バレンタイン・デイ


 white day 1/2

 ――見てしまった。

「ねえ」
「……あ?」
「あたしのこと、覚えてる?」

そう、わたしは見てしまったのだ。

「バレンタインのお返し、くれないの」

見知らぬ女性に言い寄られているスモーカーさんの姿を。



 この衝撃的な現状を再確認しておこう。

 それはある日――いや、ここはあえて3月14日と明言しておく――の夕方のこと。彼は壁に背を預け、まばらな通行人を避けて道端に立っていた。陽を受けた半身に落ちる影が、石畳の上で細長く伸びている。黙々と煙を吹かせる黄昏れた横顔は、見ようによってはハードボイルドでイカした相貌だ。沈んでゆく夕焼け、シルエットの街並み、何かを待っている謎めいた男……恋に落ちるには悪くないシチュエーションである。まあもちろん、その男とは仕事終わりのスモーカーさんであるし、待たせているのも例によってこのわたしであるのだが。
 それはさておき彼の正面に立つのは、期待するような可愛らしい上目遣いで彼を見つめるひとりの女性だ。高い位置に結い上げたぴょこぴょこ揺れる髪の毛、ふんわり広がったスカート、庇護欲を誘うきゅるんとした仕草。絶妙なあざとさで、ついついとスモーカーさんの服の裾を引いている。

 なななんとスモーカーさんがアタックされているのだ。女の子に、あのスモーカーさんが、だ。ちょっとした買い物を終えて戻ってくるなり千載一遇のこんな場面に出くわしてしまえばお邪魔するのも憚られるというもの。出るに出られず建物の影に隠れて見守ることにしたわたしである。そこの屋台で肉まんを売っているおじさんが変な目で見てくるが、この大事件を前にしては些細なことなのだ。モーマンタイだ。

 しかし憎いね、スモーカーさんってば。こんな可愛い女の子を落とすなんて隅に置けないんだから!

「ああ、すいませんうちの娘が……!」
「やーだ! ママは待ってて!」

 ……。

 まあ、事実はそういうことである。

 スモーカーさんに詰め寄るのは、見たところ5か6歳くらいの小さな女の子だ。そしてそれを困り顔で引き止めるお母さん。おませなお嬢さんには手を焼いているご様子で、無言で見下ろすスモーカーさんの顔色をちらちらと伺っておられる。まああの人って泣く子も黙る悪人ヅラだし、存在自体がお子さんの健康に悪いし不安になるのもしょうがない。

「海軍ほんぶ、に送ったの。届かなかった?」
「……あァ、こないだの迷子か」
「! 覚えてたの?」

わたしも思い出した。そういえば一ヶ月前のバレンタイン、スモーカーさんに届いたお菓子の中に、子供の字でありがとうと書かれたメッセージがあったはずだ。どうやらこの子が送り主だったらしい。

「こら、海兵さんにご迷惑でしょう! お礼にと差し上げたのにねだるなんていけませんよ。ああ申し訳ありません、うちの娘が……」
「いや、……構わねェ」

と、スモーカーさんはポケットに手を突っ込みながらその場にしゃがみ、女の子と視線を合わせた。それなりに圧があるはずのだが、少女は物怖じせずに大きな目をぱちぱちと瞬かせる。

「いいか、嬢ちゃん」
「なあに?」
「もう迷子にならねェって約束できるか?」

え、なんか予想外の発言だ。女の子もキョトンとしたまま、首を斜め60度くらいに傾けている。スモーカーさんはじっと彼女を見つめ返した。

「今も勝手におれの方に走ってきたろう。あんまり親御さんを不安がらせちゃならねェよ。一人で行くときにゃ一言断ってからだ。次から気を付けられるか?」
「……うん、気をつける」
「よし、いい子だ。菓子は届いてたぜ、ありがとな」

彼は僅かに表情を緩め、少女の手のひらにコインを5枚ほど握らせた。「今から店入んだろう、好きなモンを買うといい」などと付け足して。

 おお……噂には聞いていたけどスモーカーさんが子供に優しいというのは本当だったらしい。お返しが小遣いというのは無骨すぎる気もするが、まあ下手なものをあげるよりいいのかなこの場合。てかあのスモーカーさんにあんなフランクな対応ができるとは……いつもいい人ではあるのだが、流石にギャップがすごい。少なくとも普段は絶対に見せてくれない姿だ。

「お母さん、先にお店入ってるね! お菓子の棚のとこにいるから!」

 と意気揚々と駆け出した女の子。一言断りつつもお母様の返事を待たずに店内に消えていった。一応、スモーカーさんとの約束を守っているつもり……なのだろう。腰を上げるスモーカーさんの向かいで、その母親は困ったような、けれどどこか嬉しそうな微笑みを浮かべていた。

「すみません、あんな。私が叱るべきところを……」
「仕方ねェよ、落ち着きのねェ年頃だ」
「……ありがとうございます。旦那を亡くして以来、あの子には色々と我慢をさせてしまっていて、なかなか強く言えないのです。母親として不甲斐ないのですが……」

