No Smoking


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 空と海の境目が溶けて、混ざる、一面の青。

 わたしは、波の音を聞いていた。砂浜にめり込む素足が、生温い潮騒の感触を伝えている。わたしは、深い方へ、深い方へと、徐々に足を進めていく。ぼんやりした頭で、わたし、泳げないんだけど大丈夫かな……などと考える。けれど足を止める気はしなかった。そうして、くるぶしを飲み込み、ふくらはぎを浸し、海面の弾力は膝を伝って腿へと。

「――あ」

 ふと振り返ると、波打ち際に人影が見えた。一面広がる紺碧と、舞い昇る煙がいっそうコントラストを強調する白砂との境界に、スモーカーさんが立っている。

 ……ああ、そういやあの人、海には入れないんだっけ。それであんなとこで立ち呆けてんのかな。しかし海辺まで来といてあの様子、実に哀れだ。ここからどんな悪態を飛ばそうと反撃されることはないと考えると、なかなか面白くもある。とはいえあまり心配かけてもいけないし、戻ったほうがいいのかな。

「ちょっと待っててください、スモーカーさん」

と呼びかける。彼は頷きもせず、じっとこちらを見やっている。なんだろう、と不思議に思いつつ、わたしは腰近くまで浸かっていた海から上がり、びしょ濡れのままスモーカーさんに駆け寄った。

「いい天気ですね、スモーカーさん」

 スモーカーさんを見上げ、目を細めた。空の色の中、彼の白い輪郭と煙とが冴え冴えと映えて、少し眩しい。

「いやあ、わたし泳げませんけど、こうしてるとなかなかいい気持ちです。まあわたしは根っからの山派なので、川遊びのが好きなんですけど」
「……」
「それにしても、能力者は海に入れないなんて、変な話ですよね。スモーカーさんもつまんないでしょう。"悪魔の実"って、なんでそんなよくわからないデメリットがあるんですかね」
「……」
「あの、聞いてます?」

 スモーカーさんは、心ここに在らずといった様子で黙り込んでいた。反応がないのを訝しく思って、わたしは首を傾げつつ口を開く。

「どうしたんですか、スモーカーさ――」


 え、?


 バシャン、と砂浜にひっくり返っていた。背中が海水に浸されている。見上げれば、スモーカーさんがわたしの上に覆い被さるような姿勢で、砂浜に手をついていた。ようやく、押し倒されたのだ、と認識する。

「な、にしてんですか」

動揺して声が震えた。スモーカーさんは返事をしない。無言のまま頭に触れられて、濡れた毛先がおもむろに揺れた。

「海……入ってますけど、いいんですか」

スモーカーさんは、返事をしない。砂の付いた手がわたしの耳を通り、側頭部を撫で下ろしていく。

「あ、の」

首筋をなぞる指先のくすぐったさに眉をひそめ、少しだけ身をよじった。一体何を、と思う間も無く、もう片方の手がそうっと、わたしの首に添えられ、て――

「……!、?」

 ざぶん、と、耳に海水が流れ込む音がした。頬、目、鼻の順に、海面が上がっていく。息が、できない。スモーカーさんがわたしの首を、締めている。ずぶり、ずぶりと頭が沈んでいく。


「――あッ、……、っ……!」


ちかちかと視界が明滅する。スモーカーさんの顔が、ゆらゆらとぼやけては波紋の隙間に消えていく。喉を抑え込む彼の親指が、なまなましい死の感触を教えてくれる。

「う、……ッく、……っ」

「ナマエ」

 泡の弾ける音に紛れて、スモーカーさんがわたしを呼んでいるのが聞こえた。潮で満ちた耳孔ではほとんど聞き取れなかったけれど、スモーカーさんは"すまねェ"と――確かにそう口にした。

「っ、……、……」

必死でスモーカーさんの腕に縋り付いた。不思議と、やめて欲しいとは思わなかった。ただ、どこにもいかないでくれたら、それでいいと、思った。

「一緒に、いてください」

もがきながら、伝えようとした。なのに、わたしの肺から溢れ出す気泡は、一文字だって言葉にはならなかった。瞳から涙が溢れたような気がしたけれど、海に紛れたそれはあまりにも不確かだった。

 朦朧とした意識の中、スモーカーさんが労わるように、わたしの頬に触れる。一瞬だけ、瞼に彼の唇が優しく触れて、そのまま――


 ――ブラックアウト。








「――……」

 長いこと閉ざされていた瞼を起こす。膜を張ったような視界の中、白い天井が目に入った。……腕が痛い。

 妙な夢を見ていた気がした。いつもの悪夢と微妙に似てたけど……なんだか、ヘンな夢だった。夢の中にスモーカーさんが出てきたのか、今もどことなく、周囲に彼の気配が残っているような。
 左腕に妙に腫れぼったい感触とただれるような激痛があるので、右手を掛け布団から抜き取って、なんとか汗ばんだ額を拭う。しかしどこだろう、ここ。どうやら見知らぬベッドで眠っていたらしいが、夢を見ていたせいかまだ意識がはっきりとしないし、前後不覚に陥っている気がする。何がどうなってどこにいるんだろう、今、わたしは。


