本当にこの男はどこまで連れて来たのだろうか。
「足元気ィつけろい」
手を引かれるように石段を下りれば、そこはまあ当然のように浜が広がっている。そのまま真っすぐ海辺へ……ではなく横に逸れ、コンクリートの上に腰を下ろした。スーツだしヒールだしと言う、私への気遣いだと勝手に思っておく。事実、マルコはよく気遣う人だから。
「この時季に海?」
「好きなところはいつ来たっていいだろい」
おかげで眼はすっかり覚めてきたのだけれど。
海は私も好き。けれども付き合い始めて2年と少し、一度もこの季節に来たことはなかったから、不思議な感じがして口にした。
「あ」
「どうしたい」
「ん。なんか寒くないなって思って」
出勤は早いけれど、電車に乗ってしまえば地上に出る時間は少なく仕事は基本デスクワーク。何が言いたいかというと、私はスーツの上に防寒具は何も身につけていないのだ。
入り始めといっても季節は冬。夜は冷え込む。それなのに身体が震える寒さがないことにふと気がついた。見れば左手はマルコにしっかりと繋がれていて、首には以前マルコの部屋へ行ったときに忘れてしまったストールが巻かれていた。
「ストールありがと」
「ついでだよい」
「ついで?」
「渡すもんがあってねい」
おもむろに左ポケットから差し出された、小さな小さな箱。
この歳だし、いろんな恋愛ドラマや映画も観てきた。それがなんなのかわからないはずがない。
「ナマエ」
マルコの視線が、私の右手を動かした。
マルコの左手に乗った箱を、私の右手が開ける。
暗くて全体がハッキリと見えるわけではないけれど、確かな輝きを放っている3つの石。
「動くなよい」
箱を膝に置き、器用にそれを取り出す。流れる動きの中、私の視線はそれから外れることがなく。
繋がれていた手は解かれて、優しく支えられた。 ひんやりと。それは私の指を包み込んだ。
「次の嵌めるまで、無くすんじゃねぇぞ」
「………………うん」
それからすぐに車へ戻って、マルコのマンションまで。
口を開いたら泣いてしまいそうで、それでも何か言いたくて、絞り出した言葉はこの場面で一番言ってはいけないことだったと思う。
「高かったでしょ」
言ってしまってから可愛げがないと思った。でも出てしまったものは引っ込められず。
「そうでもないよい」
そう言うと思ったと、さらりと返されたけれど。
世間ではこういった物はだいたい月収の3ヶ月分が相場と言われている。
マルコの月収がいくらかなんて知りはしないけど、一般的なサラリーマンの額でないことは会社からしてわかる。だから、マルコの「そうでもない」は、私からすれば「そうでもある」はずだ。
「気に入らなかったかい」
呆然と左手を見つめる私に、眉を下げてマルコが聞いた。私はただ、首を左右に振った。
「そうかい。でも、もっとシンプルなのが良かったかねい」
ウェーブがかったライン。中央に存在を示す1つのダイヤモンド。それに寄り添うように一回り小さいダイヤモンドが左右に座っている。
「3つ……」
「足りなかったかい?」
「ちっが……!! ふつう1つじゃないの」
「それぞれだろい。それに、3つにしたのにも意味はあるんだよい」
「意味って」
「スリーストーンダイヤ。あとは自分で調べるんだねい」
私はそのまままた眠ってしまって、起きたらマルコの腕の中だった。
スーツは放り投げられ、下着とマルコのパジャマの上しか着ていなかったことは、左手に免じて許してあげよう。
過去、現在、未来。
おまえの全部を愛すると誓う。
2010.1203