バレンタイン・デイ


 morning

「お菓子ください、スモーカーさん」

 朝、朝食を口にするおれの向かいに腰を下ろし、いただきますと両手を合わせたかと思うと、ナマエは突拍子もなくそんなことを言い出した。なんの説明も付随せず投げられたその一言に、自分の口から漏れたのは随分と分かりやすい疑問符だ。

「……あ?」
「あとはロマンチックに花束でも良いです」
「…………ナマエ」
「重いのはやですけど、スモーカーさん趣味いいんでアクセサリー類も悪かないですね。それから……」
「だから、何の話だ」

 ほとんど遮るようにそう尋ねれば、今日がなんの日かご存じないんですか、とナマエはその丸い目を何度か呆れたように瞬かせ、やれやれと生意気なため息を吐き出してみせた。

「バレンタインですよ、バレンタイン・デイ!」

さも当然のように告げつつ小さな肩をすくめ、彼女は左手に茶碗、右手に箸を携えて、いそいそと焼き魚の身をほぐし始めた。脂が乗った旬の鰆は、箸先で開かれた隙間からふわりと芳しい湯気を上げている。垂涎しかねない勢いで摘み上げ、頬張り、噛みしめるように咀嚼するナマエの顔は幸福そのもので、小動物のそれを彷彿とさせた。口にすれば、こいつはまた腹を立てて姦しく反論するのだろうが。

 しかしバレンタイン、か。そんな話題は度々耳に入ってきてはいたものの、聞き流すばかりで特に興味はなかったので、意識的に把握したのは今になってのことになる。おかげで今朝からキッチンに香ばしいカカオと甘ったるい砂糖類や乳製品の匂いが漂っていた理由にも、ようやく合点が行った。そういえば先月バレンタインの話題が出た際も、「どこの世界でもやることは同じなんですねえ」と謎の目線からしきりに感心していたが……なるほど、つまり浮かれているのだ、ナマエは。
 まあ、そこまではいい。こいつが浮かれようが浮かれるまいが、分かりやすい商業戦略に便乗するがしまいが、おれには直接関わりのない話である。が……何でおれが物をねだられなければならないのか、その点が全くもって不可解だった。

「もう、聞いてなかったんですかスモーカーさん」

 おれの心象を知って知らずか、ナマエはようやく説明を補足する気になったらしい。味噌汁を飲み下してからつらつらと内容を継ぎ足し始めた。

「わたし、海軍本部の皆さんにチョコレート菓子作っていくって話、昨日したじゃないですか。でも、よくよく考えたらスモーカーさんにはあげられないので、代わりに貰っておこうと思いまして」
「……てめェの言うことは大抵よく分からねェがな、それにしたって今回は輪をかけて支離滅裂じゃねェか」
「それは単にスモーカーさんのお察し能力が低いんです。ともかく、わたしはスモーカーさんにだけはチョコレートを差し上げません。悲しかったら泣いていいですよ」

……。こいつは何を言ってんだ。

 説明が分かりにくい以前の問題だろうが。特にこいつは、どこまでが本気でどこまでが冗談なのかはっきりしないあたりタチが悪い。とはいえ、まさかここまで訳のわからない話を展開されるとも思わなかった。疑問を二つばかり増やされた上に、結局、おれが貢がされようとしている理由も謎のままだ。当然納得の仕様もない。おれになら渡すだろうと期待していたわけではないが――

「あ、そろそろ時間やばいですね」

 黙々と朝飯をかっ込んでいたかと思えば、掛け時計を見上げ、慌てたように腰を浮かせるナマエ。しかしやばいも何も、まだ時刻は6時半過ぎ、おれが出るのにも早過ぎるくらいだ。ナマエの場合、普段家を出るのは昼前頃だと記憶していたが。

「……ずいぶん早ェな」
「ああ、はい。わたし今日、お菓子配るんで早めに出るつもりだったんです。食材も充実してるし洗濯物も少ないので、家事の方は多分問題ないと思いますけど……大目にみてくれます?」
「そりゃ構わねェが」

……別に、彼女の仕事について言及したつもりは無かったのだが。ナマエはこういうところでやたらと律儀な性格をしているせいで、毎度のことながら妙に毒気を抜かれてしまう。

「ありがとうございます」

積み上げた器を持って立ち上がったナマエが告げた感謝のセリフにも含むところは何もなく、唖然とするほど率直なものである。先ほどの会話の流れからして気付かぬうちに腹立たせていたのかとも思ったが、この態度からしてそういう様子では無さそうだ。
 となれば益々謎は深まるばかり、菓子が欲しいかと聞かれれば不要ではあるのだが、おれにだけ渡さないというのは一体どういう理屈なのだろうか。こいつの思考回路なんぞ予想するだけ無駄な話だが、ナマエに説明する気がないのであれば推察するほかない。とはいえ、やはり彼女の言動はどこまでも謎だ。

「今日は早めに帰宅する予定なので、朝食の洗い物流しに置いといてくだされば大丈夫です。水に漬けといてくれると助かります。あ、あと余裕があればテーブルだけ片付けといてもらっていいですか? 」

 すたすたとキッチンの方へ移動し、食器を流しに置いたナマエは、冷蔵庫の中身を取り出しながら事務的に口にする。了承の返事をすると、彼女は「布巾はそこにあるので」とシンクの脇を指し示し、またがさごそと冷蔵庫を漁りだす。視線をやれば、小分けの袋が詰め込まれていく大きな紙袋が四つ、目に入った。……どれだけ配る気なのだろうか。少なめに見積もっても、おれの部下の人数ぶんは軽く超えそうな勢いだが……クリスマスに引き続き忙しのないことだ。

「そいつは幾ら何でも、多すぎねェか」

と尋ねると、ナマエの平然とした声が飛んでくる。

「お世話になった方へのお礼を兼ねてるんですもん。これでも計算して減らしたんですよ」
「そうか……」
「スモーカーさんのぶんをひとつ」
「……」

 どうにも、その世話になった方とやらに、おれは含まれていないらしい。その上貢ぎ物をせびられている。普段遠慮がちなナマエが素直に欲しがるのならいくらでも甘やかしてやろうとは思うのだが、しかし動機への興味はある。用意させられるからには、それなりにちゃんとした解答を備えてもらいたいものだが。

「んじゃ、あとはよろしくお願いしますね」

 ナマエがキッチンから歩み出て、玄関ホールに続く扉の前で振り返った。非力な肩に担ぎ上げた紙袋は身の丈に合わず重たそうで、よろめき方からしてひどく危なっかしい。

 ……おれを急かすかして手伝わせりゃいいだろうに、と思う。結局本部まで行くのは同じ、こちらからしても大した手間ではない。だがナマエが自分から助けを求めることはないことを、おれは知っている。こちらから言い出せば図々しいほどあっさりと受け入れるくせに、こういった場合の手助けを彼女が自ら頼んできたことは一度としてない。自立しているのは悪いことでは無いのだが、頼り方を知らないその姿勢は、どことなく危うく映る。果たしてその自覚があるんだか、無いんだか。

「スモーカーさん、ちゃんと施錠しといてくださいね。それでは、いってきます!」

 意気揚々と宣言した彼女の背中が、のそのそと扉の向こうに消えていく。ナマエを見送る、というのはなかなか無い光景だと内心珍しいと思いつつ、おれは「転ぶなよ」と子供に向けるような言葉を半分本気で口にするのだった。


[ back to title ]