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▼ 都合よくハプニングが起こる話

「――っくしゅ」

 と、くしゃみをひとつ。

 ぐっしょり濡れた上半身を、じわじわと伝っていく水がどことなく擽ったい。寒さにぶるりと体を震わせると、服の裾を濡らす水がぽつぽつと床に垂れ落ちた。水滴はその場でジワリと滲み、褐色の染みを作りながら畳の網目へと吸い込まれていく。

 ぼんやりとその様子を眺めていたものの、ふとしたタイミングで我に返った。いかん、うっかりシミになったりしても、わたしの財布事情的に海軍本部に弁償なんてできないぞ。とにかく、とりあえず場所を移した方がいいかもしれない。このままぐしょ濡れでぼーっと立ち惚けているのもなんだし……。
 と、誰もいないのを言い訳に、わたしはナメクジの如く執務机に這い登り、行儀悪く靴を脱いでその上に鎮座した。机上には書類もないので、ここなら濡らしてもあとで拭いとけば平気だろう。

「……」

 それにしても遅いなあ、たしぎ姉さん。

 濡れて張り付いたシャツが体温を奪ってくるせいで、わたしはもう一度くしゃみを繰り返した。今回は二回連続だ。
 寒い。いや、とりあえず濡れた服を脱いだほうがいいのはわかってるんだけど、たしぎ姉さん、すぐ戻るって言ってたしなあ。それに濡れたシャツを脱いだらこのナマエ、うっかり水も滴るセクシーガールになってしまう。部屋を考えれば誰も来ないはずではあるけど、何かしらハプニングが起こる可能性もなきにしもあらず。やはりこのまま待つとしよう。

「それにしても、仕事終わりにこんな目に合うとは……」

 と、誰もいない内装に向かって独り言を呟いた。改めて言葉にすることでもなかろうが、わたしが現在ビッショビショの濡れ鼠になってしまった原因は案の定たしぎ姉さんにある。

 というのも、そろそろ帰宅しようと本部の下層を降りていたところ、偶然ドジっ娘の代名詞ことたしぎ姉さんに遭遇した数十分前。花瓶の水換えという危険極まりない仕事をしている彼女に無造作に近づいたのが災いし、わたしは華麗なスライディングをキメた彼女の手から放たれたバケツに頭から正面衝突してしまったのである。しかし、突然話しかけたわたしにも非は多く、たしぎ姉さんのほうも近頃あまりドジをしていなかったので油断してしまったとのこと。そこはそれ、絵に描いたようなうっかりっぷりはたしぎ姉さんの魅力だからいいとして。
 それはさておき、さすがにこのまま帰るわけにも行かないということで、人が来ないはずだからとひとまず近くにあった手頃なこの部屋に押し込まれたわたし。そんなこんなで現在は、大慌てで拭くものと着替えと取りに行ってくれてるたしぎ姉さんをこうして大人しく待っているわけである。


「ふー……さむ……」

 肩を抱いて三角座りをした膝に上半身を鎮める。肌と肌が触れる部分が濡れていて気持ち悪いが、体温がある分縮こまっていると暖かい。そのとき、ふと机の端に乗っかっている灰皿が目に入り、わたしは条件反射で顔を顰めていた。

 ――ちなみにこの部屋は、スモーカーさんの執務室だ。

 基本的に海兵さんたちと一緒にあの大部屋で作業しているスモーカーさんも、一応大佐のご身分であるので、ちゃんと彼個人の執務室は存在する。が、しかしその影の薄さったらない。そもそも本部であの人と遭遇すること自体そんなに多くはないのだが、それでも今まで会ったのはほとんどがあの大部屋だったので、実のところわたし、スモーカーさんの執務室に入ったのはこれが初めてだったりする。
 まあでもそう考えると、この部屋には早々人が来ないのだろうし、こうして震える以外やることもないし、やっぱり脱いじゃってもいいのかもしれない。襖なので施錠ができないのが一抹の不安だが、まあ上着だけでも水を絞っておくのはアリだ。うーんでも、着替えを取りに行くのにそんなにかかるとは思えないから、たしぎ姉さんさすがにそろそろ帰ってくるかもしれないしなあ……。

 と、思考が堂々巡りを繰り返していたそのときである。

 いきなりなんの前触れもなく――おそらく考え事に没頭していたせいで注意力散漫になってたんだろうけど――スパン、と、襖は叩き開けなきゃならないルールがあるのかと問い詰めたくなるような勢いの良い音がして。ばっと脊髄反射で顔を上げ、視線を向けた先には――。

