夜遅くに帰宅する。慣れないデスクワークはこんな真冬でも暖かな空間で仕事が出来て大変結構だが、時にその蒸せかえるような暑さに目眩すら覚える。そんな空間にいたせいか、コンクリートに囲まれた帰り道が妙に清々しく思えた。簡素な階段で三階まで上がり自分の部屋のドアに鍵を突っ込む。簡単に解錠されてしまうこのドアは、女が住むには少し危険すら感じるが、連日の仕事で疲労が蓄積した私にはむしろありがたかった。履き馴らしたヒールの高いパンプスを脱ぎ捨て、ソファに倒れ込む。一瞬睡魔が過るが、冷蔵庫から炭酸水の入ったガラスビンを取り出し、一気にあおる。ピリッとした感覚に意識が覚醒する。好きでもない炭酸水を飲む理由はここにある。部屋から夜景を眺めているとふと視線に気付いた。暗闇に混じる男の肌の白さが妖艶にすら感じる。随分、久しく会っていなかった。

「玄関の鍵ぐらい閉めたらどうです」
「骸のような人が入ってきたら私、無事ではいられないでしょうね」
「クフフ、」
「……あまり会いたくなかったのだけど」
「つれないですね」
「何か用?」
「いつまで現実から目を逸らすんです?」
「現実?」
「傍にいたいのならそうすればいい」
「…は」
「僕の隣に戻ってきませんか」
「………」
「沈黙は肯定と受けとりますよ」
「私、会いたくないって言ったじゃない」
「あなたの本心は違うでしょう?」
「、やめて」
「あなたは隠し事が下手だ」
「嫌なのよ……もう、お願いだから私に関わらないで」




骸に依存している自分が嫌いだった。少し前まで私はとにかく彼に心酔していた。理不尽な要求も全て飲み込み、骸に愛してもらえることが至福のようにすら思えた。部屋から一歩も外を出ない。外の世界と関わらない。勝手に行動しない。…様々な要求があった。どんどん廃れていく自分に全く気づけていなかった私は本当に愚かだったと思う。ある日いつものように厳重に鍵をかけられた真っ暗な部屋に篭っていると、いきなりもの凄い勢いでドアが破壊された。自身の震える肩を抱き、砂ぼこりの奥にいる人物をよく見てみると、古くからの友人の雲雀で。私の知らない骸の姿を教えてくれた。骸にはたくさんの愛人がいること。私の他にも数人の女を軟禁していること。このままの状態でいても何も変わらないということ。そんな周囲の状況など何も知らなかったし、知るはずもなかった。いろんな情報が一気に頭の中に流れ込んできて私の中で神格化されていた骸の像は音を立てて崩れた。そこに骸が外出先から帰ってきて一触即発の嫌な空気が流れる。

「……なぜ雲雀恭哉がここに?」
「この子を助けに来た」
「助ける?クハハ、可笑しなことを言いますね。あなたが自分の意思でここにいるんだと彼に教えてあげなさい」
「私、もういいから」
「、何がです?」
「もう、愛されなくていいから、解放してほしい」
「……雲雀恭哉に何か吹き込まれたのですか」
「違っ…」
「…吹き込まれたのですね?流されやすいあなたのことだ。そうに決まっている」
「、私は変わるの!もう会わないから!」





そう言って骸の元を出ていって一ヶ月。雲雀に手伝ってもらいながらも徐々に社会に復帰していった。あのまま暗闇の中にいたら………早く傍を離れてよかった。そう思っていたのに。

「僕にはやはりあなたが必要なようです」
「何なの、」
「あなたにも、僕が必要でしょう?」
「嫌……嫌よ…」

骸の右手が私の頬に触れる。慈しむように撫でられ、背筋がゾクゾクとした感覚に襲われる。言葉では威勢よく抗ってみたものの、私がこうされることに弱いのを一番よく知っているのは他でもない、この男だ。懐かしい感触に自分でも知らず知らず涙を流していた。骸は両手で私の頬を包み込むとそのまま瞼に口付けを落とした。

「泣かないでください」
「わ、たし……」
「僕があれほど愛したというのに簡単に離れて行ってしまうなんて薄情な人だ」
「……あ、」
「しかし、外のことを何も知らないあなたが雲雀恭哉の言葉を鵜呑みにしてしまったのも無理もない。僕にも過失があったのかもしれませんね」
「………」
「おや、そんな顔しないでください。怒っている訳ではないのですから」
「……うそ、」
「迎えに来たんです。ああでも、あなたを見ていると無理矢理にでも連れ去ってしまいたくなる」
「あ……」

優しく、私の唇と骸のそれが重なる。触れるだけのキス。唇を離すと目線が交差した。本気だ。本気で私を迎えに来ている。目を逸らそうにも、頬と後頭部に手が添えられていてそれは叶わなかった。情けないことに誰に何を言われようが、結局私は、この男に堕ちてしまうのだ。やっと骸から離れることが出来てきたというのに、こうやって迎えに来てくれたことを心のどこかで喜んでいる。そしてそれは骸にも言えること。互いの息がかかりそうな距離で骸は話す。

「あなたの口から聞きたい」
「………」
「決心しているはずです」
「……」
「さあ早く」







「…………私を、愛して」

目を伏せ微笑んだ骸に心臓が音を立てて鼓動する。そして次の瞬間、先程とは打って変わって深く情熱的にキスをしてきた。舌が絡まり、より激しく相手を求め合う。その愛を、存在を確かめるように。不埒な水音に身体中が火照るのが嫌でもわかる。私はまた同じ過ちを繰り返している。しかしそれさえも今は自分の体温を上げる一つの要因に過ぎなかった。どちらともなく唇を離すとお互いに息を荒くしていた。骸にいつものような余裕はなく、しかしそっと抱き締めてきた。

「…もう、僕の傍から離れないでください」
「、うん」
「約束ですよ」
「…うん」
「以前の約束、覚えていますか?」
「え…っと」
「クフフ、思い出せませんか?いいでしょう。新しく作ればいい」
「ごめん、ね」
「では一つ目、約束を破らない。二つ目、部屋から出ない。三つ目、………」



誰も知らない二つの落下





「ああなんて愛しい。今日からまた共に暮らせるのだと思うと嬉しくてたまりませんよ」



title by 知絵梨
20110307

×