バレンタイン・デイ


 afternoon

「えへへ……」

 書類の壁の向こうから漏れ聞こえるのは腑抜け切った笑い声。罫線の上に必須事項を書き入れつつ、舌に馴染んだ葉巻の煙をため息代わりに吐き出した。向こうも聞き届ければいい加減察するかと思ったが、存外に紙束の壁は厚いようで、浮かれた含み笑いは相変わらず忍ぶ気配すら見せやしない。

「ふふ、……」

色々と緩みすぎている。初めのうちは大目に見ていたものの、気づけばかれこれ三十分ほどこれだ。笑みを堪える表情筋すら失っているのではないだろうか、おれの隣にいるこの部下は。
 無論、この浮き立ち切った空気はおれの横からばかりするわけでもない。情けないことに、海兵の間では本命だの義理だのと、部屋を見渡せばそこら中に一喜一憂飛び交っているのである。今更ながら、去年もこの日は大抵の海兵が浮かれていたことを思い出し、益々もって頭が痛い。海軍本部が聞いて呆れる。何だというんだこのザマは。

「ふう……」

 一息入れて平静を取り戻したのだろうか、喝を入れるタイミングを探っていたところで、ようやくたしぎの不気味な笑い声が止んだ。よし、可能ならばそのままおれの手を煩わせる前に大人しく仕事へ戻――

「……えへ――」

「たしぎてめェ、いい加減にしろ!」
「はッ!? スモーカーさん!」

 大袈裟に驚いたたしぎは後ずさると同時に椅子ごとよろめいて、あたふたしながら体勢を整えるべく立ち上がった。視線をやれば、その手には丁寧に包装された小袋が握られている。朝も見たそれは、おそらくナマエの手製だ。量産されていたものよりも少し大きく見えるが、デザインには見覚えがあった。

「す、すみません、ぼうっとしてました」
「見てりゃ分かる。今は仕事中だが自覚はあるか?」
「うう、はい……」

 項垂れつつ浮かせた腰を下ろ……そうとして、先ほど立ち上がった反動で後ろに下がっていた椅子からずるりと滑り落ちてすっ転んだあと慌てて座り直すたしぎ。見るからに萎んでいく彼女の意気に、日も日であるから仕方ない、そう落ち込まれても困るとフォローしてしまうあたり、おれも存外甘いらしい。

「で、何だったんだ。さっきの気色悪ィ笑い声は」
「い、言い過ぎですよスモーカーさん。ほら、今日はバレンタインですし……ナマエさんと交換したんです、チョコレート菓子」

打たれ強いといえば聞こえはいいたしぎは、袋を掲げつつ弾けんばかりの笑顔を取り戻してそう言った。そしてこの浮かれっぷり、やはりナマエ関連だったらしい。反応だけ見れば、まるで意中の相手とデートの約束を取り付けたかのようなそれだ。

「手作りのお菓子を交換なんて、すごくお友達っぽいですよね。ナマエさんのなんて絶対美味しいですし……ふふ、幸せです。私のも気に入って下さるといいんですけど」
「……お前が食えるモン作れるたァ知らなかったな」
「うっ……そ、それがですね……」

冗談のつもりで口にしたのだが、たしぎは的を射られたように肩を落とした。刀を手放してしまえばたしぎが壊滅的に不器用なのはよく知るところであったが、どうやら本当に食えるモンは作れなかったらしい。

「頑張って作ろうとしたんですけど、レシピはちゃんと見ていたのに、何故かおかしなことになってしまって……結局、市販のをお渡ししました」
「だろうな」
「ス、スモーカーさん、酷すぎませんか!?」

まさか酷過ぎるということはない。詳しい話は聞きたくもないが、おかしなことというのはおそらく黒くなっただとか白くなっただとか、最悪動き出したとかそんなものだろう。経験則からしてそうだ。ある意味天災的な腕前ではある。
 たしぎは暫くもごもごと弁明を口にしていたが、おれが無視して書類仕事を再開するうちに、やがて落ち着きなく押し黙った。この辺りで話題を切り上げるつもりだったが、しかし視界の端に映る彼女の様子を見るにまだ話し足りないらしい。おれの方を眼鏡のレンズ越しにちらちらと見やっている何か言いたげな表情は、決していい予感のしない好奇心に満ちていた。