「――ナマエ? あんた、起きたのかい」


 うわ、めちゃくちゃびっくりした。布団から飛び上がらんばかりの勢いで声のした方に頭を向けると、ものすごく大量のお花を手入れしている物腰の柔らかな初老の女性――我が師、おつるさんが、驚いたような顔をこちらに向けていた。

「ど、……、……」

どうしてこんなところに、と口に出そうとしたのだが、長らくご無沙汰していた喉は掠れた音を紡ぐばかり。ゴホゴホと咳き込んだわたしに歩み寄り、おつるさんは水差しを注いだコップを寄越してくれた。

「焦ることはないよ、落ち着いてお飲み」

彼女に支えられて身を起こし、受け取ったコップで喉を潤す。噎せないように背をさすってくれるおつるさんの手のひらがじんわりと心地いい。水を飲み干して一息つき、わたしはようやく口を開く余裕を得た。

「ありがとうございます……。あの、ちょっと状況がわからなくて……ここは一体、というか、どうしておつるさんが?」
「ああ、そうさね、混乱するのも無理はない。ここは海軍本部の医療棟だよ」

 医療棟……いままで来たことがないせいでピンとこないが、どうやら海兵の病院みたいなものらしい。少なくとも危険はないのは確かだろう。おつるさんはわたしから空になったコップを受け取りつつ、自然な調子で言葉を続けていく。

「あたしは今ちょうど手隙でね……見舞いついでに花の手入れに来たのさ。他の連中も入れ替わりに来ているんだが、持ってくるだけ持ってくるんで気付いたらあの量だ。なにしろあんた、三日間意識がなかったんだよ」
「み……三日も?」

 予想以上の長さだ。流石に寝すぎじゃないかわたし。まあしかし、道理でなかなか状況が掴めないわけだよ。なにしろわたしの記憶は72時間分も飛んでいるらしいし、てかめちゃくちゃお腹が空いているのもそれでだったのか……ではなくて。
 肝心なのはわたしがそれだけの間昏倒するような出来事があったということと、どうやらわたしは、海軍の人たちにひどく心配をかけたらしいということだ。それもひっきりなしに見舞いに来させてしまうくらいには。

 一体何があったのか、未だ現実味の薄い三日前の記憶を手繰り寄せていく。記憶が途切れる前、確か……拐われたんだったか、わたしは。そうだ、段々思い出してきた。路地裏での通話、吐き気のする甘ったるい匂い、下衆な男たちの笑い声、テーブルの縁から滴る水滴、神経を逆撫でする男の顔、そして――。

 ああ、そうだった、この腕の痛みは。


「……何があったか、覚えているかい?」

 はっとして顔を上げた。わたしの顔を覗き込み、おつるさんが慎重に問いかけてくる。その眼差しはどうやら、心底からわたしを案じてくれていた。あんなことがあったのだ、刺激しないように気を使ってくれているのだろう。

「はい。……覚えてます」

 返事をし、わたしは火照った左腕を持ち上げた。見れば、手の甲から肘にかけて乾燥対策らしいテーピングに重ね、太めの包帯が柔らかく巻いてある。どれほど凄惨な火傷なのか、覆い隠されている今は想像もつかない。けれど、じくじくと皮膚の下を刺すような、未だ焼けついて残るこの痛みは――あの血も涙もない"根性比べ"の後遺症に間違いないのだろう。

 ふう、と息を吐き出した。腕を元の位置に下ろし、ぼすんと枕に頭を沈めて、軽く伸びをする。凝り固まった肩の関節がぱきりと音を立てた。

「わたし、生きてます?」

探るような目でわたしを見下ろすおつるさんに、小さく笑いつつそんな馬鹿げた問いを投げかける。彼女は一瞬呆気にとられたあと、わたしの晴れ晴れとした顔を見て、安心したように目を細めた。

「そうだね、思っていたより元気そうに見えるよ」
「あはは、今すぐご飯食べたいくらいにはピンピンしてますよ。……スモーカーさん、やっぱちゃんと助けてくれたんですね」

 妙に得意げな気分だった。煙草を押し付けられている間、何度か自分の選択を後悔しかけたけれど、それでもわたしは絶対に口を開きはしなかった。実の所やけくそだったとも言える。けれど、そら見ろ、やっぱりスモーカーさんたちはしっかりわたしを助けてくれたんじゃないか。一瞬でも諦めかけたわたしに喝を五千発くらいかましてやりたい。

