No Smoking


▼ 21-1/4

 午前6時過ぎ。

 ずしりと重い瞼を跳ね上げた。まるで全身の血が逆流したみたいに脈打っている。恐ろしく静かな空間に、ぜいぜいと荒いわたしの呼吸だけが響いている。前髪が額に張り付いていて気持ち悪い。ああ――

 ――また、良くない夢を見た。

 膜が張ったような視界の中に、カーテン越しの鈍い外光に照らされた天井が映る。一瞬知らない場所のように見えたそれは、明らかに見慣れた寝室の内装だった。壁紙の色合いも、室内灯の形状も、擦れるシーツの肌触りも、身に覚えがある。わたしの、部屋だ。

「……」

滲んだ汗を拭い、のろのろと上半身を引き起こした。どうも疲れが取れない。ここのところちゃんと眠れていないのか、夜を経るごとに酷くなる、この世界に来たばかりの頃のような寝不足が続いている。

「……痛っ」

うっかりベッドに突いていた左腕が、ジクリと痛みを訴えた。反射的に腕を引っ込める。その拍子に腕へ巻きついた包帯を目にして、わたしは自分の気が滅入るのを感じていた。ここ数日の付き合いでいくらか慣れてきたものの、なにぶんこの包帯、水回りの家事においては邪魔で邪魔で仕方がない。そのうえ無数の火傷は相変わらず腫れぼったい痛みを抱えており、包帯で篭る湿気はむず痒く、どうしたって不愉快なのだ。それは毎夜付き纏う、この冷や汗のせいもあるのだろうが。
 ベッドの上でくるりと向き直り、右手で背後のカーテンを引くと外はまだ薄暗く――いや、単に天気が悪いだけのようだ。このところしばらく晴れ間を見ていない気がする。まあ雨が降らないだけマシといえばマシなのだが。雨は、頭痛がするから好きじゃないのだ。

 重い足を引きずってベッドから抜け出した。寝間着を脱ぎ、引っ張り出した普段着に袖を通す。あとで包帯も変えないと……と思うのだが、自分で包帯を変えるの、苦手なんだよなあ。右手だけじゃうまくいかないってのもあるけど、火傷の痕跡をありありと目にするのは気分的に避けたいところである。それに中途半端にゆるいと余計に家事もままならなくなるし、やっぱり今から変えるのは諦めて、海軍本部に行ってから医療棟で頼むことにしようかな。
 そうしてなんとか着替えを済ませ、片手で髪を結ぶのは諦めたのでそのままに、リビングへ向かうべく冷えたノブに手をかけた。この扉を閉める意味も、今は大してないのだが。

 ――ドアの向こうは、やはり静かだ。寝室と同様に薄暗く、人の気配のしないリビングは、妙にだだっ広く閑散として見える。あの鼻に付く葉巻の煙も、香りも、そこには無い。

 朝とはいえ薄暗いので明かりを点けてキッチンに向かい、いつも通りに……そう、いつもの通りに、朝食を作る。違うのはただ、一人分ってことだけだ。出来上がった簡単な朝食をテーブルに並べ、作業的に口にして、食べ終わった食器をビニール手袋を着けた手で洗い流す。呆気ないほどすぐ済んでしまった。
 あとやることは何があったかな。意味も無く部屋をうろついて、手持ち無沙汰にリビングのソファへ腰を下ろす。と、誰もいないのに無意識で端へ座ってしまったことに気づいて居た堪れなくなり、何かを誤魔化すような気分でソファに上半身をひっくり返した。つま先でスリッパをいじりながら、霞がかった頭を巡らせる。

