No Smoking


▼ 22-1/2

 湿気った空気が頬を撫でる。頭上に広がる灰色の空は、今にも滴り落ちそうなほどの湿気を孕んでいる。まだ雨が降り出す様子は見受けられなかったが、皆外出を避けたのか早朝の町並みは閑散としており、通りを行く人もまばらだ。
 そんな街の景色が視界の端へと滑っていく。息が上がり、心臓がどくどく高鳴り、背中はほんの少し汗ばんでいる。通い慣れた路地を抜け、普段なら足を止める雑貨屋の前も通り過ぎ、わたしはただひたすらそびえ立つ海軍本部へ急いでいた。息苦しいくらいたっぷりと水蒸気を含んだ空気のせいか、靴の裏で蹴りやった石畳の感触はいつにも増して鈍く纏わり付くようで、今はそれが少し煩わしい。わたしは、まだ薄暗い朝の街を駆けていた。

 今朝目を覚まして、わたしはひどく混乱した。なにせ覚醒して跳ね起きた瞬間、真っ先に認識したのはベッドのスプリングの弾力と、捲りあげた掛け布団の暖かさと、見慣れた自室の光景であったのだ。リビングのソファでもなく、はたまた最後に意識の途絶えた玄関でもなく、わたしが眠っていたのは自分の部屋のベッドの上。そこに至るまでの記憶がないせいで昨晩のあれは夢だったのかと錯覚さえしそうになったが、部屋とわたしの服に染み付いた葉巻の残り香がその考えを否定した。

 ……つまり、スモーカーさんがあのあと、わたしを部屋まで運んでくれた、と考えるのが道理なのだろう。

 思うに、スモーカーさんは結構ばかなのだ。そして冷たくなりきれないお人好しだ。あれだけ散々やっておいてなんでこう、ちゃんとしちゃうんだろう、あの人は。わたしを突き放したいならあのまま玄関に転がしておけばよかったものを、布団は律儀に被せてくれてたし、玄関で脱げてしまったはずのスリッパも揃えて置いてあったし……。あれ、というかスモーカーさんに寝室へ入られたの、おそらくあそこがわたしの部屋になってからは初めてなんじゃなかろうか。なんてことだ、あの匂い源に乙女の寝室(完全消臭)への侵入を許してしまった、不覚である。
 ともあれ、あんな目に合ったのに存外気分が悪くないのは、昨晩快眠できたおかげだろう。睡眠時間は短かったとはいえ、お腹いっぱいにわたしの快眠剤であるふわとろ煙に満たされてしまったのでは仕方のないことだ。すごい苦しかったのは確かなので、別にあの暴挙を許しているわけではないけど。

 現状を把握したあとは、とにかくすぐにでもスモーカーさんに会わなくては、と思った。また余計なことを考える前に、その衝動に従おうと。そんなわけでわたしは起きがけに最速で身支度をし、昨晩の夕食の残りを胃に詰め込んで、出来る限りの消臭作業を久々に済ませ、その他朝の支度もおざなりに――こうして、慌てて自宅を飛び出したわけである。

 街を抜け、海軍本部下層へ繋がる巨大階段の前まで辿り着いたので、立ち止まる時間も惜しいと歩調を緩めることなくぜいぜいはあはあ言いながら登っていく。次こそは逃がしてやるものか。昨日話して確信したのだ――寝室まで運んでくれた件も含め――スモーカーさんは相変わらず、わたしが心配でたまらないということを。怯えることなどなにもない。どうせ今頃、わたしに手を上げた罪悪感でいっぱいのはずなのだから、あの人は。



「スモーカーさん、いますか!」

 バタン、と元気よく、スモーカーさんがいるはずの大部屋の扉を押し開く。昨日あれほどの重圧があったのに、両開きのドアはばからしいくらいやすやすとわたしを受け入れた。
 呼吸を整えつつざっと部屋全体を見回すと、まだ朝早いせいか海兵さんはまだ一人も見当たらず、部屋はしんと静まり返っている。積み重なった資料の山、放りっぱなしのペンとインキ、明かりのついていない薄暗い部屋……人気はなく、物音もしない。早く来過ぎたらしい、やはり無駄足だっただろうか。

