親愛のイドラ

バレンタイン番外編

「なあ、今日何の日か知ってるか?」

染井に言われて一瞬分からなかった。
染井の誕生日は結構前だった筈だし、俺の誕生日は来月だ。

「は?」

思わず返した言葉に染井は、ショックを受けた顔をする。

多分、何かを失敗したことは分かった。だけどそれが何かが分からない。

「今日バレンタインじゃんか。」

バレンタインって、あれだ。
そこまで、興味の無いイベントだった。

高校位の頃までは貰えるとか、貰えないとか、気にしていたし話題にもなったけれど、大学になった今は恋人のいる人間以外はあまりもう関係ない行事に思える。
バイト先でおばちゃんが「みんなで、食べてえ」と袋入りのチョコクッキーを休憩室に置いておくのを食べることがある。
その位の感覚だ。

「えー。」

だけど、悲しそうな声を上げる染井に、失敗したと思う。

「もしかして、染井はチョコ準備してくれたのか?」
「いや。」

答える染井に、少しほっとする。彼だけ準備していてショックを受けるよりいくらかマシだと思う。

「んー。
……ちょっと待ってて。」

ここは俺の部屋で、目の前の男は思ったより甘いものが好きなことは知っている。
だから、少しだけ恋人らしい事をしてもいいかもしれないと思ったのだ。



染井に湯気を立てるマグカップを一つ手渡す。
もう一つは俺の分だ。

マグカップの中にはマシュマロ入りのココアが入っている。
マシュマロは染井のために置いておいたものだ。

「ハッピーバレンタイン。」

言ったそばから恥ずかしくなって、染井から視線を逸らす。

そろりと戻した視線の先で、受け取ったマグカップをじいっと見てそれから一口ココアに口をつける染井を見てから、隣に座って自分のマグカップの中身を飲み始める。

今度は染井がこちらをじいっと見ていた。

「何?」
「甘そうな唇だと思って。」

染井が顔を近づける。
カカオの匂いが自分でココアを飲んだ時より強く香る。

寄せられた唇は染井も甘くて、思わず閉じていた口を緩めてしまう。
ぬるりと入ってくる唇はチョコレートの味がする。

力が緩んで落としてしまいそうになるマグカップを染井は器用に俺の手から受け取ると、コトンと床に置く音が聞こえる。

マグカップを確認する余裕なんてない。

指先を染井の二の腕に伸ばしてつかむと、まるで強請った様になる。

甘い口腔を染井が舐《ねぶ》る。
甘い匂いと、染井に思考がぼーっとしてしまう。

「吉野が一番甘いね。」

口を離した染井が笑顔を浮かべている。
先ほどまでのショックを受けた表情の名残は何もない。

「もっと……。」

染井は笑みを含める。

「それはチョコレートって事?それとも――」

別に俺は染井みたいに甘いものはそれほど好きって訳じゃない。
だから……。

言葉にはしなかったけれど染井が俺の髪の毛をぐしゃっと撫でた。


その後したキスもいつもより甘い気がした。




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