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 日付けは変わって深夜の1時を過ぎ。ようやく住み慣れてきたアパートの自室の前で、アルコールが蒸発したときのひんやりとした感覚を、私は体内で感じている。臙脂の通勤鞄を探る手はぴたりと止まった。1年使い込まれた合皮の温もりもそこにはない。
 最後の希望を持って、しゃがみこんで鞄の中身をコンクリート上にぶちまけた。が、カツンというような金属音はひとつも鳴らなかった。

 私が今日――日付けが変わろうと感覚としては今日だ――すべきことは、鍵をあの鍵穴に差し込んでドアノブを回して部屋に入って、むくんできつくなったパンプスを脱いで鞄を放り投げて、メイク落としシートでこのすっぴんと大差ないナチュラルメイクを落としてから仕事着を適当に脱いで、朝脱ぎ散らかしたパジャマ代わりのTシャツとハーフパンツを穿いて、歯磨きはさっきガムを噛んだから良しとして、敷きっぱなしの布団に潜り込んで寝るだけだと言うのに……。こう考えてみると結構な動作だがその肝心の、第一歩を踏み出す鍵が見当たらない。

 うんうん唸りながら記憶をたどってみる。人は焦っていると判断が鈍ると言うけれど、私の脳は一瞬のひらめきがごとく「これだ」という決定的事実を思い出し、右手は素早く携帯電話の発信履歴からひとつの番号に発信した。待つこと、2コール。

「あー、今電車なんだけど」
「すみません、でも一大事なんです!さっき渡した紙袋の中に鍵入ってませんか!」
「鍵?んー……あ、あった」

 良かった。受話口からは先輩の呆れたような息遣いが聞こえるが、安心から気の抜けた体はどうしてか正座の姿勢をとった。冷えたコンクリートがパンスト越しに気持ちいい。

「お前なー、いくら俺のこと好きだからってこんな堂々と不倫申し込むなよー。気持ちは嬉しいけど俺は奥さん一筋だからな」
「え、違いますよ!それはちょっとした手違いというか」
「はいはいわかってますよー。んで、これどうすっか…………あ、そう?じゃあお前に頼むわ。おーい、マルコが明日休日出勤するってんで渡しとくから、お前会社まで取りに行け」

 昼まで爆睡の予定がまさかの休日出勤。しかし、自分の失敗が元なのだから仕方がない。ボロボロだろう姿を見せることになるが、マルコ先輩には目を瞑ってもらおう。

「で、今日泊まるとこあんのか」
「それは、まァなんとか」
「ん。じゃあまた月曜。お前の求愛を受けられなくてごめんな」
「違いますって!」

 「すみません」を言わせる前に適当なことを言って切ってしまう、優しい先輩でよかった。よりによって出産祝いの中にアパートの鍵を入れるなんて……これは当分ネタにされる。これからはどんなことがあってもきちんと鞄にしまおう。

「なにしてんスか」

 とりあえずファミレスか、怖いけどカラオケで時間を潰そうかとぶちまけた鞄の中身を拾い上げていると、深夜の住宅街には少々うるさいバイク音と、低い男性の声がした。
 ヘルメットを脱ぎ、駐輪場がないために適当なスペースにバイクを停めたその人は、どの角度から見ても暴走族にしか見えない、けれどもまったくそうではない、最近ようやく打ち解けてきたお隣さんだ。
 見下ろされるとまた威圧感がある。そしてその目が「通れねェんだよこの馬鹿」と言っているようだ。私は手早く荷物をかき集めて道を開けた。

 お隣のユーさんが――ユースタスさんというのだが、そう呼んだら「長ェ」と怒られたので縮めた結果がこれ。ただし、渋い顔はされた――鍵を鍵穴に差し込み、ドアノブに手をかけて私を振り返った。

「鍵ないんスか」
「う、はい」

 なんで、とは言わなくてもこの状況を見れば誰でもそう思うだろう。年下に恥ずかしい所を見られてしまった。立つほどの面目があるとも思えないが、身は小さくなる。

「で?」

 「で?」とは、これからどうするのか、という質問なのか。いつもならこういう聞き方をされるとムッとするところなのだが、今はそんな気力もない。そもそも、このお隣さんにそんな態度はとれない。

「あそこのファミレス、週末の深夜は店長いるんで寝てると追い出されるし、カラオケも深夜ひとりでって危機感なさすぎ。あそこのバイトの適当さ知らないんスか」
「え、そ、そうですか……じゃあどうしよっかな」