 ――と脱力しかけたところで、部屋の奥のあたりで人影が動く気配がした。

「えっ……! ナマエさん?」

 出し抜けにわたしの名前を呼んだのは、馴染みのある柔らかな女性の声だ。慌てて声のした方へ視線をやれば、そこにいるのは椅子から立ち上がってこちらを見遣るたしぎ姉さんである。紙束が死角になって見えていなかったが、どうやらはじめからあそこにいらしたらしい。しかしこんな朝早くから仕事とは、さすがたしぎ姉さん、出勤の時間もまじめ一徹だ。
 彼女は椅子から腰を浮かせたまま、気取られたみたいにぱちぱちと瞬きを繰り返している。そして時間差でハッとしたかと思うと、ばたばたとこっちの方へ(慌てたせいでいろんなものを引っ掛けながら)近づいてきてくれた。

「ナマエさん、おはようございます! 心配してたんです、お元気そうでなにより……!」
「あはは、ありがとうございます。すいません、色々気を遣わせちゃって」
「いえっ、そんな……私が心配したくてしていただけなので、気にしないでください」

 わたしの正面に立ち、思いやりの塊のようなことを言いながら微笑むたしぎ姉さんは、優しさの権化といっても過言ではない。その声色がどこか安心した様子なのは、多分わたしが彼女の想定よりも気丈だったからだろう。
 そんな簡単な挨拶もそこそこに、たしぎ姉さんは最寄りのデスクで雪崩れた書類を立て直しつつ、閑話休題と軽く首を傾げてみせた。

「それでナマエさん、どうしてこんな朝早くに? 先ほどスモーカーさんを探してらしたようですが……」
「ああそうです、スモーカーさんに会いにきました。実は昨日の晩にあの人と会ったんですが、ちゃんと話せないうちに、ええと……逃げられてしまいまして、それで」
「……! そうですか……スモーカーさんにお会いしたんですね」

突っ込んだことを尋ねてこないことからして、具体的なところはさておき概ねは察してくれてるのだろう。ありがたいことにわたしが濁した言葉には言及せず、たしぎ姉さんは困ったようにつと睫毛を伏せた。整えた紙の束に手を添えたまま、彼女は歯切れ悪く言葉を続けていく。

「けれど、その、すみません……。お話の場を設けたいのは山々なのですが、スモーカーさんは今日いらっしゃらないんです。島外への私用があると」
「な――」

 思わず耳を疑った。"島外への私用"って……あれか、要は有給休暇だろう。普段仕事に通い詰めのあの人が仕事を休んで、個人的な用事で、しかもマリンフォードの外へ今日に限って本部を出てるなんて――滅多にあることじゃない。無論わたしを避けるとしたらこんなあからさまなやり方は彼らしくないし、つまり何か別の事情だというのは察せられるのだが、だとすると一体……。
 そんな風にわたしの混乱する内情を察してくれたのか、たしぎ姉さんは慌てたように弁明を口にした。

「あっ、けれど、この件に関してはナマエさんを避けて行かれたわけでは無いと思いますよ。スモーカーさん、以前から予定されてたことですし」
「わたしもわたしが原因ってことはないと思いますけど、いつもは私用で出かけたりなんてしないじゃないですか。なんでまた……?」
「わたしも詳しいことは聞いていないんですが、スモーカーさん、毎年この時期には1日お出かけになるんです。朝早くに定期船の初便で出発されるので、陽の高いうちに戻られるのではないかと思うのですが」

 ……いよいよ都合が悪くなってきた。露骨に避けられた、と言うわけではないとはいえ、それにしたって今日、誂えたようなこのタイミングで、あの人がマリンフォードを出てるなんて、なんたる偶然――。
 ああいや、逆なのか。そういや昨日の晩、なんでスモーカーさんがわざわざ自宅に帰ってきたのか不思議だったのだが、あれは外出に必要な私物を取りに来た、と言うことだったのかもしれない。ということは、わたしを強引に寝かしつけたあのあと、スモーカーさんはすぐ港に向かったという可能性もある。だいぶ朝も近い時間だったしあり得る話だ。

