君も僕も足りない


「船長おはようございます」

 私は朝食前の健診のため船長室を訪れた。それはもうナースとして乗船してから随分長く続いている大切な朝の日課。この時間船長はベッドの上で届いた新聞や手紙に目を通していることが多い。ベッドサイドに酒瓶を見つけ、隠さずに溜息を吐くこともしばしばあったりするけれど。今朝は新聞を読んでいる姿をこの両眼でみとめ、溜息を吐くどころか息が止まった。

「なに固まってんだ」

 紙面からこちらへと向けられた顔を瞬きしてからもう一度みとめて、今日も顔色良しと判断する。船長が新聞を畳み、腕ごとサイドテーブルに置いたことに気づいて慌てて血圧計の準備を始めた。

「血圧も脈拍も問題ないですね。なにか、不調を感じるようなことは」
「ねえな」
「それはなによりです」

 良好の一言をカルテに書き込む。それから、失礼ですがと前置きをして最後の問診をする。

「老眼鏡、ですか?見えにくいと感じることがあるならそれもちゃんと言ってください」
「特別そういうわけでもねえさ。ただまあ、どんなもんかと使ってみただけだ」
「そうですか。それで、どうですか?使っている方がよく見えますか」
「……ああ、そうだな」
「では、船医と相談しておきます。あとで視力検査をし、て…………せん、ちょう?」

 老眼鏡の手配、とカルテに一文加えていた手が止められた。私の手に重ねられているのは船長の大きな手で、私の頬を撫でているのも船長の大きな手で、再び息が止まった。

「おれも歳とったもんだ」
「そんなこと」
「こんなもん使わねえとお前の良さが見えねえとはな」
「せんちょ」

 こつんと、眼鏡が額に触れた。眼鏡だけではなくて、いろいろと、触れた感触がある。船長の顔が、遠ざかっていくのが見える。

「だがまあ、邪魔だな」

 眼鏡を外すといつもの船長の顔が見えて、眼鏡を外す仕草も素敵だと惚[ほう]けている私には、近づく船長の顔も、閉じていく瞼も、とてもゆっくりに感じた。


 瞼を開くと、視界の半分は船長で埋まっていた。反射的に体が起き上がる。

「お、おはようございます!私寝て……え」

 朝の挨拶は先ほど済ませたはずだ。そしてここは船長室のはずで、そうであるならこのベッドは船長のベッドで、なぜ私がそこで横になっていたのか。疑問はいくつかある。

「カルテ書きながら寝るっつう器用な真似してたぞ。寝不足か?」

 渡されたカルテには見事にミミズが這っていた。恥ずかしい、それよりもナースとしてありえない失態に項垂れた。そこで、はてと思う。カルテは書き終えていなかっただろうか。

「あんだけ良い顔して寝てたんだ、さぞ良い夢でも見てたんだろうな」

 夢、の一言にまさかのオチが待ち構えているのではと、ゆっくりと視線をサイドテーブルに移す。新聞と血圧計はある。眼鏡は……ない。まさかまさか。

「船長、あの、眼鏡は」
「あ?眼鏡がどうした……てめ、俺が老眼だって言いてえのか?」
「ち、ち違います違います!」

 両手でオーバーに否定をアピールするも、まさかまさかのオチに落胆は隠せずに息を吐く。もう一度カルテを見ると、ミミズは這っているものの健診項目は一通りは終わらせていたらしい。カルテを手に、ふたつ以上の意味を込めた「失礼しました」の言葉で退室した。

 船長室の扉を背に、可能性を探るように唇に触れた。指先には温もりも湿り気も伝わることがなく、ただただ、脳裏の船長に応えるようにそっと指を食[は]んだ。


2011.0515/企画「老眼」提出
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -