205×204
「だだいまー」
今日も素敵なサービス残業を終えて、淋しい我が家への帰宅。ペット可の物件にしておけば可愛い子犬のお出迎えを楽しみに帰ってこれるのにな、とそんな考えもよぎる30半ば恋人なしの女である。
「昨日のミネストローネと、パスタあったかな」
冷蔵庫から鍋を取り出す。最近の調理器具は取っ手がとれて冷蔵庫に入れやすくなった。優れものだ。
「ん?」
さてさて湯でも沸かそうかという時だ、視界の端をなにかがスッと通ったように見えた。気のせいだと思うのはそう思いこみたいからだ。夏場、キッチン、動きの早いなにか。この3つが揃うととても嫌な答えにたどりついてしまいそうで……恐る恐る、振り返る。
「なんだ、コオロギか」
んなわけあるかい。
*
「はい」
「205の○○です」
「○○さん?ちょっと待ってください、今でます」
ひとりノリつっこみをしたあとの動きは、ここ最近にはなかったキレのある動きだった。私もまだ若いと思っていいだろうか。それから緊急避難先にと訪ねたのは204号室の後藤さん。おとなりさんというやつだ。
「どうしたんですか」
「今晩泊めてください。お願いします!ミネストローネ持ってきたのでお願いします!」
「え?」
間抜けた顔も男前という人は存在するのか。なんだか悔しい。
後藤さんがそれはちょっと、という顔をしたくなるのもわかる。後藤さんは男で私は女で恋人でも友人でもなくただの隣人だ。朝のゴミ出しで挨拶を交わし、たまにお裾分けをする程度の間柄だ。私もいきなりそんな隣人が泊めてくれと訪ねてきたら同様の反応をするだろう。しかし、しかしだ。
「緊急避難なんです!なにもしませんから泊めてください!」
いまの私にとってそれらはたいした問題にはならない。手土産のミネストローネ――賄賂ともいう――を差し出し、ただひたすら乞う。こんなに男前なのに彼女がいないという後藤さんは自炊が苦手なのか、手作りに弱いので落とすのは簡単なはずだ。
「いや、その……」
「あ。後藤さんがなにかしてしまいそうだから泊めにくいとか。そうですよね、30後半一人暮らし男性の部屋になんて、鴨がねぎしょってやってきたようなもんですよね」
「や、べつに俺はそんなこと考えたりは」
ならばという私に、押しにも弱い後藤さんは降参の色を浮かべて部屋に招いてくれた。着替えと洗面道具は持参しているのでご心配なく。
「それで、緊急避難というのは」
「夏場、キッチン、1階のスナック、バルサン」
「……ああ」
「この時間に3時間も外で避難はちょっと。そんなに若くないから寝ないと明日保たないし」
残念ながら始発で帰ってすぐ出勤、睡眠は電車内で、という20代の頃はやってのけたことがもうできない体になってしまった。平均睡眠時間を欠くと少々つらい。「わかります」と後藤さんは眉を下げる。歳が近いと気兼ねなくこう言う話ができて助かる。
「洗面所お借りしても良いですか?着替えたくて」
「どうぞ」
男の部屋に入るのは悲しいかな数年ぶりのことだ。その男の部屋がどんなものだったか思い出せないが、飾るのが好きな男でごちゃっとしていた気がする。後藤さんの部屋はこざっぱりとして、洗面台には歯ブラシとコップは1組だけ。女性物は1つも見あたらない。
「すみません、助かりました」
キッチンに立つ後藤さんに声をかけ、振り向きざまにその目が一回り大きく開かれたのを私は見過ごさない。しょうがないじゃないか、肌をしっかり休ませてあげないと明日の化粧ノリに響くのだ。
「後藤さん、化粧上手って褒め言葉じゃないからね。あ、ミネストローネ温まってる。お皿は?」
「あの俺は、その、べつに。あ、皿はそこの棚」
「からかっただけなのに、その必死なフォローはよけい傷つく」
「いや、本当にそんなつもりなくて」
「もういいです。いただきます。でも意外、元サッカー選手だし女慣れしてると思ってた」
「それ偏見だよ。いただきます」
化粧は鎧だという喩[たとえ]があったと思う。その喩でいくと、化粧を落とす、つまりはすっぴんになるということは鎧を脱いだ状態ということで、なんとも身が軽い。友人と話しているように言葉が出てくる。
一方的に距離が縮まった気になりながら、スープ皿にご飯とミネストローネをいっしょくたにした洋風猫飯と名付けた一品を食べ終え、私はキッチンに立っている。洗い物ぐらいさせてもらわないと良い夢を見られない気がするので。
「○○さん布団なんだけど」
「え、一緒に寝る?」
「寝ないよなに言ってんの。ただ、部屋狭いからくっついちゃうけどいいかって」
「後藤さんが、私に?」
「ふとんが!」
逐一反応してくれる後藤さんは四捨五入して40になる人とは思えない可愛さだ。こんな人ならばもっと前から仲良くしておきたかった。
部屋には隙間なくくっつけられた2組の布団と、その上になぜか正座している後藤さんがいて、雰囲気から私も正座をする。
「今更ですが後藤さん、今日は無理なお願いを聞いていただいてありがとうございます。これも何かの縁ということで、この先もなにかあった時はよろしくお願いします」
「俺もいつも美味しいものをわけてもらってるし、困ったときは何とやらだよ。こちらこそ、これからもよろしくお願いします」
「なんだかこれ、新婚さんみたい」
「っ!!」
「おやすみなさーい」
サッ、と薄手の掛け布団を頭からかぶり就寝モードに入る。電気を消すパチという音とともに部屋は暗くなった。「お、おやすみ」なんて口ごもる後藤さんは私に背を向けて寝ているに違いない。明日、私の方が早く起きたら耳元で「おはようダーリン」とでも言ってみようか。彼はどんな反応を見せてくれるだろう。
2011.1208