「それじゃスモーカーさん、もしかして、もうマリンフォードにいないんですか」
「だと、思います。本島に戻られたとしても、本部にいらっしゃるかどうか……」

たしぎ姉さんに非はないのに、尻すぼみな声はものすごく申し訳なさげである。わたし、そんなに残念そうな顔をしちゃってるのかな。逆に申し訳ない。しかしそうなると追いかけようもないし、もう今日スモーカーさんに会うことは諦めたほうがいい、のだろうか。

 ……肩透かしを食らったような気分だ。それに、あまり思わしくない事態でもある。別に急ぎの用があるわけでもないし、今日じゃなきゃいけない理由があるわけでもないんだけど、でも……なんとなく、この機を逃してはいけないような気がしていて。
 思い返せば昨日のスモーカーさんはいつにも増して偏屈だったし、その上らしくなく自虐的で、わたしとのことを差し引いてもあまり冷静じゃないように見えたのだ。これはわたしの勘だけど、もしかするとあれはスモーカーさんの外出の理由とも関わっているのかもしれない。だとすればやっぱり、スモーカーさんが揺れているうちにちゃんと話し合うべきであるのは明白で、しかしわたしはその手段を持っていなかった。


「――まあ、こればっかりは仕方ないですよね」

 軽く笑いながら気にしていない風を装ってそう告げると、たしぎ姉さんは少し戸惑ったような顔をする。けれど実際、わがままを言ったところでどうともならない話なのだ、これは。

「いきなりアポも取らないで来ちゃってすいません、ほんと。急用でもないですし、また明日出直すことにします」
「で、でも……」
「実を言うと、今までわたし、スモーカーさんに会うのが怖かったんです。何かが変わっちゃってたらどうしようと思って……けど昨晩、そんなことはないのがなんとなく分かったんです。だからつい、その勢いに任せて来ちゃったんですが」
「……」
「とにかく、そんなに心配しないでください。まあ、結局スモーカーさんがあそこまでしてわたしと距離を取ろうとする理由はよく分からないままなんですけど――……たしぎ姉さん?」

 俯きがちになったまま、口を閉ざして反応を示さないたしぎ姉さんを見て言葉を切った。どうしたのだろう、握り込んだその拳は緊張しているように見える。彼女の表情を伺おうと下から覗き込もうとすれば、わたしの耳にふと彼女の声が届いた。

「スモーカーさんは、多分……怖いんだと、思います」
「え……?」
「ナマエさん」

彼女はいきなり面を上げ、はっきりとこちらを見据えてみせる。レンズ越しの、強い意志の眼差しをわたしに向けて、たしぎ姉さんは口を開いた。


「西の港の定期船に乗れば間に合うはずです」


 ――……定期船?

 いきなりなにを言い出したのだろう、たしぎ姉さん。理解が遅れて反応を示さずにいるわたしにも構わず、たしぎ姉さんはそのまま言葉を続けていく。

「そんなに本数はありませんが、この時間帯の定期便が一本あったと思います。それに乗ればすれ違わずに済むかと。今から本部を出れば問題なく乗れるはずです。あっ、乗船代お持ちですか? 切符が必要なんですが、もし無ければお貸しします!」
「お金は持ってますけど、あの、待ってください」
「なんでしょうか!?」
「へ、いや、その、……いいん、ですか」

なんだか妙にヒートアップしているんだけど、どうしてまたこんなに力んでいるんだたしぎ姉さん。どうやらスモーカーさんを追ってもいいということらしいけど、しかし本当に構わないのだろうか。だってわたしは保護対象で島を出るのにも許可が必要なご身分であるし、大体そこまでして必死になって後を追うのも、なんというか、どうなのだろう。

「駄目なわけありません! スモーカーさんにも文句は言わせませんとも、いい加減今回のことには決着をつけるべきしょう。それに私、スモーカーさんの行き先がどういうところなのか知っています。だからこそ今、追いかけてでも話をするべきだと思うんです」
「……スモーカーさんは、一体どこに?」
「墓地です。海兵の」

