内の秘めたる気持ち



「結婚してほしいって言われた」

 「お茶しに行かない?」と誘われて繰り出した陽気な昼下がり。カフェテラスで日焼けの心配をしながらカフェモカを飲んでいた私に、同様に日焼けを気にしながらミルクティーを飲んでいた彼女が云った。
 昨夜船に戻ってきたとき、ほんのり漂わせていた幸福感はこれが原因だったらしい。私はカップを置き、チーズケーキにフォークを入れて続きを促した。

「この島で最後にする」

 プロポーズを受けたとき、彼女の中に答えはひとつしかなかったと思う。
 言葉を交わさずともお互いの心がわかる。それだけともに過ごした日々は濃密だった。だから、彼女が私に言おうとしていることもわかる。

「もう10年よ。あんたはどうするの」
「どうもしないわ。現状維持、かな」

 舌に乗せたチーズケーキは酸味が強く、海賊船の厳ついコックのほうが美味しいものを作るのが、なんだか可笑しかった。

 彼女の相手はふたつ年下で、家族で青果店を営んでいる。
 彼女が船長の体調管理の一環として、コックとその店で食材調達をしていたところ、彼に一目惚れされたことから始まったと聞いている。白ひげのナースだと明かしてもなお、猛アタックをかけてくる彼に彼女が心を開いたのはそれから数日のことだった。日に日に増えるクローゼットの中身を羨ましく思った。
 この10年様々なカップルを見てきただけに、「絶対」と言い切れないのが歯痒いけれども、彼女達なら島一番の夫婦になると思う。船長の隣を張り合う相手がいなくなるのは淋しいけれど、心配せずに笑って送り出せる。

「伝えてはいけないなんてルールはないわ」
「云わないほうが良いこともあるの」
「ずっと隠し通すなんて無理よ」
「この10年隠してきたんだから大丈夫」

 彼女が白ひげのナースでいるのは、あとひと月。その最後の日、家族総出で盛大に彼女を送り出すだろう。その彼女に心残りをさせてしまうのは、ナースの言うことを聞かない船長ではなく、私のようだ。

「娘でいられるだけで十分幸せよ」
「結婚が総てなんて言わないけど、私はあんたに女として幸せになってほしい」
「ありがとう。もし云う時が来ても、それは船を降りなきゃいけない時だから」
「頑固者。可愛くないわ」

 呆れたような彼女の笑顔は、優しく綺麗で、姉ってこんな感じかな、とカップに口をつけた。


「前々から気づいてはいたけど、あんた本当に物持ってないわね」

 二人で共同生活をしていた部屋を見渡していると、彼女が言った。
 容量オーバーだったクローゼットも私の数少ない服だけとなり、風通しが良い。明るかった部屋も、男部屋に少し色がついた程度に侘しくなった。乗船した時から明るい部屋だと思っていたのは、彼女が飾っていたからだった。

「もう少し女っ気出しなさいよ」
「ナース服で十分出てると思うんだけど」
「毎日見てたら見飽きるでしょ。それに、そのままで新人とか陸の女とかに掻っ攫われても知らないわよ。船長だって男なんだから『絶対ない』とは言えないでしょ」
「それは、船長が決めることだもの」
「一途も困りものね。とりあえず……」

 そう言って彼女が差し出したのは、私が唯一持っている香水の瓶。つけなさい、ということらしい。受け取ろうとすれば、彼女が宙に吹きかけて「くぐって」と一言。霧を抜けると、今度はハンドバックから取り出された口紅を塗られた。

「見送りぐらいめかしこんでもらわないとね」

 医療以外のことももっと教えとくべきだったわ、と彼女は言う。
 頭に浮かぶだけでも、彼女とは船長や船員の体調のこと、医術や薬の話ばかりしていて、恋愛話もこの島に来るまでは船長がどれだけ素敵な人かを語り合っていたぐらい。医療のことは彼女にほとんど教わってきたけれど、これからは医療はもちろん、多少のお洒落も自分で勉強しよう。

「そろそろ時間ね」

 扉に向かう晴れやかな彼女の後ろを追いかけた。


 甲板は人で溢れ、見張り台やマストなど、入れるところ立てるところも埋まっていた。彼女を視界にとらえた人から次々と祝福の言葉が降り注ぎ、号泣する者もいて、嵐の中にいるようだと二人で笑った。

「船長」
「これでお前もちったァ大人しくなると良いんだがな」
「それは無理ですよ。船を降りてもあなたの娘ですから」

 涙に揺れることなく真っ直ぐ掛けられる言葉と、堂々たる立ち姿は誰が見ても父親そのもの。二人の会話を、と静寂を作ろうとする船上には、堪え切れない啜り泣きが四方からBGMのように上がっている。

「船長、ナマエにあまり心配掛けさせないでくださいね」
「ハッ。そんな心配してねェでさっさと行っちまえ」

 赤い絨毯も白い布も神父も祭壇も当然そこにはないけれど、いまこの船の誰もが、バージンロードの上、祭壇の前で新婦が父親から新郎に託されるその瞬間を感じている。

「それじゃ、行ってきます!」

 白い歯を少しのぞかせた笑顔を船全体に向けて、一言。タラップに踏み出す寸前かち合った視線に、言葉にならない想いを詰める。

「ああ、行ってこい」

 船長の言葉に再び嵐が起り、今度は煩いウエディング・ベルだ、と彼女も思っているはずだ。

「船長、今日はめでたい日ですがお酒はほどほどにしてくださいね」
「ナマエ、おめェ今日ぐらい」
「ダメです。体調崩されたら私が怒られます」
「……ったく姉妹揃って、口煩さは船一番だな」

 今こうして笑っていられる私は、十分幸せ者だと思う。
 だから、何も心配しないで。行ってらっしゃい。


2012.0105
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