 ふーむ、苦労してらっしゃる。盗み聞きしたところ、どうやらあの奥方は旦那さんに先立たれて女手一つであの子を育てている、いわゆる未亡人であるらしい。確かにあの雰囲気、物憂げでどことなく危うい感じだ。耳に髪をかけるたおやかな仕草がなんとも言えぬ憂いを醸し出している。

「……旦那は海兵か」
「ええ。一年前、海賊船との交戦で帰らぬ人に」
「そうか」

そんな気の重くなるような話を聞いても、スモーカーさんは同情も励ましもしなかった。彼らしい冷めた対応だが、あれはあの人なりの優しさでもあるのだろう。ううむ、大人だ。
 さて、少女に絡まれるスモーカーさんの珍しい姿も拝めたことだ。あんまりこうしていても仕方ないし、屋台のおじさんの視線も痛いしでそろそろ出て行くか――と、思った矢先、スモーカーさん達に動きがあった。

「あなた様を見ていると、亡き夫のことを思い出します」

 なにやら意味深な発言をしつつ、その女性が、なんとスモーカーさんの手を取ったのだ。思わずぎょっとして動向を伺う。彼女は間髪入れず、するりとスモーカーさんとの距離を詰めた。

「あの、良ければお食事などご一緒しませんか? あの子も懐いているようですし」
「いや、おれは……」
「よければ」

おそらく断ろうとしたスモーカーさんの言葉を強い口調で遮り、しなだれかかるようにして微笑みを浮かべる奥さま。え、なんだろう。アダルティなムードにドキドキしてきた。会話の流れもなんとも妖しげな感じに――

「お礼をさせてください。毎晩、本部から帰られるときに、この道を通っていらっしゃいますでしょう。その、……あなた様をよく、目で追っておりました」
「……」
「突然、申し訳ありません。けれど旦那を亡くして一年、私もそろそろ立ち直らねばと思うのです。彼を失った傷を癒すためにも……と」

 ま、ま――まじか。あの女の子ではなくこっちが本命だっただと……!

 すごい、あのスモーカーさんがほんとのほんとに冗談抜きで言い寄られている。しかも自分の生い立ちも娘もダシにするとはかなりの強かさ、女として尊敬してしまうぞあのご婦人! なんてことだ、こりゃ大変だ、スモーカーさんにとうとう春が来た――

「悪ィが」

 わたしの動揺のさなか、スモーカーさんは葉巻に手をやる振りをして女性の手を払い、全く悪びれた様子もなく一歩身を引いた。そのまま彼は大義そうに口を開く。

「断っておく……あんたの期待には応えられそうもねェんでね。次を選ぶなら、海兵なんぞいつ死ぬかもわからねェような奴ァ止めておけ」

うわあ、……うわあ。すっごいこと言ってるよスモーカーさん。その上自分が好かれていることも、女のあしらい方もよくご存知って面だ、腹立つ。
 スモーカーさんはそれ以上言葉を交わすつもりはないらしかった。「ですが」と食い下がる女性から興味を失ったかのように視線を外し、彼はあらぬ方向を見て呆れ果てたため息を吐いた。ところでそのあらぬ方向、というのは多分わたしが隠れている辺り、つまりこちらにスモーカーさんの視線が向いているのである。……うん?

「それから――ナマエ!」
「!?」

 ば……ばれてた。

 突如、ずかずかと歩み寄ってきたスモーカーさんに、片腕を掴んで引き起こされた。たたらを踏んで物陰から飛び出すと、こちらを見ていたご婦人が「え……」と困惑の声をあげる。大変申し訳ない。いや違うのだ、出歯亀ってわけではないのだ。たまたま、そう偶然見ちゃっただけなんだわたしは。てかあの屋台のおじさんはいつまでこっちを見ているつもりなんだ、見世物じゃないぞ。

「てめェいつまでそこで隠れてる気だ」
「そんな、もう引きずり出されましたよ今」
「……面白がってんだろう、お前」
「そんなことないです。舞い込んできた色好いお話のお邪魔なんてわたしにはとてもとても」

と言えば、スモーカーさんはやれやれと諦めたような顔でこちらを見てくる。なんでだ、確かに覗き見はしたけどわたしは気を遣っただけで、そんなばかにされるようなことをした覚えはないのだが。スモーカーさんは再度、ため息を吐き出した。

「……見ての通り、手のかかるガキは一人で十分だ。お互い苦労するな」
「なっ、誰が手のかかるガ――」
「じゃあな」

スモーカーさんは問答無用とばかりにわたしの肩を軽く掴むと、もうあの奥方には目もくれず、体を翻して歩き出した。てかわたし貶される必要あったのか、不本意すぎる。あの奥方もこんなの納得できないだろう……と気がかりで背後を振り返れば、ひらひらと片手を振る彼の腕越しに、

「え、ええ……」

と、理解が追いつかないような、混乱をめいっぱいに貼り付けたような表情が見えたのだった。


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