 墓地……? 聞いたことのない話だ。まず、スモーカーさんが毎年墓参りに行くほどに身近な人を亡くしたことがあるなんて思いもよらなかった。そりゃもちろん、彼らは海兵なのだし、そういうことがあるのは至極当然、ではあるのだが。

「マリンフォードを出て三つ目の小さな島です。停泊場所にある大きな石碑が目印にすれば分かりますよ。小さな島なので、そこに行けばスモーカーさんもすぐに見つかると思います」

 彼女のいう通りにすれば、スモーカーさんには会えるのだろう。しかしどうなんだ、わたし。それこそわたしがずかずか踏み込んでいいことなのだろうか。それはあまりにも、不謹慎だし、図々しくないだろうか。本当は慎むべきだと思う、けど……たしぎ姉さんはだからこそ話すべきだと言ってくれている。彼女の言葉を信じるなら、たとえ非常識であっても、スモーカーさんを追った方がいいのだろう。

 だから、それならどうする、わたしは――。

「どうしますか、ナマエさん」

 自問自答とたしぎ姉さんの声が重なって、そんな偶然に不思議な気分になる。たしぎ姉さんの顔を見やると、眼鏡の赤い縁越しに焦りの色が伺えた。

「急かすようですみません。けれど、行かれるつもりなら急いだ方がいいと思います。その、私は仕事を任されているので同行できませんが……」
「でも、わたし一人で島を出ると、立場的に……わたしはいいですけど、送り出したたしぎ姉さんが怒られたりしませんか」
「ふふ、心配しないでください、平気です。だって、帰ってくるときはスモーカーさんと二人でしょう?」

たしぎ姉さんは疑いもなくそう言って、それはそれは柔らかく微笑んだ。わたしは意表を突かれて、少し言葉に詰まってしまって、咄嗟に勿論です、と返事を返せなかった。けれど、彼女がそう言ってくれるのが理由もなしに嬉しいのは確かで、頭の整理はついてないままではあったけれど、いつのまにかこくりと頷いていた。
 そんなわたしを見た彼女は再び嬉しそうに笑って、さあ、とわたしの背をそっと押す。その手のひらが妙に暖かくて、なんだかついじんわりきてしまった。たしぎ姉さんはほんとうに癒しだなあ、などと今更改めて感じてしまう。

「行ってください。私は、……今までの、楽しかったあの関係を、失いたくないんです」

それは、わたしも同じ気持ちだった。ここまでたしぎ姉さんがお膳立てしてくれたのだ、もはや行かないわけにも行くまい。スモーカーさんがどうのとか気にしていてももう仕方がない。つまり、あれだ、たしぎ姉さんのためにもわたしは行ってやるぞ。
 それになんだかんだ言ったけど、こんな朝っぱらからスモーカーさんを追って飛び出してきた時点で、図々しいだのなんだのはもう今更な話なのかもしれない。あのたしぎ姉さんの言葉も気にかかっている。スモーカーさんは怖いんだと思う、という言葉だ。わたしにはよくわからないけど、たしぎ姉さんがそう思うならきっとそれは理由があるのだろう。それを知るためにも、わたしは行かなくちゃならない。無様に追い縋ってでも。

「いってきます、たしぎ姉さん」

 迷いも遠慮も振り捨てて、わたしは外へ向かう扉へと一歩、足を踏み出したのだった。



「あ、待ってください! ナマエさん、これを」

 そんなふうに勢い込んだところで、慌てたような引き止められた。さすがたしぎ姉さん、シリアスブレイカーの称号を差し上げたい。振り向いてみればたしぎ姉さんが差し出すのは、ドット柄のシンプルな雨傘だ。おそらくたしぎ姉さんのものだろう、丁寧に折りたたまれている。

「雨が降り出しそうなので。お節介かもしれませんが、体を冷やさないようにしてくださいね」
「……ありがとうございます」

ご好意に甘えてありがたく受け取ることにした。窓から見える空模様は、より一層重みを増して膨らんでいるように見える。まもなく降り出すだろうと、彼女の傘の柄を掴みながら考えた。

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