「……」
「…………」
「…………あー。ええと、ですね……」

 当然、この部屋に断りも入れず入ってくる輩なんてのはこの人以外にあり得ない。

 咳き込みたくなるほど濃厚な葉巻の煙。背負った巨大な十手、短い白髪、裸の上半身にジャケットを一枚着ただけの、見馴れた柄の悪い大男。背の高いその姿の上方にあるヤクザ顔、目立つのは突き刺すような目つきの悪さとでかい口に咥えた二本の葉巻である。つまり、わたしの同居人、ことスモーカーさんがそこに居た。

「……まァた、お前か」

 彼はそう言うなり大きなため息を吐き出し、ものすごく迷惑そうな顔をする。なんだその態度は。

「なんでそんな嫌そうなんですか、わたしとの出会いは常に狂喜乱舞に足るものでしょう。もっと嬉しそうにしてください」
「はァ……途方もねェ阿呆だな」
「そんな褒めないでくださいよ」

 そんなふうに軽口を叩き合ってる間に、スモーカーさんは呆れ返った様子で敷居を跨ぎつつ後ろ手に襖を閉める。そのまま執務室の壁に十手を立てかけてからこちらに視線を投げかけ、彼は訝しげに眉を寄せた。

「……今日は朝から晩まで快晴のはずだが、どこで雨に降られてきたんだてめェは」
「たしぎ姉さんが花瓶の水換えをしてたんです」
「あァ……大方把握した」

わたしがここにいる理由も特に問われなかったあたり、スモーカーさんの察しの良さが伺える。しかし机に乗っかっていることについても何も言われないのはさすがになんでなんだ。わたしの性格込みで察したと言うことなのだろうか。そこまでくるともはやエスパーである。

 ……それにしてもタイミングがいいんだか、悪いんだか。誰も来ないはずです、とたしぎ姉さんは言っていたけど、まあ当然、この部屋の持ち主本人が来る可能性は少なからずあるわけで。にしたってエンカウント率が奇跡的すぎる気はするが、わたしが知らないだけで、意外とこの部屋も使ってんだろうかスモーカーさん。まあとりあえず、先走って服を脱がずにおいてよかった。もうすぐでわたしの努力により我が家でも回避されてきたラッキースケベが発生してしまうとこだった。危ない危ない。
 かくいうスモーカーさんはひとまずこちらへの興味を失ったのか、執務室の壁沿いにある本棚からひと束書類を引っ張り出し、ぱらぱらと中身を確認している。そんな彼の背を眺めつつ、わたしは再びくしゃみをひとつ。うーむ、いかん、本格的に冷えてきた。

 するといきなり、ゆっくりとスモーカーさんが振り向いた。なんとも恐ろしい形相でわたしを睨め付け、かと思うと体を反転させてこちらに足を向け、え、と思う間も無く、ずかずかとわたしの方へ近づいてくる。手にしていた紙束をばさりと机の濡れてない端っこに置きやって、彼はそのままわたしの正面で立ち止まった。

「ナマエ、お前……」
「な、なんですか」

 スモーカーさんに自覚はないのかもだが、こうして無言で迫られると慣れてるわたしですら普通に怖い。なにせ威圧感が完全に脅迫のそれなのだ。無為にもついつい逃げ腰になってしまう。

 そんな感じのわたしにも断りなく、スモーカーさんは革手袋を抜き取りつつ身を屈めると、ぴたりと頬に触れてきた。珍しくわたしよりもスモーカーさんのが体温が高いようで、やわやわと肌に触れる彼の手のひらをやたらと熱く感じる。
 ……いきなりなんなんだか。頭上を仰ぐと、なぜかますます眉間のシワを深くしたスモーカーさんが目に入った。なんか怒ってる、というか不満げというか。

「……どうしてこんなに冷えるまで放置したんだ」

 ――ああ、どうやらいつもの心配性のようだ。

「あー……手元に拭くものがなくて」
「一体いつからこのまま?」
「えーと、……覚えてません」
「はァ……」

ますます顔を顰めるスモーカーさん。いや、くしゃみの一つや二つで大袈裟な。と思いつつ、確かにめちゃくちゃ寒くなってきたので強くは出れないところである。一応わたしも、季節的にもそろそろ冷える時期なので、あまり体調に良くないのは分かってはいるのだが。