 ともかく、よかった。わたしは無事生き残ったし、サカズキさんとの約束も守り抜いた。腕は痛いし根性焼きは痕が残るだろうけど、この痛みが勲章と思えばそう思い悩むことでもないだろう。何よりもう一度ここに戻ってこれて、心からよかったと思えた。


 布団に横たわったまま天井を仰ぐ。一度目を閉じ、開き、首をおつるさんの方へ傾けた。先ほど思い出したことについて、ひとつだけ聞いておきたいことがあった。

「……おつるさん、知ってたんですよね」

 突拍子も無い台詞だったが、おつるさんにその意味は伝わったようだった。そう、事件が起こる前のスモーカーさんの過保護っぷり、余所余所しいクザンさん、そしておつるさんの隊のお姉さんのことを考えても、きっと上層部の人は情報漏洩のことを知っていたのだろう。そして恐らく、あの人たちに、わたしが狙われていたことも。
 なんだかんだ秘匿されていた話だし、ともすれば聞かない方が良かったのかもと思ったのだが、彼女はあっさりと肯定した。もはや隠すことでもないのだろう。

「ああ、知っていたよ。とはいえ、あたしたちの見通しが甘かったせいでこんな結果になってしまったが。あんたに付けてたあの娘にも悪いことをした……」
「あっ、そうです、お姉さんはご無事でしたか」
「ああ、あんたの連絡のおかげでね。見舞いに何度かこの部屋にも来ていたよ。……しかし事情があったとはいえ、黙っていて悪かったね、ナマエ」

いえ、と首を振った。スモーカーさんの態度に不満がなかったといえば嘘になるけど、結局はわたしのためだったわけだし、今更文句を言う気はさらさらない。おつるさんは上品に微笑んで、枕に散らばったわたしの髪を柔らかに撫で付けてくれた。

「それにしても全く、あんたも大した無茶をしたもんだよ。勇敢を通り越して無謀と言うか……」
「はい、わたしもそう思います」
「おやおや、口の減らない困った弟子だねえ。ともあれ無事で、本当によかったよ」

 おつるさんが呆れたように、それでいて優しげな調子で呟いた。どうやら我が師匠にも随分心配をかけてしまったようで、申し訳ない限りである。多分たしぎ姉さんあたり、めちゃくちゃ胃を痛めているんだろうなあ。お礼と謝罪、ちゃんとしとかないと。

「すいません、……ありがとうございます」

それから特に、スモーカーさんには念入りに。あの人もなんだかんだ心配性なのだ、きっと何度か見舞いにも来てくれていたに違いない。三日も顔を合わせてないのだ、積もる話もあるだろうし。
 ん? そういえば、わたしが寝ている間スモーカーさん夕飯どうしてたんだろう。いや、そこは本人がなんとかするだろうけど、何よりもまず部屋の葉巻臭、まさか三日分とか言わないで欲しいのだが……。とはいえ文句も言えまい、色々と迷惑をかけたのわたしなんだし……しかし、ううん。

 とそこまで考えて、ふと先ほど感じたスモーカーさんの気配を思い出した。夢を見ていたとはいえどうにも現実味があって、実のところわたしはスモーカーさんがわたしの目覚める直前までここにいたことを謎に確信しているのだが、……おつるさんは何も言わないし、勘違いだろうか。

「あの、さっきまでスモーカーさん、いませんでしたか?」

 咄嗟に質問してから、少し後悔した。これでは、スモーカーさんが付いてくれていたのを期待してるみたいじゃないか。親鳥を求める雛かわたしは。とはいえおつるさんに心当たりはないようで、特に気にかける様子もなく首を横に振った。

「いや、あたしもちょうど来たばかりでね。もしかすると居たのかもしれないが、すれ違ったりもしなかったから可能性は低いだろう」
「そうですか。気配があったと思ったんですけど、わたしの気のせいですかね。まあ、葉巻の匂いもしませんし……」

 と言いかけたところで、出入り口のドアが開いたかと思うと、どさり、と荷物を取り落す音が部屋に響いた。言葉を切って視線をやると、床に散らばる追加の花束と、その向こうに立っていたのは――


「ナマエさ、ん……っ!」


 驚愕の表情がみるみる崩れ、珍しくちゃんとかけた眼鏡の奥で、見開かれた瞳が溢れんばかりに潤んでいく。しばらくぶりに見る、懐かしいその顔は、親愛なるたしぎ姉さんその人のものだった。

「おはようございます、たしぎ姉さん」

なるだけ、明るい声で笑いかける。今見てはっきりと分かった、たしぎ姉さんはわたしの元に、相当足繁く通ってくれていたらしいこと。彼女は眼鏡を押し上げてグイグイと目元を擦り、「今はお昼ですよ、ナマエさん……」と鼻声で呟くのだった。

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