 そして案の定、たしぎが切り出した次の台詞に、おれは顔を顰めることとなる。

「あのう、それで――スモーカーさん、ナマエさんからどんなのを渡されたんですか?」

「……」

 なんでまた、ここまで期待いっぱいの眼差しでおれを見るんだ、こいつは。なんとなくそう尋ねられるような気がしていなかったと言えば嘘になるが、とはいえ有り難みの無い問いではあった。大体、おれがナマエから言い渡されたのは、菓子はやらんという妙な宣言だけだというのに。しかしおれが黙り込んだのを良いことに、勢い込んだたしぎはますます食いついてくる。

「や、やっぱり特別製ですか? ナマエさん、私や青キジさんや、特にお世話になった方にはちょっと凝ったものを作っていると教えてくれたんです! 海兵の皆さんたちにはチョコレートで固めた雷おこしのようなもの……曰く"ブラックサンダー"と言うらしいんですが、そちらを差し上げたそうなんですけれど」
「……菓子にしちゃずいぶん無骨なネーミングだな」
「そのまんまですよね。ナマエさん曰く『義理チョコと言えばこれですよ』とのことですけど、私もよく分かっていません。まあそれはさておき、それで、スモーカーさんはどんなものを……?」

……それを聞いて一体どうする、と返答の手間に辟易する。この手の話に女という生き物は理屈抜きで熱を上げるものではあるが、理解はできても共感は生涯出来そうにない。無論、したいとも思わないが。
 そんなことを考えつつ、たしぎの期待を裏切る台詞とともにおれはため息を吐き出した。

「ナマエはおれにゃ渡さねェよ」
「……え?」

 きょとん、と間抜けな表情が浮かぶ。しばし頭を巡らせてからようやくおれの言を理解したのだろう、たしぎは慌てて何か失言したかのように口を押さえた。

「す、すみません、無神経なことを……」
「オイ、何か勘違いしてねェか」
「えっ? え、待ってください、一体どういうことですか。だってナマエさん、義理チョコだって話したことのある方にはほぼ全員渡してるんですよ。スモーカーさんだけに渡さないなんてこと……」

そこでふと言葉を切り、たしぎは何か思い至ったように眉尻を下げた。

「もしかして、また喧嘩したんですか?」
「違ェよ、多分な」
「えっ、そんな……じゃあ、何でなんです?」

そんなことはおれが聞きたい。

「よく分からねェが、今朝おれには渡さねェと宣言した挙句、菓子やら花やらを寄越せと言い出したんだ。ありゃ一体何がしてェんだか……」
「あ、聞いたことありますよ。ある地域では、バレンタインデーは男性から女性に贈り物をする日ともされるとか!」
「ナマエは他の奴らには配ってんだろう。おれにだけさせるってのも変な話じゃねェか」
「ううん……確かに、そうですね」

実際、ナマエの機嫌は朝から非常に良かったし、件の発言の際にも悪意は感じられなかった。……いや、ナマエは確か、「渡せない」と口にしていたのだったか。

「ま、まあナマエさんにも何か考えがあるんですよきっと……! それでスモーカーさんは何を差し上げるんですか?」
「今日はバレンタインだろう。素直に倣うつもりではあるが」

今朝、贔屓にしている店に寄り、運良く手に入ったものがある。嫌がらせのように謎を押し付けてきたナマエに対する意趣返しとしては上等だろう。思わしい反応をしてくれるかどうかは怪しいところだが、あいつの身の丈に合わないことは確かだ。

「わあ……喜んで頂けるといいですね」

にこにこと能天気な間抜け面で笑うたしぎ。いい気なものだ。浮かれきったその面に喝を入れてやりたいのを堪え、おれはゆっくりと葉巻の煙を吐いた。


[ back to title ]