良い夜を
「不味いな」
口に入れた炒飯は油でべったりとしていて、見た目通り醤油の味がきつかった。これならクルーが適当に作ったものの方がまだ食べられたもんだ。こんな味でどうしたら店をやっていけるのか。ああ、おれのような客がいるからか。
「おやっさんいつ食ってもここの飯は美味ェな」
それから、壊滅的な味覚を持った常連が多くいるらしい。
飯ぐらいはあいつらと一緒にすれば良かったか。せめてベポの嗅覚を使って店を選べば良かったか。胃に入ればみな同じだというのに、そんなことに後悔している自分を嗤[わら]う。
日頃飯は粗末にするなと言い聞かせているが、日柄が悪いらしい。ほぼ出されたときのままの皿と、面倒を起こす気もないので材料代と自分に言い聞かせた小銭をテーブルに置いて店を出た。
そもそも飯屋に入ったのが間違いだった。探し歩かずとも辿り着ける軒を連ねる酒場。最初からそちらに行けば良かったのだ。極力頭の軽い奴らがいなさそうな店を聞き分け、扉を開いた。
だいぶ年季の入った店らしい。立て付けの悪い開閉音に先客は振り向いた。が、視線はたちまち何もなかったように戻っていく。一部はおれに気づいたようだが、関心がないのか賢明な判断を下したのか、瞳孔を見開いた程度のことだった。
「この店で一番美味いやつを」
空いていたカウンターに腰を据えて、店主に注文をした。
白シャツに黒のベストと蝶ネクタイ。バーテンダーとしてよくある様だが、服に着られている感はない。おれのことなどひよっこぐらいにしか思わないだろう。
主人が迷いなく手を伸ばしたのは、棚の一番下の一番端に置かれた薄い寸胴の瓶。未開封だったのか栓を開ける音がした。グラスに氷と開けられたばかりの酒が注がれていく。コースターという洒落たものの上に、カウンターを叩く音もなく褐色が光るロックグラスが差し出された。
それを、一気に飲み干す。
よく知る香りと味だった。
「安もんだが、美味いな」
「高ければ美味いとは限りません」
「確かに。あの店の飯は値段以下だったな」
思い出せば胃の中がざわつく。それを鎮めようと主人へ空になったグラスを差し出した。
「おとなり良いかしら」
右下に落とした視界に赤いマニキュアを見た。女を置いている店とは思えない。となると個人営業か。ここを仕事場にしているあたり、安っぽくはなさそうだ。
「見りゃわかるだろ」
「そうね」
主人に「いつもの」というこの女は、女のように細いシャンパングラスを受け取った。それを一気に飲み干すのは、いつもの手法なのか。目に映った光景に推測をたてた。
席を勧めたわけではない。隣が空いていたから事実を伝えただけだ。
誘いに乗ったわけではない。おれは女に一声も掛けなかったし、女もなにも言ってこなかった。おれは飲み干しては一呼吸おいてから主人にグラスを差し向けていただけで、女はあれからなにも頼まなかった。
「美味かった」
「良い夜を」
良い店だ。もしまたこの島に寄ることがあればあいつらも連れてきてやろうか。カウンターに代金を置いて、立て付けの悪くなった扉を出た。
「おれに用か」
「ええ」
赤いマニキュアの女が続いて出てきた。
「あんたの分は払ってねェぞ」
「あなたに宿を紹介したいの」
「ふん。スイートなら考えてやるよ」
「期待には添えるわ」
笑っちまうようなやり取りをして、女に案内されるままに進んだ。誘いに乗ったわけではない。
三階建てのボロくも綺麗でもないアパート。その最上階最奥の部屋に通された。生活感を感じさせない、最低限の家財しか置いていない部屋だ。
「シャワーは」
「いらねェ」
それが合図になった。
*
椅子の上では緊張して言葉が出てきません、てか。笑っちまうな。
「クルーは船においてきた」
「あらなぜ」
「鬱陶しかったからな」
淑女が好みというわけじゃないが、喧[やかま]しい女も好みじゃあない。好みじゃないが、この手の女は黙っているほうが面倒だ。まあいい、たまたま今日はネタがある。
「カウントダウンからやりたいとかぬかしやがって」
「年越しの?」
「バースデーパーティー、だとよ」
船内を駆け巡る、読み終わった新聞で作られた輪飾り。誰に被らせるつもりだったのかアイスクリームを逆さにしたような帽子にクラッカー、くす玉まで準備していやがった。今頃主役不在でくす玉を割り、正面きっては言えない愚痴をこぼしているだろう。
「歌ったほうがいいのかしら、バースデーソング」
「いらねェな」
たまたまだ。こんな日に女と過ごすなんてのは。たまたま、今年はあいつらの浮かれっぷりが気に入らなかったからだ。そもそも、美味い酒と美味い飯の理由ぐらいにしかならないんだ、どうだっていい。
たまたま良い店と良い主人に美味い酒があった。たまたまそこらよりは良い女がいた。それだけだ。
言い訳がましく考えるのも面倒だな。
「『良い夜を』か」
主人の言葉を思い出す。
「あんた次第だな」
それができたらチップを置いていってやろう。
安っぽく目を光らせた女に、おれは嗤った。
2011.1007
Happy birthday