 私の行動はお見通しのようで、ユーさんの親切なアドバイスは私の仮宿候補を潰した。
 この時間に押しかけられるような友人は近くに住んでいない。最寄駅の最終電車はもう行ってしまったし、タクシーを呼んで3駅先のビジネスホテルまで行くしかないのか。タクシー代とホテル代は馬鹿にならないが、それも元は自分の失敗のせい。アルコールで上がっていた気分はとうとう底に達した。

「大人しくしてんなら、布団貸すけど」
「……え」
「女に襲われるとかありえねェし、あんた襲う気もないんで安心して良いっスよ」
「襲うって、私だってそんな」
「んじゃどーぞ」

 そう言ってユーさんは赤茶色のドアを開けて入っていった。私はと言えば、予想もつかなかった展開に呆気にとられて、目の前でドアが閉まる瞬間を見届けてしまった。なんなんだ今日は、不倫の申し込みとか襲うとか襲われるとか。

 酔いはすっかり醒めているし、酔って人に襲いかかったことはない。よって私がユーさんを襲うなんてまずない話だ。しかし、しかしその逆のことを言葉通りに信じて良いものか。いくら私に女っ気が不足してるとはいえひとつ屋根の下に男女が一緒で、しかもユーさんは大学生で、いろいろとまァ盛んな時期ではないかということを考慮すれば万が一ということは無きにしも非ず。ここはひとつ慎重になった上で懐の寒さを我慢すべきではないかと思う。

「おせェ。こっちはバイト帰りなんだよ。さっさと寝かせろ」

 私の決断はどこへやら、ユーさんの中では泊めることが決定事項のようだ。あれよあれよという間に部屋に引きずり込まれ、玄関で転んだ拍子にうまい具合にパンプスが脱げた。一回り以上大きいスニーカーやブーツ、先の尖った革靴がごろごろした中に、ヒール7センチのパンプスが一足。とんだ紅一点だ。

「そこ布団。それ着てそのタオル掛けて寝ろ。服脱いだらこれ使え、酒臭ェ。化粧はこれで落とせ。俺もう寝るからあんたもさっさと寝ろ」

 おいと呼ばれて、みれば私が靴を見つめていた間にユーさんは着替えをすませていた。指差された方には布団が敷かれていて、ご丁寧にTシャツとジャージの下とタオルケットが置いてある。どれも真っ赤ということで、どれだけ赤が好きなんだろうか。
 けれど、それよりもユーさんがメイク落としを持っていることが驚きだ。私が愛用しているものより強力な、「ウォータープルーフマスカラもつるんと落ちる」というやつだからなおさら。理由を聞く勇気はもちろんない。

「ありがとうございます」

 これまた使えと言わんばかりに用意されたハンガーに仕事着を引っ掛けて、テレビCMでお馴染みの消臭スプレーをお借りする。貸し出された服に頭、腕、足を通すと半袖が七分袖になり足の先は見えない。例のメイク落としを使い、肌の突っ張りを感じるがわがままは言えない身である。
 ちらりと見たユーさんはもう寝ているかもしれない。クッションを枕にして、ラグ一枚敷いただけの硬いフローリングの上でタオルケットにくるまっている。寝心地がいいはずはない。もう一度「ありがとうございます」を言って、私もタオルケットに身をくるんだ。


 翌朝、反射的に開いた携帯電話のディスプレイには「10:33」という表示。予定通りの爆睡だ。
 部屋にユーさんの姿はなく、「鍵はポストに入れとけ」というメモをローテーブルの上で見つけた。メモの周辺にはペットボトルの水と、フェイスタオルに洗顔フォーム、化粧水と乳液が置かれていた。私は、無心でそれらのお世話になりました。

 皺にならずにすんだ、消臭スプレーの良い香りのする服に袖を通して、鞄の中にペットボトル、床に転がっていた英語でなにやら書いてあるショップバックにTシャツとジャージを入れ、「洗って返します」とメモを上書きする。
 泊めてもらったお礼に部屋の掃除をして汚名返上を、と思ったが、服や靴にこだわる人は当然部屋にもこだわりがあるはずで、へたにいじるのは危険だと判断した。これからの近所付き合いのためにもこの判断はべストのはずだ。

 指示のとおりに鍵はポストに入れ、昨夜の失態から今日のスッピンまで笑われることを覚悟での休日出勤。優雅にインスタントコーヒーを飲んでいたマルコ先輩はショップバック目ざとく見つけてこう言った。

「女は切り替え早いもんだねい。あいつに振られたからってもう別の男かよい」

 これから最低1週間はこのネタを引きずるのかと思うと、昨日の自分を呪いたくなる。だが、こういう時でも最初が肝心。「別の男」という部分を、赤が好きな優しい暴走族風のお隣さんだと訂正した。

「へェ、ギャップ萌えってやつかい」

 どうやら切り返し方を間違えたらしい。




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