 洗濯物は一人分、まだ溜めておいてもいいだろう。

 食材は足りている、買いに行く必要もないだろう。

 あとは、掃除。けれど必要ないだろう。この部屋は、あの鬱陶しい匂いが、しないんだし。

「……」

 ため息をついた。

 最後にスモーカーさんと顔を合わせたのは、いつだっただろう。ずっと前のような気がする。実際は十日かそこらのはずだけど。いや、十日、は長いか。
 わたしがこの家に帰ってきてから、すでに三日が過ぎている。スモーカーさんは暫くここへ出入りすらしていないようで、どうやらわたしが眠り込んでいたときから外泊続きであるらしい。なにせ部屋に染みる葉巻の匂いは存外に薄く、数日使われていないと判断するのは容易だったのだ。だが、その理由は相変わらず不明瞭だった。ここへ来ても言伝らしきものは見当たらず、ただ合鍵だけは手元にあって、わたしの誂えた備品はそのままだから、追い出されてはいないと分かるだけだ。……それだけだ。

 スモーカーさんは、なにを考えているのだろう。意味もなく、理由もなく、こんなことをする人ではないのは知っている。けれど、いくら相手のことを知ってたって、頭の中身にまで見当がつくわけないじゃないか。自分の感情だって、今はままなりゃしないというのに。

 不安が募る。わたしは、ばかだ。なんの確証もないのに、今までどうして、あの人に厭われることはないなんて、思い込んでいたのだろう。離れてしまえばこんなにも不安になる。スモーカーさんの顔や、声を見聞きしていないから、良くない想像だけが肥大化して、押し潰されそうになる。そのうえ今の現状は、この悪い想像を否定してはくれないから、たかが想像だと思い捨てることもできずにいる。
 ああ、けれど、ここまでくれば確定的ではないか。わたしは現に、避けられているじゃないか。だけど、彼が何も言ってくれないから、避けられる理由も、わたしが何を言ったらいいのかも、どうしたらいいのかも、嫌われているのかも、呆れられているのかも、……何も、分からないのだ。

 そうだ。わたしは結局、期待していたのだ。スモーカーさんは根拠もなく、わたしを側に置いてくれると。支えてもらわなくて結構と、口先でばかり傾倒してないふりをして、いざ居なくなってしまえばようやく一人で立てないことに気づいてしまった。こんな風には、誰かの重荷になるようなことだけは、なりたくなかったのに。
 ただただ、自分の内面を突きつけられて、今更になって理解して、苦しい。いっそ拒絶の言葉のひとつでもあれば――あったとして、そのときわたしは、どうするのだろう?

 ソファに頬を沈めていた。深く息を吸い込むと、遠くの方でかすかに、嗅ぎ慣れた葉巻の匂いがする。その匂いに安堵してしまいそうになる自分に、ぞっとした。ばかか、わたしは。……なんだってんだ。

「……、」

鼻の奥がツンと刺すように痛い。自分が何をしたいのかわからない。今まで自分で消してきたこの香りを、求めて安心するなんて随分と皮肉だ。……無様だ。頬にしな垂れかかる髪の感触が揺れる。空回る呼吸で喉が震える。嫌なんだ、こんなの、は――

「スモーカー、さ……」

無意識に吐き出していた、くぐもった、縋るような自分の声に鳥肌が立つ。本当にばかなんじゃないか、わたしは。気持ち悪い。まるで依存だ。いかにも子供だ。こんなだから、あの人も、帰ってこないんじゃないか。どうしてこれほどまでに心細いのだろう。暗闇に怯えて眠れないわけはなんだろう。わたしは、ここに来る前は、こんなに頼りない人間じゃなかったはずなのに。


 やめよう。……動いていないと、どうしたって気が滅入ってしまう。


 乱暴に目元をこすって、外出の支度をすべく立ち上がった。本部に向かうには少し早すぎる気もするが、どうせやることもなし。医療棟にも寄るんだから、早すぎるくらいでちょうどいいかもしれない。一人で外に出るのは良くないと散々言われていたが、それはもう解決したし、というかそんなんに従ってたら普通に家から出れないし。それに、どうせスモーカーさんは……いや、どうでもいいか、そんなことは。
 準備を済ませて外靴に履き替え、玄関の戸を押し開ける。雲越しの陽光は眩しいが、やはり鈍い。曇り空に覆われた街並みはどことなく、灰を被ったかのように色褪せて見えた。

 施錠して歩き出す。

 息が詰まるのは、きっと天気が優れないせいに違いない。

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