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 最終電車の1本前に乗り合わせ、××はなんとか23時台にアパートの最寄り駅に着くことができた。安全のためと駅から一直線のルートを回避して大通りを歩くことにしているが、その大通りを歩いているのは彼女以外に誰もおらず、1台の車ともすれ違っていない。慣れた道で疎[まば]らに街灯が立っているとはいえ、その灯りは心もとなく自然と早足になる。

 数メートル手前に交差点がある。目線を下げないように顔を上げていた××は、ずっと歩行者用信号機に焦点を合わせて歩いていたため、パッと赤信号が青信号に切り替わるのを見とめた。あそこの信号機の切り替わり間隔は短く、この距離では渡り始める頃か渡り切るギリギリでまた切り替わることが予測できた。赤信号で渡ったとして、人も車もいないこの時間ならば誰に咎められることもないが、××は早足から駆け足へと変えた。

 ××は走りながらショルダーバックの肩ひもを握る右手に力を入れた。その耳にふたつの足音を捉えたのだ。自分と同様に信号が切り替わる前に渡ろうとしている者の足音かもしれない。そう思いすごしであることを願い、ここまで走れば十分に渡れるという横断歩道手前で速度を落とした。もうひとつの足音の速度も落ちる。まだ信号は点滅もしていない。
 ××の心拍数は一挙に上がった。
 肩ひもを左手で握り直す。右手でジーパンのポケットに入れていた携帯電話を取り、110と打ち込みいつでも掛けられるように準備をした。先の交差点には24時間営業のコンビニがある。せめてあそこまで……と、時間にしてはおよそ1分の距離を張り詰めた空気の中歩く。

 目の前の信号は赤。しかしここで止まっては危険だ、と××はそのまま信号を渡る。これでコンビニに駆け込んでしまえば大丈夫。強張っていた肩の力が抜けて行くのを感じた、その時。後方の足音が速まっているのに気がついた。走らなければと思うのに、鼓動が速く大きくなるだけで足は動かない。恐怖が自己増殖を始め、××は握り締めている携帯電話の存在を思い出すこともできず、ただ祈るように固く目を瞑った。

 ピロリーン

 ゲーム音のようなものが××の周りに張り詰めていた空気を壊した。縋[すが]る思いで音の方向に目を向けると、コンビニの前にいたスーツを着た男が携帯電話を手に足早に自分の方へ近づいてくるのが見えた。その男は××のアパートの隣人、マルコだった。

「大丈夫かい。変な奴は逃げてったよい」

 安心して良いと言うマルコだが、××は振り向いて確認することができない。マルコは手にしていたコンビニの袋を持ち替えて、空いた左手で××の手を取り、

「本当はすぐに警察に連れてってやるほうが良いんだが、さすがに今あの道を引き返すのは嫌だろい」

 と、××の返答を待たずにアパートの方へ歩き出した。

 玄関先でマルコは頭を掻いた。その拍子にコンビニで買った缶ビールがこつんと当たる。コンビニからここまで彼の左手は××によって強く引っ張られている。特に親しいわけでもない、ただの隣人と言ってしまえばそれまでの間柄でしかないが、震えている女の子を放っておけるほどマルコは無情な男ではない。

「ひとりで平気かい。友達が近くにいるんならそこまで行くが」

 ××は弱々しく首を横に振った。それは近くに友人は住んでいないという意味であったが、マルコはその意を解釈できるほどに××を理解していないので、考えていたもう1つの提案をした。

「今日はおれの部屋で寝るかい。もちろん何もしねェし、一緒にいるのが怖いならおれは適当な所で泊まってもいい」
「…………」
「こんなこと言ってよけい怖がらせるのは良くないってわかってんだが、もしあいつがあんたの部屋まで知ってんなら、今日のところは戻らないほうがいいよい」

 マルコの一言に××の体は大きく反応し、それはマルコが行動を起こすには十分だった。自宅の鍵を開けて、××を先に部屋へ入れた。
 キッチンに洗面所、リビングに寝室。次々と部屋の明かりをつけ、深夜バラエティー番組の賑わいを求めてテレビの電源ボタンを押す。買ってきた缶ビールを冷蔵庫にしまい、代わりに取り出した牛乳をマグカップに注ぎレンジにかける。マルコはターンテーブルが回っている間にふたり分の部屋着を用意し、××には好きにして良いと告げて自分はそそくさと洗面所で着替えを済ませた。
 温め完了の電子音を確認し、カップの中に同僚からもらって使うことのなかったハート型の砂糖をふたつと、マドラースプーン1杯のシナモンを入れる。

「入るよい」

 テレビに向かい正座をしている××はマルコの用意した服に着替えていた。マルコはその姿に小さく安堵し、彼女の前にマグカップを置いて飲むように勧めた。

「それ飲んだら今日は休みな。ベッドは使っていい。おれはこっちに布団敷いて寝る。で、明日の朝警察に行くよい」

 何も言えないでいる××にマルコはゆっくりと話を続ける。

「さっきも言ったが、こういうことは本当はすぐに警察に言うべきなんだよい。あとに回すほうが厄介になる。さっき撮った写真もあるから警察もちゃんと動いてくれるだろ。おれもついていくし、な」
「……はい」

 空のマグカップを流しに置いたマルコは××を寝室へ案内した。同僚に明日遅刻することをメールしておくか考えていると、マルコは信じられない言葉を耳にした。

「一緒に、寝てくれませんか」

 警察に行くことを小さく了承した彼女から緊張や恐怖が消えたわけではない。彼女を保護したことに下心など欠片もないが、自分に恐怖を与えたやつと同じ“男”にそれを頼むのはどうなのかと言うことを、マルコは顔に出した。

「ッ!」

 無言の訴えを無視することのできなかったマルコは、渋々××とともにベッドに入ることにした。それだけでも「本当にこれでいいのか」と思っているのに、彼女がわざわざ開けた隙間を詰めて寄ってきたので、動揺しないわけがない。
 それでも、彼女が自分を兄か、ひょっとしたら父のように思い頼っているのかもしれないと思えば、その背中をさすってやらねばという気持ちが起る。

「おやすみ」

 ××の体から完全に力が抜けたのを確認してから、マルコは彼女を追って目を閉じた。





2011.1208
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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