special


 Prologue

「……さむい」

 つん、と刺すような空気に鼻の奥を突かれ、のろのろと冷えた瞼を持ち上げた。朝方、まだかなり早い時間のため日は昇っておらず、窓の外はぼんやりと仄暗い。外気温は相当低いのだろう、白く靄がかったガラスにはびっしりと霜が降りている。
 ……これ、拭き掃除するの、めんどくさいんだよなあ。なんて考えつつ、わたしはぬくぬく暖かい布団の中で数分時間を無駄にしてから、朝ごはんを作らねばと身を奮い立たせ、なんとかベッドから這い出した。それに、今日は年に一度の特別な日――やることがたくさんある。きっと忙しくなりそうだ。

 年末も間近の12月――わたしにとっては、こちらに来てから初めての冬である。冬島ほどではないとはいえ、この時期になるとマリンフォードも随分と冷え込むらしく、聞いた話では近いうち雪も降るとか振らないとか。比較的寒がりなわたしには、そうありがたみのない話だ。

 がたがた震えつつインナーにシャツにオーバーサイズのセーターを重ね着して、袖に指先を引っ込める。絡まる髪に櫛を通してから、冬仕様のもこもこスリッパを引っ掛けて、そうっと寝室の扉を押し開けた。
 リビングは同じく薄暗く――どうやら珍しく、スモーカーさんより早起きしたらしい。ソファに歩み寄ってひょいと覗き込むと、普段より幾分か眉間のしわの少ない寝顔が目に入った。んふふ、なんとなく優越感。しかしこの寒いのに、ブランケット一枚で凍え死んだりしないのだろうかこの人。見るからに寒いので、また厚手の布団が要らないか聞いてみるとしよう。全く、わたしはスモーカーさんのお母さんか何かか。こんなめんどくさい息子を持った覚えはないのだが。

 ソファから離れてストーブのスイッチを入れ、ダイニングとキッチンだけ明かりをつける。冷蔵庫をぱかりと開き、昨日準備した諸々がきちんと揃ってるのを確認して、朝ごはんの食材を引っ張り出した。買い込んでおいたフランスパンを斜めに切り落とし、オリーブオイルを塗って薄切りベーコンを敷き、その上にピーマン玉ねぎ小さく切ったトマト、キノコにブロッコリーにコーンなどなど、そんでもって最後にチーズを乗せてオーブンへ。今日はリッチな日なので手間も食材も惜しまないのである。というか野菜は夜のうちにあらかじめ茹でておいたのでいうほど手間ではないのである。同じく作り置きのポタージュスープをぬくめて、簡単にサラダを盛り付けて、コーヒーは食後に用意するとして……よし、そろそろスモーカーさんを起こさないと。

「……随分、張り切ってんな」

 っと、びっくりした。いつの間にやら起き出してきたスモーカーさんはキッチンを彩る華々しい朝食を眺めやり、呆れたような感心したような様子である。ほんの少し乱れた白髪を無造作に掻き上げつつ、彼は気怠げにダイニングチェアに腰を下ろした。

「おはようございます、スモーカーさん。ていうかそんなに張り切って見えます?」
「……珍しく、昨晩の残りの味噌汁じゃねェしな」
「なるほど。まあわたしが張り切るのも無理なからぬことですよ。だってほら、今日明日は世間も浮かれる特別な日じゃないですか」
「ガキじゃあるまいし、このご時世に浮かれるも何も……いや待て、お前まだ夜中にプレゼントを運んでくる老人の存在を信じてるクチじゃねェだろうな」
「スモーカーさんは相変わらずわたしをなんだと思ってるんですか。儚くもわたしは十になる前に宅配のお兄さんからアマゾンの箱を受け取って夢を見るのを止めた可哀想な子供です」

 軽口を叩きつつ、焼き上がったピザトーストを盛り付けて胡椒を振る。よそったスープやお皿もろもろをスモーカーさんに受け取ってもらって、戸棚からスプーンやらナイフやらフォークやらを取り出してキッチンを回り込み、よいしょと食卓に腰を下ろした。

「いただきます」

 とろとろのチーズにはふはふ言いながら歯を立てると、よく火の通ったパン生地が、ぱり、と芳ばしい音を鳴らした。うーん、美味しい。湯気の立つスープを口に運べば、素朴な舌触りとともに暖かさがじんと染み込んでいく。こちらも我ながらいい出来だ。室内もようやく暖まってきたし、冷えていた体もほかほかとしてたいそう心地がいい。

「それで、今日は――」

 二人して黙々と食べていると、ふとスモーカーさんが切り出したので、口の中身を空にしてから顔を上げる。どうやらちょっと思案げなご様子だ。

「特に何も予定してねェが、ナマエ、お前……普段通りでよかったのか? 日頃から負担にゃ見えねェが、とはいえ夕食も自分で用意するんじゃ羽も伸ばせねェだろう」
「なんですか、珍しいですね。別に構やしませんよ、浮かれるのはわたしの勝手ですし、スモーカーさんに付き合って頂かなくても」
「だが、まァ……折角の日だろう。節約してるわけでもねェし、たまには外食でも良かったんだが」
「あはは、こういう日のディナーのお誘いは恋人にしてあげるもんですよ。相手が相手でお互い虚しいですし、家で慎ましやかにするのが一番です」

そう笑いながら返すと、スモーカーさんはなにやら言いあぐねて、しかし結局なにも言わずに閉口し、辟易したような溜息を吐き出した。なんだその反応は。よく分からないが、やっぱりその歳になって恋人ないネタでつつかれるのは地味に苦しいのだろうか。いや、この人に限ってそんなんではないと思うけどさ。
 とはいえ、常にも無いスモーカーさんの心遣いが身に染みるのも事実だ。テーブルに頬杖をついて彼の顔を覗き込みつつ、わたしは感謝の気持ちを込めて口を開く。

「そんなに気い使わないでくださいよ。そりゃお店のものには負けますけど、今日は腕によりをかけて立派なディナー用意しますから。なんとケーキもあります。ブッシュドノエルです」
「……別に、お前の作るもんに不満があるわけじゃねェよ。ちゃんと期待してる」

ふ、と呆れたように笑って、スモーカーさんは机に乗り出したわたしの髪をさらりと撫でた。今日のスモーカーさん、いつもに増して優しい気がするのは、やっぱりこんな日だからなのかな。彼は起きてから葉巻を吸っていないので匂い移りの心配もないし、特に不満もなく撫でられておく。
 それからスモーカーさんが手を引っ込めるのに合わせて身を起こし、朝食を再開した。あんまりのろのろしてると冷めてしまう。それに、今日は午前中にやることがまだまだたくさんあるのだ。スモーカーさんはスープに口をつけつつ、よく食べるわたしの方をぼんやりと眺めている。

「しかし、ケーキってのは昨日準備してたやつか」
「ん、そうですよ、見てたんですね」
「それにしちゃァ、量が多すぎねェか」
「ああ、あれ差し入れるんです。日頃お世話になってるので、お礼のプレゼントにですね」

 はた、と眉を寄せるスモーカーさん。

「……まさか、全員にか?」

彼の呆れ声を聞きながら、えへへと誤魔化すように笑い返す。わたしは浮き立つ気持ちを抑えきれずに、思わず弾んだ声で口にするのだった。


「――なんてったって、クリスマスですから!」




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