いまだけは、おとうさん


 夜でも、いつも船の進む方角を示してくれた月が今日は、朝から居座っている雲のせいで見えなかった。ただ、それだけなの。


「船長、ちょっと良いですか」

 ダメだと言われることはないけれど、この束の間に心の準備を整える。

「どうした。お前がこんな時間に部屋に来るのは、あの日以来じゃねェか」

 ベッドサイドに深く腰をおろし、日々注意をしている寝酒は相変わらずで、ナースの言うことは聞いてくださいと酒瓶に手を伸ばすものの届かない。こういう時、エースの弟の能力は便利だろうなと思う。

「酒の注意に来た、ってわけじゃあねェんだろ」

 酒瓶を置いて――あくまでも私の手には届かない所だけれど――どうしたと再び問うてくれる船長。その瞳は穏やかなのに私を打ち抜いてしまう。

「ずるい」
「ん?」

 ずるいわ船長。あなたはいつもいつも。私の心なんてお構いなしだから。

「お願いがあるんです」
「まさかまた、抱いてくれってんじゃあねェだろうな」

 言い当てられて、鼓動が少し速くなった。あの日と同じ時間に同じことを言えば、察しがつかないこともないけれど。まさか、と思っていたようで私の動揺を察した船長は眉をひそめた。船長、でもちょっと違うんです。

「抱きしめて、ほしいんです」

 できることならひとりの女として、あなたのその胸に身を寄せたい。愛されている女として。それがいまは叶わぬことだと知っているけれど、そう思うことだけは許してください。
 いまは、そう。屈強な息子たちを見守る父親としてのあなたに、お願いします。どうかその腕で、その胸で。私を抱きしめてください。

「来い」

 ベッドには大きく開かれた両足の間に小さな空間ができていて、ブーツも脱がずにそこへ上がる。目の前には船長の胸の古傷だけ。吸い寄せられるように額をあてた。

「なにがあった」

 頭のてっぺんから聞こえてくる船長の声。額から伝わってくる船長の声。
 なにもない、なんでもない。
 首を左右へ振った。
 なにもない、なんでもない。

「ガキみてェなことを」
「……ダメですか?」
「いいや。おめぇたちはおれの娘だからなァ」

 背中に添えられた大きな、大きな手。じんわりじんわり、背中から心臓、心臓から全身へと、ぬくもりが伝えられていく。後ろまで回しきれない腕を伸ばして、縋るように船長に抱きついた。

「そのうちに、娘なんて言えないようになりますからね」
「そいつァお前次第だな」

 船長が笑って揺れる体。まるで揺りかごの中にいるみたいと、記憶も定かではない昔を思い出して、また体が揺れる。



「船長」
「なんだ」
「明日、晴れるといいですね」


2011.0317
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