月下美人な彼女


 誰かが廊下を歩く気配に、はたまた足音に反応したのか。それとも、もう十分に疲れはとれたから起きろと、脳が指示を出したのかはわからない。ただ、私はいま“起きた”ことを認識した。

 身体が重い。
 瞼を持ち上げると目に入るのは薄暗い天井。いまは朝、だろうか。記憶はないが床に入ったのが夜であるから、眠りに入ったのも夜だろう。夜中に目覚めた記憶も朝食を食べに出た記憶もない。さすがに昼や夕方まで眠っていれば誰かが起こしに来ているはずだ。と言うことは、やはりいまは朝だろう。

 瞼が自然と下りてくる。喉元から瞼にかけて“眠りたい”と思っている。身体は既にそれに従っているようだ。可笑しい。ここで着替えに行動を移すのが常だ。寝すぎた様子もない。
 可笑しいと思っていると、隣に人の気配があることを今になって気づく。首を気配の方へと傾げ薄く瞼を持ち上げるが、所作の緩慢さが目立つ。狭く開かれた視界に映ったのはマルコだった。

 そうだ、昨夜[ゆうべ]はマルコと……。眠りを切望するのはこの男の所為か。

「起きたらおはようの一言ぐらい言ってほしいねい」
「……ねむい」
「はは、そりゃあ善かったじゃねえか」

 耳から伝わる音に、愉しげに笑うマルコを想像する。いつの間にやら首は元の位置に戻り瞼も降りていた。

「寝るのかい」

 髪を梳[と]くマルコの指。時折耳の裏側を通り首筋を撫でられる。ゆるゆるとした動きが、瞼から喉から、“眠りたい”という意識を後頭部へ運んでいくようだった。言葉を返すことはもとより、瞼を持ち上げることすらできそうにない。

「昨日はさっさと寝ちまいやがって、おれァ淋しかったってのに」

 こめかみに触れたのは、唇だろうか。朝なのだから、もう少し爽やかに触れてもらいたいものだ。

「起きて早々におやすみたァひどい女だねい」

 私はいま、とても不思議な感覚を体験している。
 マルコの声によって何とか繋がれている意識は、あと一歩踏み出してしまえば眠りに落ちてしまう。そう、“落ちて”しまうと言うのをわかっているのだ。眠る瞬間など普通はわからないが、いまはっきりとその境目を感じ取っている。不思議な感覚だ。

「たく、綺麗な顔しやがって」

 意識はマルコの声に浮上して、言葉が切れると落ちそうになる。

「もっとおれの相手しろってんだよい」

 耳の裏側から首筋へ、鎖骨から肩口へ向かい、脇から体側へとなぞられる。
 マルコ、それは駄目だ。
 ぞわり、ぞわりと身体の奥が反応を返してくる反面、意識はさらに底を目指そうとする。さっさと落ちてしまえば楽なものを、このギリギリの感覚をもっと味わいたいと思っている。

「なあ、ナマエ」

 臍の周りを掌が覆うように這いまわる。ぞわり、ぞわり。
 そう言えば、昨夜も似た感覚を味わったような気がする。ただ昨夜は、知らぬ間に落ちてしまった。

「起きろよい」

 耳が食[は]まれ、マルコの声が全身を襲った。

 ああ、マルコ。
 私はもう、だめだ。

「…………、このアホ女」


2011.0321
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