「どうして脱がねェんだ。濡れた服を着たままでいると体温を奪われるのは知ってんだろう」
「いやその、たしぎ姉さんがすぐ戻ってくると仰っていたもので」
「言っとくが、たしぎのすぐは余計焦るせいで倍の時間を食うぞ」
「……なるほど」

妙に納得してしまった。そうなるとここを出た時のたしぎ姉さんは大慌てに慌てていたし、ともするとあと数十分は帰ってこない可能性がある。うーん、となると、やっぱりなにかしら対策したほうがいいのかもしれないけど……。
 そんな風にうんうん頭をひねっていると、頬から離れたスモーカーさんの手にいきなり両腕を取られた。

「なんですか」
「なんですか、じゃねェ。一旦その服を脱げ」

言うや否や、わたしは手首を返され、いきなり執務机の上に上半身を転がされた。視界に天井の面積が広がり、襟首にスモーカーさんの手がかかる。え、待って欲しい、何をする気だこの男。

「ちょ、ちょっと、待っ」
「いいから脱げ」
「いやですよ!」
「なんでだ」
「スモーカーさんがいるからです!」
「おれが来る前から脱いでなかったろうが」

だ、だからっていきなり脱がそうとするか普通! もちろんされるがままで居られるはずもなく、何とか身をよじって抗うが、机が大きく揺れただけで逃げ出すことは敵わない。

「やめ、スモーカーさ……!」
「なにもしねェから暴れるな」
「なにもしないってんならその手を止めてください!」
「お前がやたらと渋るからだろうが」

そう言いながらわたしの前合わせのボタンをするする外していくスモーカーさんの手際の良さ、妙に慣れた手つきで非常に腹が立つ。彼を押し返そうと腕を突き出すも、軽々と両手を纏められて机の上面に縫い止められてしまった。それでも続けたわたしの必死の抵抗もまるで意味をなさず、あっという間にスモーカーさんの右手はわたしの胸からお腹の方へ落ちていく。なんてことだ、まさかこんなところでこんな至上最悪のセクハラを食らう羽目になるなんて思わなかった。

「と、とにかく、やめてください!」
「また風邪を引きてェのかお前は!」
「だからって無理やり脱がすなんて最低です! 女の子の生肌を何だと思ってるんですか!」
「うるせェ、んなもんとっくに見慣れてる」
「んな、さ、サイテ……! っ、あ」

腹部の肌が空気に晒された感覚がして、ぶわりと頬に熱が昇る。一体全体、なんなんだこの状況。この人にとっては子供のお着替え程度の認識なのだろうけど……ああもう、わたしだけ気にしてるのがばかみたいじゃないか。恥でしかない!

「やだ、も、スモーカーさんの変態……ッ」
「誰が変態だ。……いいからこれを――」

 言いながらスモーカーさんはわたしの服から手を離し、自らのジャケットから片腕を抜き取った。その動作に、よもやこれは、ともすれば、スモーカーさんなりの気遣いなのではと察した瞬間。


「よォスモーカー、お前さんの部下からここにいるって聞いて、来たん、だが……」

 見計らったかのようなタイミングで、すらりと襖を引く音と、部屋に響く間延びした声。半ばで途切れたその台詞に、わたしとスモーカーさんが恐る恐る視線を上げると、案の定、そこには硬直したクザンさんの姿が。

「……青キジ……」

 スモーカーさんにのしかかられるような体勢で執務机に組み伏せられたわたしの姿。今にもひん剥かれようとしているびしょ濡れの服と、机に押さえつけられた両腕。ひっくり返った灰皿とばさばさと床に落ちていく書類の音が、わたしの抵抗の痕をもののを見事に表現している。

 つまり、誰がどう見たって勘違い必至な事故現場。

「あーらららら……」

背筋が凍るような、感情のない低い声で呟いて、クザンさんはこれまた無感情にフ、と口角だけを上げた。体感温度が二、三度下がった気がする。まだなにも起こってないのに、この部屋は完全にヒエヒエの能力下にあるらしい。

「男として気持ちは分からんでもねェがな、スモーカー。無理やりってのは良くないんじゃないの」
「アンタ、妙な勘違いを……」
「おいおい、海兵の仕事は連行までだ。弁明は法廷でしなさいよ……情状酌量があるといいな」
「話を聞け、おれァ」
「問答無用だ」

スモーカーさんの舌打ち、と同時に、ばさりと被せられた彼のジャケットがわたしの視界を覆う。やっぱり、貸してくれるならそうと口で言えばいいのに、と思いつつ、目元から葉巻の匂いのする上着を引き下げると。

 その途端、横殴りに打ち込まれた氷塊が、スモーカーさんの頭部へ華麗に炸裂した。油断していたのもあってか、わたしの上から消えたかと思いきや彼はそのまま壁の方まで吹っ飛ばされ、次の瞬間には衝撃音とともに白煙がもうもうと室内に散る。パキパキ凍っていく壁を眺めて頭を抱えたくなった。能力者同士のぶつかり合い派手すぎる、あり得ないところからあり得ない物質が急に出て来るの怖すぎるから止めてほしい。てかこれ、部屋壊滅の責任はこの二人が取ってくれる……んだろうな、そうじゃなきゃ困る。

「えーとあの、クザンさん、別にわたし」

 濡れた服を脱ぎ捨てて机から滑り降り、非常にあったかいスモーカーさんの上着の前を合わせつつクザンさんに歩み寄る。スモーカーさんの心配はしてないが、しかしなんだかんだ上着を貸してくれたわけだし、このおっさんが勘違いしてるとしたら弁明くらいはしといてあげるべきか。

「庇うなナマエちゃん。いきなり襲われてお前さんもショックだったろうが……」
「いや、だからですね、一応……」
「出し抜いてくれるじゃないの。毎日ナマエちゃんと働いてるおれでも、こんなラッキーに遭遇したこと一回もねェってのに」
「めちゃくちゃ私怨じゃないですか」

てかいまラッキーって言ったなこのおっさん。正直なところ、やましさがある分クザンさんのが危険人物な気がするぞ。と胡乱げに見上げると、彼は咳払いをして「つまりだな」と誤魔化すように口を開く。

「まァなんだ……男ってのはふとした時に獣に豹変しちまうもんさ。あまり恨んでやるな、大将の名に賭けて償いはきっちりさせるからよ」
「……なんかもうめんどくさくなってきたんでそれでいいです。好きにしてください」
「ナマエてめェ……!」
「いきなり脱がそうとしてきたのは事実ですし」

体半分が霧状になったスモーカーさんがむくりと起き上がりながら文句をつけてくるが、素知らぬふりで聞き流す。葉巻臭いとはいえジャケットを貸してくれたのは感謝するけど、説明も無しに脱がせにきたのはどうかと思う。
 クザンさんはなぜか勝ち誇ったような顔で腰に手を当て、スモーカーさんに指を突きつける。なぜかいつになくやる気でちょっと気味が悪い。

「観念しろスモーカー、この件はお前の連行で終いだ……ナマエちゃんもこう言ってることだし」
「あの、あんまり大ごとにしないでくださいよ」
「安心してくれ、ナマエちゃんの今日のブラジャーが花柄の薄ピンクだったことは誰にも言わねェよ」
「どこに安心する要素があるんですか。クザンさん、スモーカーさんの10倍最低です」

ちゃっかりがっつり見てるじゃないかこの人。断然罪が重いぞ、多分スモーカーさんがあのタイミングでジャケットを被せてくれたのはクザンさんのセクハラ対策だったんだろうし。まあ別に誰に見られたって嫌なもんは嫌なので、スモーカーさんの罪は全く軽くはならないけど。
 ともあれクザンさんの茶番にスモーカーさんは諦めたように肩を竦め、両手を上げてこちらに歩み寄ってきた。わたしの姿を見て片眉を上げ、彼は薄く開いた口から葉巻の煙を吐く。

「家に戻ったら返せよ」

それだけ言い残して、スモーカーさんはクザンさんに肩を押され、今のは同居自慢かと問い詰められつつ部屋の外へ連行されていったのだった。



ぱーすたー!様より『不慮のどき☆ラッキーすけべの現場を大将の誰かに見られしょっぴかれる煙と誤解を解こうとしないでもない夢主』のリクエストですが、そんなに不慮でもラッキーでもない話で申し訳ないです。シラフの夢主のガードが硬くてなかなかラッキースケベが起こらなかったのでこんな形になりました。リベンジしたさの残る話です、愉快なリクエストありがとうございました!


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